歴史

2013年10月11日 (金)

古代的中華 中世的イスラム

  古代とか中世とか言う場合、それがどんな背景で定義されるのかを明らかにしなければならない。どちらも背景があって成立した政治システムであり、思想である。

 古代とは、文字があっても表現力が乏しく、教育制度が未発達で、多くの人民が父祖から生活技術を伝授されていた社会である。そんな古代でも、生活技術も社会制度も進化して行く。進化の末にローマ帝国や漢帝国があり、どちらも空前の発展を遂げた。ある意味優れた制度でもあった。進化の程度に応じて、それを牽引する家系と、進化に取り残される膨大な家系が出る。教育システムが家系に依存する以上、家系の優劣が強調される結果となる。優れた家系が、取り残されつつある家系を指導するのは、社会的正義になる。指導する家系が公徳心を持って、劣る家系を糾合し、全体の優位性を実現できれば、全体が比較としての幸福になる。古代では、指導的家系を貴族と呼んだ。貴族が集まって社会や生産技術の改革に取り組めば、それが貴族制国家になり一層の発展が望まれる。それでも教育は家族単位で実施される。貴族は自分が選ばれた人間である事を自覚し、生産労働から解放された自由時間を使い、自分達が守るべき思想を進化させる。古代の思想が優れている面を持つのは、その様な誇り高い人達が編み出した思想だからである。この思想はあくまでも貴族のためのものであり、一般人民は貴族の指導に従う隷属民であることが前提になる。

 中華世界は春秋戦国時代にこの域に達し、秦が中華世界を統一した時点で、思想的進化が止まった。国家間の競争を止めて思想的独善の世界に留まり、20世紀まで、古代を理想とする国家観を持ち続けた。皇帝専制は、貴族の頂点に皇帝を置くことが基本であり、多民族を帝国主義的に統治する必要上、単一民族とは比較にならない強い権威を、皇帝に付与してきた。つまり、19世紀までの中国は、古代国家だった。そこで発生する思想も、古代国家を維持する方便としての思想だった。

 中世は、そんな古代社会を打ち破り、人民の平等性を打ち出した世界である。イスラム世界では、教育制度が整備され、家系に拠らずに教育が受けられる。人民の平等意識が高まった結果の、革命があったのだろう。統治機構に王がいても、統一的なイスラムの価値観に従わなければならない。貴族的な家系の恣意的な横暴には、歯止めがかかっている。中性のイスラム世界が当時最も先進的であったのは、この社会的システムの優位性が発揮された結果だろう。中世は、個人が貴族に支配される集団の一員という存在から、個人であることを自覚した時代である。

 しかし、中世は、この個人の平等感を実現する為に、強力な宗教を用いた社会だった。日本や西欧を含め、例外なくその方向に走ったのは、古代社会の貴族制と共に、人類の普遍的な法則に見える。

 近代はその宗教性から人々を解放し、一層の個人主義を追及し始めた時代だと言える。宗教は平等をもたらしたが、多くの合理的ではない発想を、人々に強制した。そこからの開放である。近代を先導した西欧では、民族という小単位で感性の統合を図り、宗教的呪縛から開放されようとした。もっと大きな単位になると、不協和音が大きくなり、宗教に頼らなければ統合できないからだ。

 アメリカは、人々に無限の可能性を与える事によって不協和音を緩和し、西欧世界の民族の垣根を崩した。経済的な国力の増進は、その選択が間違っていなかった事を示した。第2次世界大戦後、西欧的な統合という垣根を、もう少し多元的な世界に広げる試みを実施しているが、未だ歴史が浅く、それが一層の発展を期待できることであるのかは分からない。昨今見えるアメリカの国内的不協和音は、この方向の発展に警鐘を鳴らしている様にも見える。必然のない方向性は、停滞と後退の原因にもなり得るからだ。

 脱宗教性を西欧が実現できたのは、キリスト教の不完全性が原因だった。その西欧キリスト教徒が、西欧的な民主主義を世界に広げる為に、キリスト教を世界に布教するという行為は、あまりに矛盾に満ちている。古代国家の域にも達していない民族にしか、受け入れられていないのは、それを示している。

 中華世界では、強引に宗教世界に入ろうとし、共産主義に走った。共産主義も一種の宗教でしかない。個人を解放する事はなく、より強い束縛の世界に閉じ込めようとする思想である。中華ではこの宗教活動と、中華世界への先祖帰りの勢力が争っている。不毛な権力闘争である。民族を分割しない限り、彼らの発展は見込めないだろう。

 イスラム世界では、トルコなどの様に、脱イスラム教を目指す国が現れている。彼らの努力を見守るしかないだろうが、彼らは発展を求めている。もう少し民族主義を取り入れるべきだろう。多くのイスラム世界では、まだ宗教的束縛を求める勢力が強い。イスラム教の完成度が高い事が、却ってそこからの脱却を阻害するというジレンマにある様に見える。

 翻って、日本を見ると、宗教的束縛は戦国時代に開放の方向に走っていた様だ。元々宗教が国家を支配する世界ではなかった。民族性が強かったからだろう。それ故に、西欧的民族主義に根差した民主主義は、抵抗なく受容してきた。キリスト教を受け入れる必要はなかったのは当然である。日本が今後推進すべき道は、多民族国家が共存する多元的世界だろう。民主主義の発展を望むのであれば、必然的方向になる。民族的交歓は望ましいが、民族的混濁は避けるべきである。左翼的世界国家主義は、あまりにも机上の空論的要素が強いから、避けるべきである。

 一部のマスコミや知識人が、中華思想の強い影響がある思考方法を、進歩的だと間違えて拡散している。気を付けるべきだろう。

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2013年3月23日 (土)

倭人の歴史観(歴史を文学にする民族)

 倭人伝と日本書紀は違う民族を記述している様に見えるほどに異なっている。これは日本書紀が倭人の歴史を記述していないことを示唆する。倭人伝は断片的で、そこから倭人像を描くことは難しいが、日本書紀との違いを検証し、日本書紀を書いた奈良時代の日本人像を検討する。倭人と日本人は異なる側面を持っている様だが、基本的には同じ民族だろう。

 百済と新羅の成立は日本書紀が書かれた奈良時代から400年近く遡る。日本書紀では百済や新羅の成立には触れず、日本が成立した時点で既に存在している国として記述されている。百済に対しては親近感が、新羅に対しては嫌悪感が一貫して示されている。新羅を建国したのは魏志倭人に書かれた弁韓人と辰韓人で、弁韓人は男女共に倭人の習俗である入れ墨をし、半島一番の文明人だった。彼らは漢系の言語を捨てて倭人語の文法を使い、倭人の習俗も一部受け入れたから、建国当初は百済より親倭的だった筈だ。倭人は当初百済と新羅を高句麗南下の楯と考え、彼らの国家存続の為に軍事援助し、時に中核軍として戦ったが、倭人は中華との間の緩衝国の存在を望んだだけで、海外領土を拡張する意欲は持っていなかった。韓・漢・濊民族が混住していた半島に、半島民族が育ったのは倭人の影響下での出来事だと言えるだろう。新羅に対する倭人の嫌悪感が高まったのは、半島が三国の均衡状態になって新羅が強勢化し独立色を強め、百済・高句麗連合に対抗して唐に接近した7世紀以降の事だろう。日本書紀はその意識を背景に書かれ、国際関係の変遷という歴史を無視した文学的書籍になっている。

日本書紀の視点は先ず日本の形成から始まり、天孫降臨、神武東遷、9代の天皇を経て10代崇神天皇から漸く海外の国が登場し始める。

10代崇神天皇7年、大物主命が夢に現れ「大田田根子に吾を祀らせれば、国内は平らぎ、海外の国も自ら降伏するだろう。」と告げた。

10年、四道(北陸、東海、西海、丹波)将軍が国内征討に出発し翌年地方の敵を平らげた。

65年、任那国が朝貢してきた。

11代垂仁天皇2年、任那の使者が帰国する折、天皇の下賜品を新羅人が奪った。

3年、新羅王子、天日槍が来た。

12代景行天皇12年~19年九州征討

27年 日本武尊 熊襲征伐

40年 日本武尊 東国征伐

14代仲哀天皇/神功皇后 9年 熊襲征討の途上で天皇が崩御した。

神功皇后は海の彼方にある未知の宝の国を目指して船出し新羅に着き、新羅王は戦わずに降伏した。高麗、百済も戦うことなく陣門に降り朝貢を始めた。

39年 魏志倭人伝によると 西暦239年倭の女王は大夫難斗米を洛陽に行かせた。

40年 魏志によれば中国の使者が詔書と印綬をもって倭国に行った。

43年 魏志によれば倭王は使者を送った。

 <百済も宝の多い国だと文学的な表現で記述されている。>

 新羅は嘘が多く、百済の貢物を奪い新羅の貢物と偽って献上したりする。

49年 新羅を征討した。百済は誠意を示した。

52年 百済は七枝刀などの重宝を奉った。

62年 新羅が朝貢しないので、新羅を討った。

66年 晋の文書に西暦266年に倭の女王が貢献したと記している。

 魏志倭人伝を引用し、暗に卑弥呼・台与は神功皇后の事だと主張している。魏志の些細な誤りを訂正し、中国文献を読み込んでいる事を示し、主張の確からしさを強調している。しかし魏志を読めば卑弥呼の時代(~248年)には百済も新羅もまだ建国されていないことも明らかで、日本書紀の嘘は簡単に露見する。

百済が中国の歴史書に現れるのは、東晋が百済王を鎮東将軍楽浪太守に任命した西暦372年になる。好太王碑文では、高句麗は百残(百済のこと?)と新羅を服属させていたが、391年倭が海を越えて百済と新羅を服属させたから、戦ったとしている。好太王は帯方でも倭人と戦い、当時の高句麗の戦う相手は専ら倭人や任那人だった。

百済は416年に宋から百済王の称号を授与されたが、所在は晋平郡晋平県(渤海湾西岸)で、当時百済は帯方郡と晋平郡に分かれていた。中間に楽浪・遼東郡を占拠した高句麗を挟むが、支配者が徴税と徴発権を主張するに過ぎない時代の人の移動は可能だったと思われる。しかし軍事的には不安定だから、5世紀頃に渤海湾西岸の領土は喪失した様だ。

倭が半島に武力干渉し始めた4世紀末は、新羅も百済も倭の後ろ盾を得て共通の敵である高句麗と対峙していた。高句麗の南下圧力が弱まると百済と高句麗は接近し、新羅はその連合に敵対して唐と同盟し、百済と高句麗を滅ぼした。倭人はこの状況に至って伝統政策の破綻・倭政権の危機を強く感じた。大義名分のない手段で権謀術数を駆使して半島を統一した新羅に、日本人は好感を持たなかった。日本書紀では、白村江の戦い、百済・高句麗の滅亡の悲劇を語り、新羅を一層悪役にする。しかしその後も日本は新羅と使節の交歓を続けている。滅んだ百済・高句麗に同情し、勝ち残った新羅に反感を持つという構図は、義経記に似ている。

新羅を蔑視し始めたのが7世紀以降であれば、日本書紀の著者にとっては百年程しか遡らない海外認識だから、日本書紀は貧弱な資料に基づいて書かれたことになる。倭人は既に対外交渉の記録を持っていた筈だが、それは日本政権に提供されなかった様だ。有力者の一部が権力に迎合して資料を提供する事があっても良さそうだが、ここまで倭人の事績の記録が隠匿されたのは、海洋倭人の守秘義務が列島内でも守られていたからだろう。世間を騙すには先ず身内からという意識が徹底されていたから、何百年も中国人に日本列島の地理認識を偽り続けられたと言えそうだ。それでも著名な天皇の事績は部分的に取り込んでいる可能性もあるから、最も可能性の高い雄略天皇の事績を検討してみる。日本書紀での雄略天皇の対外的事績は、以下。

雄略6年 呉国が遣使して来た。

7年 百済から工人を献上させた。

8年 呉国に遣使した。

この年 新羅王は倭から離反し高句麗と修好しようとしたが、高句麗の陰謀を知って、任那に助けを求めた。日本府軍は高句麗軍を迎え撃ち、激戦の末に撃退した。

9年 反抗的な新羅を討伐した。

10年 呉国から使いが戻った。

12年 呉国に遣使した。

14年 呉国への遣使が、漢織・呉織の工人及び裁縫士の姉妹を伴って帰国した。

20年 高句麗が百済と戦い百済を壊滅した。任那の熊津を与え百済を再興させた。

23年 百済王が死んだので、五人の王子の内の一人に筑紫国の兵500人を付けて国王にした。

この年、兵船を率いて高句麗を撃った。

 好太王碑文によれば、

391年 倭が海を渡って来て百済、新羅を破り、臣民にしてしまった。

399年 百済は倭と通じたので好太王は根拠地である集安から平譲に移動した。新羅が倭人に占拠され救援を求めてきた。

400年 5万の軍を率いて倭・安羅と戦った。

404年 倭が帯方に侵入したのでこれを討って大敗させた。

年期は合致しないが、熊津を京城に換えれば、起こった事は奇妙に一致し、雄略が好太王の南下政策と対峙した倭王に見える。但し、日本書紀の作者が、当時入手が容易だった好太王碑文の写しを参考に、雄略の事績を作文した疑いも濃厚である。

倭の5王が南朝に朝貢した記録がある。雄略天皇は宋書に記された最後の倭王「武」だとされる。武は「祖先は自ら甲冑を着け、東の毛人55国を征服し、西の衆夷66国を服属させ、海の北の95国を平定した。」と申告し、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓の諸軍事・安東大将軍倭国王に任命された。しかし倭王武が雄略の場合、中国の文献と日本書紀とは時期が合致しない。

宋の記録では、

413年 賛 朝貢 (東晋)

421年 賛 朝貢 (宋)

425年 賛 朝貢 (宋)

年不詳 珍 朝貢 倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓諸軍事・安東大将軍倭国王の称号を要求。

安東将軍倭国王に任命。臣下13人にも将軍職官位を要求し叙任された。

443年 済 朝貢 

451年 済を倭・百済・新羅・加羅・秦韓・慕韓諸軍事安東将軍倭国王に任命、ならびに上奏された23人を将軍や郡長官に任命。

年不詳 興 朝貢

462年 興を安東大将軍倭国王に任命。

年不詳 武は倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓諸軍事・安東大将軍倭国王を自称。

478年 武 朝貢 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓諸軍事・安東大将軍倭国王に任命(宋)

479年 武 朝貢 鎮東大将軍倭国王(斉)

502年 武 朝貢 征東大将軍倭国王(梁)

日本書紀を元に編年された歴代天皇の推定在位は以下になる。

15代 応神天皇270-310 年   16代 仁徳天皇313-399 年   17代 履中天皇400-405

18代 反正天皇406-410 年   19代 允恭天皇412-453 年   20代 安康天皇453-456

21代 雄略天皇456-479 年   22代 清寧天皇480-484 年   23代 顕宗天皇485-487

24代 仁賢天皇488-498 年   25代 武烈天皇 498-506 年  26代 継体天皇507-531

27代 安閑天皇531-535   28代 宣化天皇 535-539年  29代 欽明天皇 539-571

倭王「武」は最短でも在位478年~502年だから、雄略ではない。倭王武の上表文に書かれた「昔から祖先は自ら甲冑を着け・・・・」は祖先の事だから倭王武の時代に軍事行動が存在した必然はないとしても、日本書紀の天皇と倭の5王を同定する事は困難だ。

賛の時代に半島南部を支配していたから、好太王と対峙したのは賛かもう一世代前の倭国王になる。特別な天皇の事績だけでも記憶されていたかどうかの検証は、日本書紀の作者が好太王碑文の写しを持っていたとすれば難しそうだ。

 半島の歴史は三国史記に依拠しているが、三国史記の成立は12世紀だから、日本書紀より信用できるとは言えない。新羅は再三倭人の攻撃を受けるが、それと日本書紀との符合も却って疑わしい。三国史記の作者が日本書紀も参照した疑いがある。

 呉の国は他の天皇の時代にも登場する。呉とは南朝の事で、三国時代の呉まで含めて六朝(222年~589年)と呼ぶ。新羅嫌悪の事情から、呉についての認識は六朝末期の勢力を失い領土も狭まり、滅亡直前の状況と推測される。隋・唐の建国を知っている日本書紀の作者が、文献記録を活用せず口承や現況に基づいて日本書紀を書けば、南朝を重視しなくても不思議はない。

日本書紀に記述されている南朝との交渉は以下しかない。

応神37年、呉国に遣使し縫工女を求めた。使者は高句麗経由の道旅が分からず、高句麗王に案内者を付けて貰い呉に至り、呉の王から工女姉妹と呉織・穴織四人を貰う。

41年 呉国から四人の工女を連れて使いが戻った。

仁徳58年 呉国、高麗国、2国が朝貢して来た。

 呉への使者が陸路を使う想定である事は、日本書紀の作者が倭人の海洋活動を知らなかったことを示している。倭人は内陸日本人にも航海上の秘密を厳守していた事が分かる。呉からも文化を吸収した事を認めているが、機織と裁縫の域に留まり、漢字や仏教には触れていない。

唐の半島攻略政策で、倭人の伝統的安全保障政策は破綻し、新しい路線闘争で旧倭人勢力は凋落し、彼らの伝統は見捨てられ、彼らの歴史は彼ら自身が隠蔽したのではないだろうか。それでなければ何らかの記録が伝承されている筈だ。倭人も日本人も歴史を使って政権の正当性を論じる必要はなかった事は、日本書紀を見れば分かる。天皇の権威の正当性を真面目に主張したければ、「一書に曰く」などという異説を満載する筈がない。しかし読者が天皇の神性を疑うことは想定していない。先祖の記憶の及ぶ以前から疑われる事なく続いて来た「すめらみこと」の起源譚を文学にしてみたという印象が強い。古事記や日本書紀の作者は「すめらみこと」の起源を知らず、周囲もそれに疑問を持たなかった様だ。戦前までの日本では、すべての権威は天皇の任命によって効力を発したから、権力を握る経緯を表現して権力を正当化する歴史観は必要なかったが、奈良時代以前の日本人にも同様に必要なかったことを意味する。歴史を自由に話題に出来るという表現の自由が保障された世界で、古事記、日本書紀、源氏物語の文学が開花した。本人がそれと気付かないほど当たり前の倭人のこの伝統はかなり昔からあったのだろう。中華的歴史観は春秋戦国時代に発展し、司馬遷により体系化されたらしい。倭人は春秋戦国時代に大陸に出入りし、重臣を「大夫」と称して尊ぶ中華的習慣が強固に根付いた。その頃倭人の身分秩序観がある程度形成されていなければ、半島の人の様に中華思想に絡め取られてしまった筈だ。倭人の身分秩序観形成の時期は遅くとも弥生時代の早い時期、若しかしたら縄文時代に遡ることになるだろう。船員の組織は秩序が厳しいと言われるが、倭人が海洋民族であった故に独自の秩序観を早期に身に付けていたというのは、合理的説明かもしれない。

 以下は全くの推測だが、

 「すめらみこと」がこの様な政権任命者であり続けていたのであれば、江戸・鎌倉幕府は言うに及ばず、藤原氏の様な存在は常態であっただろう。それが嘗ては蘇我氏、物部氏、葛城氏であったかもしれない。国家的危機に陥ると天皇親政が待望されることは、日本人は明治維新という例で知っている。飛鳥時代も唐の半島政策が国家的危機意識を引き起こし、天智・天武天皇の親政が望まれたのかもしれない。更に遡ると、漢の武帝の朝鮮攻略を契機に倭人が混乱し、「倭国大乱」を引き起こし、皇族である卑弥呼の親政が実現したのではないかとも想像される。

奈良時代の日本人は倭人の秩序観を引き継ぎ、日本書紀では重臣達を「大夫」(だいぶ)と書いて「まえつきみ」と読ませ、後漢書や魏志に書かれた「使人自ら大夫と称す」という伝統を受け継いでいる。重臣を「大夫」と呼ぶのは中国の春秋戦国時代の風習で、その時代に倭人が中国の政権に近付いていた証となる。この呼称は平安時代以後も重い価値を持つ言葉で、今日でも東宮大夫(とうぐうだいぶ)という言葉が残っている。「だいぶ」は呉音で「たいふ」は漢音だが、「たいふ」は軽い特定身分として使う。

 漢字に呉音と漢音の別があり、仏典は呉音で読み、万葉仮名も呉音で発音される理由は日本書紀を読んでも分からない。倭人は後漢に朝貢した際に「自ら太白の子孫と謂」い、史記を読む者が居たことを示唆し、魏志に邪馬台国の役人は文章を読んだことが書かれている。その漢字伝来の事績を日本書紀の作者は知らなかった。誰かが伝えたというものではなく、交易していた倭人が自然に習得したのであろう。

歴史は繰り返されるとすれば、当時も百済の亡命2世、3世が、現代の在日の様に、日本の文化は半島を経由して伝来したと声高に喧伝しただろう。畿内の倭人の子孫も海外で活躍した世代ではなく、2世、3世になれば確信を持ってそれを否定する雰囲気もなく、日本書紀の作者は亡命百済人の主張に多分に影響され、現代史学会の様に事実を見失っていた可能性も高い。百済仏教が南朝系であり、百済人は呉音で仏典を読んでいたとしても、百済貴族が漢籍を呉音で発音していたかどうかは疑問だ。もしそうであれば、彼等は4世紀後半になって初めて漢字に触れたことになる。遥か遠方の南朝から渡って来た少数の人から学び始め、僅か1~2世紀しか経ていない時代に、千年近く漢字と接して来た倭人が百済人から文化を伝えて貰うというのは、あり得ない事である。倭人の古い文献を読んだ事がない日本書紀の作者は、海外に雄飛していた倭人の子孫とは別の系譜の倭人であった様だ。

 以上を総括すれば、日本書紀の作者は倭国時代の対外的な交渉の歴史を知らなかった。それでいながら、列島内の歴史は把握していたということもあり得ない。日本書紀とは、飛鳥・奈良時代の一般の貴族・官僚の認識の範囲内で作文された物語ということになる。

 紫式部日記に「帝は式部を日本紀の局と名付けた」と書かれているのは、源氏物語は日本書紀の様な架空の物語だという事を意味している。場面設定はその時代に合わせ、登場人物は架空の人だという意味だが、実は場面設定、つまり国際情勢も当時の認識の延長に過ぎない。現代人の感覚で言えば、戦国時代劇に共産中国、アメリカ合衆国、ドイツ帝国などが登場する状況になる。歴史を知らない人はそれが歴史だと錯覚する。韓流時代劇に興じる姿はこれそのものになるし、大河ドラマもこの範疇に入る。

古事記と日本書紀は、創作でありながら内容があまりにも酷似しているから、各々独自に創作されたとは考えられない。古事記は、続日本紀の宣命文より文型が古いとされるから、日本書紀より古く、日本書紀は古事記を参考に作られたのだろう。

 古事記は神代から推古天皇まで書かれている。日本書紀は推古天皇以後を独自に創作したかもしれないが、実は伝承されていない第2古事記が存在し、それは聖徳太子がヒーローの物語だったかもしれない。感覚的にはその方が確からしく、それが元祖源氏物語となる聖徳太子物語だったかもしれない。古事記の作者も総ての物語を創作したわけではなく、昔物語や伝承歌を繋げた物語を作ったのだろう。それらの物語に江戸歌舞伎の忠臣蔵ほどの事実性があったのかも疑問だ。これを歴史書として研究するのは馬鹿げているが、文学として研究する意味はある。例えば、盟神探湯に関する記述から当時の人々の秩序観を推定するとか、17条憲法から当時の役人の組織倫理を考察するとかで、子細に検証すれば当時の日本人も侮れない倫理観を持ち、今日の日本人特有の倫理観が既に出来上がっている事に驚く。これは日本民族に文学志向があったからで、歴史としての叙述は出鱈目で、歴史認識は見劣りするが、倫理観は他民族に負けない状況を作り出している。

全くの推測だが、古事記は宮廷の女官が書いたのではないだろうか。只の女官ではなく、巫女的な女官が神がかりして述べた話を後日筆記したのではないかと思われる。天皇の女性・親子関係の事績が余りに多く政治的な事柄が少ない事、話の前後関係に繋がりが乏しい事、時に挿話が意味なく子細である事、などの説明が付く。

日本書紀の作者は古事記の記事の前後関係を入れ替えてストーリーの齟齬を調整し、対外的な事績を適当に挿入し、多数の女官の神託を「別の神託」とするのは中華に対し外聞が悪いから、「一書に曰く」と体裁を付けたのではないかと思われる。推古天皇以後の第2古事記は、さすがに神託の継ぎ合わせではストーリーにならず、後世に伝わる事はなかったということではなかろうか。紫式部は本来「古事記の局」の筈であるが、物語の筋が整っているから「日本紀の局」と賞賛されたということではなかろうか。

 もう少し推測を極めると、日本人の文学思考は巫女の宣託が起源かもしれないという推理に辿り付く。巫女も周囲を説得する為には情に訴えながら、ある程度の合理性を備えた宣託をしなければならない。また、核心的なことを明らかに言ってしまえば、外れた場合の問題が大きいから、言葉を選ばなくてはならない。誤魔化していると思われてもまずいから、説得力も重要になる。この様にして育まれた情に訴える言語が、一方で和歌に進化し、一方で古事記に記載されている様な散文説話を多数生み出し、遂に源氏物語に到達したのではなかろうか。

中国人の歴史は、事実を克明に記録し、正史として編纂することかもしれないが、それが歴史を思想や科学にするわけではない。文学は事実ではないが、思考や感性を表現する上では中華的歴史認識より分かりやすく、心情的に納得しやすい。過去の事績や経験から倫理観を醸成するのであれば、文学の説得力の方が格段に有効になる。

歴史の国、中華と、文学の国、日本の違いを端的に表現すると以下の様になるのではなかろうか。

権力構造で支配する中華、支配力で勝負する日本。

(歴史観で絶対的権力構造が確立される中華、支配力のある者が天皇の任命を引き出す日本)

権力の由緒を求める中華、政治力を民衆にアピールする日本。

この権力の統治が一番良いと思わせる日本、権力によって中華世界は安定すると考える中国。

未来志向の日本(水に流せる過去に興味がない)、歴史認識の中国(過去の事績は永久不滅)

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2013年3月11日 (月)

倭人から見た朝鮮半島(中華と倭の境界)

古代の朝鮮半島を概観するためには、大陸にも注目する必要がある。後氷期の温暖化がピークを迎えた紀元前5千年頃、極東に4つの文明圏が芽生えた。黄河流域、南の揚子江流域、北の遼河流域、そして日本列島。黄河流域に彩陶を特徴とする仰韶文化、揚子江下流に稲作の河姆渡文化、遼河流域に趙宝溝文化、日本列島に環状集石群を持つ阿久遺跡(長野県原村)があった。朝鮮半島に櫛目紋土器が出現するが、4文明が特徴ある土器や遺物を残しているのと比べ、目立たない状態に留まっていた。

BC3千年頃、大陸の文明は権力の集積を示す段階に進み、黄河流域は龍山文化(BC3千年~BC2千年)に、揚子江デルタは良渚文化(BC3500年~BC2千年)に発展した。日本列島は縄文中期(BC3千年~BC2千年)の三内丸山、釈迦堂、尖石、長者ヶ原ヒスイ工房などへ発展したが、海洋交易という他者とは違う方向に向っていた。現在亜寒帯である遼河流域は紅山文化(~BC3千年)以降寒冷化の影響が厳しく、文明は衰退し始め、遼河文明の周辺地であった朝鮮半島では櫛目紋土器時代が続いた。朝鮮半島の森林は生産性が低く、農耕も確認されず、中華文明圏との交易を目指していた縄文倭人が興味を持つ地域ではなく、当時の交易品である装身具や威信財はこの時期の半島からは殆ど出土しない。

BC2千以降、更に寒冷・乾燥化が進むと遼河文明の担い手は、一部は内蒙古に夏家店下層文化を残すが、華北や山東に南下し、龍山文化や殷に影響を与え、特に龍信仰は中華文明全体に大きな影響を与えた。BC1500年頃から、嘗ての遼河文明地域の南端であった遼寧に無紋土器、支石墓が現れ、朝鮮半島にも広がる。農耕も始まったが、遼河文明の特徴が見えるわけではなく、北方民族が南下し住民が交替した疑いがある。

一般論として、穀物生産が原生地から人為的に拡散する場合、南方の生産者は雑草と格闘しなければならない。古代の農耕民には大変な労働で、拡散の大きな阻止力となった。北方や乾燥地への拡散はこの逆の状況が生まれ、品種改良により耐寒、耐乾燥種が生まれると農耕は有利に展開する。これにより最適農耕地は緯度的に帯状になりやすい。その他の要件も色々絡むが、気候が一定なら穀物生産の最適地は北上していく。

遼河流域は地球温暖化のピーク時には栽培していた雑穀の緯度的適地であった様だ。当時の満州や内モンゴルは現在より温暖で降雨量も多かったが、その後の寒冷化の速度が速過ぎて品種改良が追いつかず、穀物の生産性が低下していった状況が想定される。当時は土地の所有概念はなかったから、人々は農耕適地を求めて南下し、黄河流域に辿り着いた。

BC2千年以降、黄河流域では生産性の高い小麦の生産が広まり、アワ、キビ、大豆との混合農業と家畜飼育の普及で農業生産性が高まっていた。寒冷化したとは言え現在より温暖な黄河南部では稲作も実施された。低緯度地帯の寒冷化・乾燥化は緩慢で、緯度が大阪と同じで暖かい黄河流域の洛陽や鄭州の農耕民には南下圧力はなく、生産性の高い小麦生産地に、稲作の北限が重なる農耕適地として中華文明を統括する地域になり、夏王朝に比定される二里頭遺跡(BC1800年)や、殷王朝初期の二里岡遺跡に発展した。

鉄が普及する以前は、乾燥地の天水農耕による小麦は生産性が高かった。揚子江流域や日本列島の稲作は、生産性の優越には湿った重い土壌の耕作や灌漑設備を必要とし、鉄器の普及を待たねばならなかった。

その頃の朝鮮半島は、当時の稲作には寒過ぎ、麦や雑穀には湿潤過ぎる地域だった。更に湿潤温暖な日本列島には堅果類が豊かな森林があり、漁が容易な湖沼が多く、縄文人は海産物を得る漁労という手段を持ち、人口を養っていた。西日本では焼畑による陸稲や雑穀の栽培も始まり、一説では東北地方でヒエの栽培も始まっていたが、鉄器を持たない焼畑農耕は重労働で生産性は低く、西日本の人口は多くなかった。

中華文明が確立していたBC千年以降も朝鮮半島で何が起こっていたのか良く分からない。気候は更に寒冷化し、現在の状態に近くなっていたと思われ、雑穀栽培が始まっていた。現在の気候はケッペンの気候区分から読み取れる。

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C は温帯区分、D は亜寒帯区分。亜寒帯は最寒月平均気温が-3℃未満で、降雪があれば根雪になる。f は湿潤、w は冬乾燥、aは最暖月平均気温が22℃以上、bはそれに満たないことを示す。東京・大阪・九州・揚子江流域はCfa(黄緑)で、青森はCfb(水色)、北海道は概ねDfb(空色)だが、札幌だけDfaとする説がある。北京・瀋陽・ハルビン・ピョンヤン・ソウルは湿潤大陸性気候Dwa(灰色)で、現在は春まき小麦生産地だが、古代は雑穀栽培地で、半島南端はCfaで稲作可能な地域だった。

文献資料はBC1世紀を記録した漢書地理誌と、AD3世紀を記録した魏志東夷伝を待たねばならない。既に鉄器時代になって久しいから、旧石器時代を想像するのは難しいが、青銅器時代はある程度の推測がつく。漢書地理誌によれば朝鮮半島北部の楽浪郡は、漢末のピーク時の人口は6万戸、40万人だった。魏志東夷伝によれば、半島北部から中国東北部は濊と呼ばれる民族の地で、少数の漢民族が濊を地域的に分断支配し、扶余、高句麗などの地域政権を保持していた。最も文明化していた扶余は葬儀の際に時に数百人も殉葬して厚く葬り、殷の暦の正月に天を祭るとされ、殷の遺民が建国した様に見える。殷の系譜である箕子朝鮮が滅んだのは秦末の混乱期(BC4世紀末)だが、箕子を名乗らず他所からの亡命者とし、魏志の作者が記載をためらう由緒が語り継がれていた。殷の滅亡時に王族を迎えた殷の後継国とする類の伝承だったと推測される。魏志の編者は怪しげな伝承は採用しない合理性を持っていた。

高句麗の支配階級は、石を積んだ塚で墓を作り金銀財幣で厚葬するとされ、扶余とは習俗が異なる。周代以降の亡命中国人が建国したのだろう。略奪を好むが民衆は必ずしもその尚武的気風を好んでいなかった。

東沃沮では大きな箱を家毎に作り死者は次々そこに入れ、木で像を作って外に置くという別のローカルな習慣があり、別の中国系移民が征服した痕跡かもしれない。

濊と呼ばれた地域では死者が出るとその家を焼くと書かれているが、墓制は書かれていない。

鉄器時代に入ると半島の支石墓は廃れたらしいが、上記の事情を考慮すれば、鉄の武器を持った中国人に地域単位で征服され、異なる征服者の習俗に染まったが言語は変わらない民になったらしい。中国人が鉄製農具を持ち込んで支配者に納まったのであれば、単なる武力征服ではないが、征服者の数は言語が残らないほどに少数だった様だ。

濊は複数の中国人に征服され、分断されているから、青銅器時代の濊はあまり文明化されていない民族だった様だ。龍山文化に合体し、殷の一部を担った遼河文明の担い手と濊に関係があったという証拠は見当らない。韓族は元々楽浪郡にも居たが、AD2世紀末に楽浪郡が衰えると中華の統治を嫌って馬韓に逃げ込んだ。濊は韓族の土地にも南下し楽浪郡にも居た。無紋土器・支石墓を広めたのは、半島北東部は濊、半島北西・中西部は韓だったらしい。

魏志の時代、半島南部は、馬韓に韓族、辰韓に漢系、弁韓には倭人の影響を受けた別の漢系が雑居していた。韓族にも嘗て漢人支配者が居たが、既に王統は失われていた。韓は濊より未開状態で王国を維持する意識がなく、小さな「国」と称する集団に分かれていた。魏志では韓族の人口は10余万戸としているが、これは過大見積だ。中国人は半島南半の事情を知らず、倭人に騙されていた。日本列島は容易に行けない遠方にあると思い込ませるため、馬韓は広く、韓族の人口が多いと詐称されたが、実際の馬韓は3万戸程度だったと推測される。前漢最盛期の楽浪郡でさえ6万戸だから、広くない馬韓に韓族が10数万戸も居る筈はないが、半島南部を実際の10倍の面積と思い込まされていたから、魏志の作者も納得したのだろう。

前漢の武帝が朝鮮に4郡を置いた時、その一つである真番郡は半島南半分にあったとか、半島南端まで真番郡だったと主張する人がいるが、それはあり得ない。郡になれば軍隊が派遣され、距離や方向は軍事の要だから正確な知識を保有していなければならないのに、半島南半に関する魏志の距離記述は全くの誤り状態にある。また、半島南部を知っていたら、漢書に「倭人は楽浪郡に海から来る」とは書かず、「倭人は韓国の南と日本列島に海峡を隔て分居している」と書く筈だ。従って、中国人は半島北半しか統治した事はないと言える。

辰韓の中国系移民は秦の労役を逃れて来た人達で、楽浪郡の中国系移民と同類との出自伝承を持っていたが、弁韓の中国系は出自が不明だ。稲作と養蚕を行い上質の絹布を織り、韓族と違って牛馬を使い、男女の中華的区分があり、楽器を使い音曲もある。倭人を除く東夷一番の文明人で、男女共に倭人の様に入れ墨をしている。この人達は稲作で有名な松菊里文化の担い手の末裔の筈だが、松菊里は馬韓にあるから、松菊里時代には弁韓人が馬韓に居て、韓族はもっと北の楽浪郡となる地に居た事になる。弁韓人はその後の寒冷化で半島の南端に集まり、韓が南下して来たのだろう。松菊里は青森・秋田に近い気温だから、青森の田舎館村垂柳遺跡(BC3世紀~1世紀)の水田遺構の様な運命を辿った筈だ。全羅南道には、北方式と違う支石墓群(南方式)がある。これは弁韓人の初期の墓だと思われる。

北九州の原山支石墓群は縄文時代末期だから、遼東半島辺りから直接伝播したことになる。遼東半島での交易中にこの墓が気に入った縄文人が居たのだろう。糸島支石墓群は弁韓人が北九州に居住していたのか、弁韓式が気に入った倭人が作ったのかは分からない。両方あり得る。

魏志は弁韓について、「国々は鉄を産出し、韓・濊・倭の人々は皆この鉄を取る。商取引にはこの鉄を銭の様に使い、鉄は楽浪・帯方郡にも供給される。」と書かれているから、弁韓人は盛んに製鉄していた。弁韓人が製鉄技術を持ち込んだのであれば、彼らが来たのは中国で鉄器が普及し始めた戦国時代(BC5世紀)以降になり、松菊里遺跡の水田稲作もそれ以降になる。稲作を日本に伝えたと言いたい韓国人が、松菊里の水田跡はBC8世紀だと主張するのはおかしいということになるが、若しも、弁韓人が稲作民としてBC8世紀に製鉄技術を持たずに半島南端に来たとすれば、製鉄技術を持ち込んだのは倭人で、弁韓人は倭人から製鉄技術を習得したことになり、この場合、倭人が最初に製鉄を始めたのは半島ということでは不自然だから、日本列島の製鉄はBC3世紀以前に始まっていたことになる。今のところどちらであるという証拠は無いが、それ以外の状況を設定するには事情を複雑に組み合わせる必要があり、現実的ではないだろう。

考古学者は朝鮮半島から遼寧式青銅器である銅剣、銅矛が文明の様に日本に伝わって来たと主張するが、どの民族が伝えたのだろうか。倭人に敬意を払って入れ墨していた弁韓人しか考えられない。彼らが製鉄と一緒に青銅器の製作技術を持ち込んだという事はあり得る。しかし彼らが北九州の倭人の求めに応じて遼寧式青銅剣や矛を作ったとしても、弁韓人は遼寧や半島と宗教は共有していなかったから、単なる器機の委託生産者に留まった筈だ。珍しい威信財として交易されたものの流通と文化の流れを混同してはいけないと思う。

北九州は銅剣銅矛文化圏だが、銅鐸の複雑な器形を実現する高い鋳造技術を持っていた畿内に比べ、形が単純な剣や矛の鋳造技術はそれほどでもないと思われる。墓に威信財を埋葬する習俗を持った北九州は考古学的に文化が高い地域に見え、その習俗を持たなかった畿内は、考古学的に遺物が貧弱に見えるという構図があるのではないだろうか。銅鐸の鋳造技術は江南由来で、北九州の鋳造技術は弁韓人由来であったと思われる。BC1世紀頃からの寒冷化で先進工業地だった遼寧は壊滅的打撃を受け、楽浪郡は鉄を遼寧からではなく、弁韓の蛮族から供給を受ける羽目になったという事だろうか。

畿内の先進的邪馬台国は後進的九州が黄河流域との交易にこだわっていた事をどう評価していたのか考える必要がある。邪馬台国が黄河流域との交易に傾斜することを、縄文時代から江南交易の本流だった関東・東海の狗奴国に咎められた可能性があるだろう。邪馬台国が魏に朝貢することは、狗奴国の江南交易をやりにくくしただろう。魏から見れば、邪馬台国に肩入れして狗奴国との諍いを有利にさせることは、魏と呉の代理戦争での勝利だと解釈していたのだろう。

少し脱線するが、縄文人が日本列島に水田稲作の導入を試みる場合の最初の地を選ぶ場合、最も暖かい九州南部で細々始めるのではなく、北九州の平野と半島南岸とした可能性を考えることもできる。地理的に中国大陸に近いからで、非科学的根拠ではあるが、初めて試みる縄文人にとって重要な論拠だったかもしれない。江南から稲作を導入するのに、船の経路である南九州をパスした理由があっただろう。

半島南端での水田稲作と製鉄のために連れて来た弁韓人は、気候が近い華中出身者だった可能性が高い。九州は江南より気温が低い事を承知していれば、その選択が合理的だ。華中の斉の人であった徐福の類の人の流れが春秋戦国時代から続いていたとすれば、話としては理解しやすいし、徐福の行き先は弁韓だった可能性もある。佐藤洋一郎氏の遺伝に関する主張と歴博の炭素年代測定を勘案すれば、半島南端に徐福の類の人が来るはるか以前に、日本列島では水田稲作に成功していた。釜山より北九州の方が暖かく、労働力も豊富だった筈だから、当然だ。

以上を踏まえ大雑把に、BC2千年頃から一貫して寒冷化が進み7世紀に寒冷化のピークを迎え、半島には北から民族の流入が続いた前提で半島の歴史を類推してみる。

櫛目紋土器を使っていた人達はBC2千年頃に北から来た韓族に圧迫されて半島南部に閉塞し、北九州の縄文人と交流して漁労民となり、辰韓・弁韓に漢系の農耕民が流れ込むと再度圧迫され、最終的に済州島に逃げ込んだと考えるのが合理的に見える。

BC1千年頃、濊族は満州や半島北部に南下して農耕を始めていた。韓族は濊族に北から圧迫されて半島中部辺りまで南下した。半島南部は湿潤で、石器を用いた雑穀農耕の適地ではなかっただろう。

BC4世紀頃、中華世界の動乱の中で中国人が濊の諸地域を征服し、扶余、高句麗などを政権化した。漢人の難民も半島に入植した。韓族は濊と漢人に圧迫されて馬韓に南下し、半島北半分は濊と漢人の地となった。

その頃、製鉄や造船などの技術導入に暗躍していた倭人は、華中の製鉄稲作民を半島南岸に海路送り込んだ。ドラマになりそうな事件の処理として何処かの部族を運んできたのだろう。倭人にとっては初期の移民ビジネスだったかもしれない。彼らは半島南端で倭人の属民になって稲作と製鉄を始め、帰服の証として入れ墨など倭人の習俗の一部を取り入れ、一部は農地を求めて松菊里にも拠点を設けたという辺りが確からしい。

漢の武帝の半島北半の征服により濊も韓も南に圧迫され、韓も一時北から逃れて来た中国人の支配を受けた。前漢末気候が寒冷化し、弁韓人は馬韓での稲作を放棄して弁韓に逼塞し、馬韓には北から濊と漢人に圧迫された韓族が南下流入し、辰韓には楽浪郡からの漢人難民が流入し、弁韓人とは同じ漢系としての交流が生まれた。

 以上、新石器時代の朝鮮半島を概観したが、中華文明の先進地と交易していた倭人にとって朝鮮半島は興味ある交易相手ではなかったと思われる。しかし鉄器が普及し、向上した農業技術が伝播すると半島に多数の人間が流れ込み、南下して来る。そうなれば狭い朝鮮海峡を挟んだ対岸の日本列島に移民が流れ込み、中華政権の影響が及ぶ恐れが発生した。

楽浪郡が設置された頃から倭人には半島の南半分を勢力圏にしなければならないという意識が芽生え、具体的な行動に入ったと思われる。伝統的な手段は中国人に偽情報を流し、日本列島は大陸からはるかに離れた絶海中にあるから往来できないと思わせる事だが、軍事行動で半島南半を支配し、中国人を寄せ付けないという手段も視野に入った。漢が衰えても幽州を支配していた公孫氏は楽浪郡から帯方郡を分割し、高句麗も強勢化し、共に南下の姿勢を示していた。

邪馬台国統治の成立前、倭国大乱があったとされるのは、この事態への対処方法を巡る混乱だった可能性がある。これは奈良朝が成立する前の、白村江の戦い以後の混乱期と対比出来るかもしれない。日本列島を統合し武力対決姿勢を示すのは望ましい手段だが、誰がどの様に統治するか、話合いでは決着が付かないのは時代を問わない普遍事項だ。卑弥呼や台与が奈良朝の女系天皇と同じ役割を演じたとすれば、公孫氏や魏に朝貢して宥和を図る勢力が、卑弥呼を担いだ可能性がある。狗奴国はそれに反対する勢力だったとしても、必ずしも地域対立ではなかった筈だ。

暫く宥和派が勢力を維持し、やがて国粋派が台頭するのも良くある話で、武断的なヤマト権力が成立し、半島に出兵した。鮮卑族が華北に侵入して西晋王朝が滅亡し、満州に靺鞨が侵入して扶余が滅亡すると、北からの軍事圧力が弱まり、武闘派に有利な情勢下で、馬韓に百済、辰韓に新羅という友好勢力を育成した。百済は扶余の遺民を帯方郡に傭兵として抱え、韓族統治を委任した勢力で、新羅は入れ墨までして倭人と親和的だった弁韓と、彼等と親和的な辰韓の漢系移民を統治する勢力であった。韓族は自己統治出来なさそうだったから、扶余の遺民を呼び込んだのだろう。この経緯は「倭人伝に見る日本(宋書)」に書いた。当初は高句麗が強勢で、実質的には高句麗と倭国の戦争だったが、倭人の目的はあくまでも半島南半分の軍事的優勢を確保し朝鮮海峡の安全保障を守ることだから、高句麗は中華帝国と親和的ではないということが分かれば、倭人は無理に高句麗と戦う必要はなく、やがて停戦協定が結ばれただろう。倭人が、農業生産に乏しく交易の利益が薄い土地に領土野心を持つ筈はないだろうから。

半島の三国は倭人と関係なく、自国の覇権の為に争い続けた。倭人内部に百済派と新羅派が生まれ、海を通して行ける高句麗と親交を結ぶ者も現れただろう。

新羅は成立過程が分からない国だが弁韓を母体とした国だから、日本的な要素を多分に持っていた。中華的父系制が失われて庶民は姓を持たず、王族は近親婚で血統を守り、時に王族の女が女帝になる。衣服も倭と似ていた。元漢人だから父祖の言葉はシナ語族的なSVO言語の筈だが、新羅語を元祖とする今日の朝鮮・韓国語が日本語と同じSOV言語なのは、倭人語の文法を取り入れたからだと考えられる。現代韓国語は弁韓語彙の中華訛りを基礎に、新羅の半島統一以後韓・濊の言葉と混合し進化し、現代日本語とはかなり違っているということだろう。

百済には半島の貴種である扶余の遺民だというプライドがあったと思われる。隋に申告した建国の歴史にそれが現れている。魏志によれば、扶余には殷王朝の系譜伝承があり、倭人は殷に親和感があった故に扶余にも親近感があり、馬韓の経営を任せたのだろう。

魏志に、倭人は骨を炙って割目の形で吉凶を占う。その方法は中国の作法に似ている(令亀法)と書かれ、殷の習俗を受け継いでいたらしい。卑弥呼の墓に奴婢百余人を殉葬したが、東夷でこの習俗を持っていたのは扶余だけだった様に書かれている。殷では王の墓に多数の人間を殉葬したことが知られている。殷では女性の発言力が強く、婦好という女傑を生んだが、男女の区別がない倭人の特徴と似ている。魏志に記す倭と、殷の共通点で、扶余には無いものがあるから、倭人は扶余を通して殷の習俗・宗教を学んだのではなさそうだ。倭人は海の交易者であり、殷人は商人の元祖だから、宝貝の交易で両者が密接な関係を持ったと推測され、関東縄文人のミトコンドリア遺伝子解析で、漢人系が見つかるのはその名残ではないかと思われる。

新羅が半島を統一することに倭人が異を唱える必要はない。この観点で新羅の半島統一のドラマは分かりにくい。百済と新羅いずれかを選択しなければならなくなった倭国として、一応百済の応援をして唐と戦い、最終的に新羅の半島統一を是認したが、敗者に優しい日本人は、日本書紀で百済の顔を立てたという事だろうか。

朝鮮半島の民族独立意識は、倭人が半島を中華帝国と日本列島間の緩衝国として育てた必然の結果かもしれない。日本は必要に応じて半島の人々を援助する必要があるだろう。その文脈では日韓併合後の半島振興は正しい判断で、戦後の半島の独立は旧来の状況に戻ったことになり、日本にとって望ましいことになる。多少の不都合は我慢して半島の人々の国威発揚を援助するのは伝統政策の延長上にあることになる筈だ。

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2013年2月19日 (火)

日本人を形成する人種(極東の海洋は倭人の海だった)

縄文時代、弥生時代、古墳時代、倭人は大陸の人達に日本列島の地理と航路を秘密にし、列島周辺の海洋を独占していた。そのためこの時期に他民族が、民族移動として列島に侵入する事はなかった。男性の出入りの軌跡はY遺伝子から見当が付くので、その状況を検証する。

現代日本人のY遺伝子構成は周辺民族との共通性に乏しい。

本土日本人は D2が4割、O2bが3割(大半はO2b1)、O3が2割弱、 C1、C3、Nが数%

アイヌの人は D2が9割、C3  が1割、

沖縄の人は D2が6割、O2bが2割強、O3が2割弱。(O2b中のO2b1比率は不明)

D2は日本人独特の遺伝子で、日本以外のどこにもいない上に多数の変異を内包しているから、旧石器時代から列島にいた事が分かる。O2b1はD2ほど多くの変異を持っては居ないが、やはり長い歴史を持ち、韓国と東南アジアに少し居る以外はどこにも居ない。O3は中国北部に多く、C3はシベリアに多い。D2、O2b、O3、C3の流入イベントを検証すれば、日本人男性の95%はカバーする。

1万5千年前の日本列島にはD2の人達しか居なかった。当時は氷河時代で、海面は現在より140mほど低く、北海道は樺太・シベリアに繋がっていたが、他の人種は来なかったか、来ても排斥された。暖かくなり始めた1万4千年前頃、C3の人達が北から来た。現在でもバイカル湖畔にはC3が多く、シベリアで氷河期にマンモスハンターと呼ばれた人達の子孫だと推定される。同時代にベーリング海峡を越えてアメリカ大陸に移住したから、気候変動により移住を余儀なくされた時期だったと推測される。北海道を始め、この時期の日本各地の遺跡に細石刃と呼ばれるシベリア起源の石器が発見され、C3の人達の軌跡が確認できる。D2とC3の人が混ざり、アイヌの原型となる人種が出来た。

氷河時代が終わる1万3千年ほど前、O2b1の人が土器の製作技術を持って南から日本列島に来た。氷河時代に針葉樹林だった日本列島は、南から落葉広葉樹林や照葉樹林が広がり始め、堅果類が採れる樹木が茂る様になり、それに依存する人としてO2b1が北上して来た。堅果類は加熱調理しないと消化しない澱粉質の食料だから、それを食料とするためには土器が必要になる。地球が温暖化しつつあるこの時期に加熱調理用土器は南から伝わるのが順当で、北海道や半島から伝わってくる道理はない。氷河時代には東シナ海は大半が陸地で九州より暖かく、現在の日本列島の様に落葉広葉樹林や照葉樹林が広がっていた。地球の温暖化と共にその地の人達が北進して日本列島に移住するのは、海が無ければ自然な事だったが、現実には海が日本列島と大陸を隔てていた。氷河時代には東シナ海大陸と九州の間の海峡は狭かったが、九州が落葉樹の森になり始めた1万4千年位前から温暖化と共に海面が急上昇し、大陸が水没し始めた。長崎県にある日本最古の縄文遺跡泉福寺洞窟は12500年前頃と推定される。当時海水面は氷河期から60m上昇し、現在より80m低かったが、人が移動したのはそれ以前の事になる。当時五島列島と九州は陸続きだった。東シナ海大陸の海岸は現在の中国と九州の中間辺りで、そこから岬の様に北東に突き出た半島の先端に、現在の数倍の広さの済州島(当時は山)があった。済州島と朝鮮半島の間には狭い海が湾入し、そこに黄河や華中の河など現在渤海と黄海に注いでいる河がすべて流れ込んでいた。済州島と五島列島の間の100kmの海を渡れば日本に着くが、間に島はない。洪水や嵐で海に押し流され、海流に乗って日本に流れ着いたという想定が尤もらしい。

O2b1はO2bの中の特殊な人達という意味で、人口が多いからO2b1として特出ししているのだから、流れ着いた元祖の人は極少人数だったのだろう。ある家族が流れ着いて子孫を増やしたという単純な話ではなく、何千年かの間に何百という男女が流れ着いたが、広葉樹林が未成熟な時期には時期早尚ということで定着できずに死滅し、適切な時期でも配偶者が見つからなければ、子孫を遺す事はできない。幸運な男女ペアが核になり、その後の漂着者の一部を拾い上げて子孫を遺す事に成功したという事ではなかろうか。温暖化が進展して東シナ海が拡大すると、もう生きて漂着する人は絶えたという状況が尤もらしい。

東シナ海大陸で日本の縄文時代風の生活をしていた人達が九州に上陸し、日本列島の縄文時代が始まった。この人達の故郷は現在水深100mの海底だから、遺跡は発掘できない。後で理由を説明するが、この人達は海洋の航海は苦手だったらしい。この人達は縄文早期に鹿児島の「上の原遺跡」などで高度な縄文文化を開花させた。本州にいたD2の人達にも土器を使って堅果類を食料にする事を教えたが、運悪く7300年前に九州の南の海底火山(鬼界カルデラ)が大爆発し、文化の中心地は壊滅してしまった。四国辺りに住んでいた人達は紀伊半島や南関東に逃れた。これにより、D2+C3と共存するO2b1が生まれ、縄文人が誕生した。現在九州から青森までD2とO2b1はほぼ均一に分布している。

アイヌの祖先である北海道の縄文人は船で津軽海峡を越えて移動し、千島列島や樺太を往来したが、アイヌからO2b1は見つかっていない。O2b1が津軽海峡を越えなかったのは、海を渡る航海術が未熟な人達だったからだと解釈される。アイヌが漁労採集民であり続け、和人が農耕民族になった違いを、O2b1の人達を受け入れたかどうかで説明する事は、リスクはあるが魅力的である。アイヌの言語と倭人の言語の違いも、この理由が大きく影響している筈だ。逆にD2は海洋民族的素質を持って九州まで拡散し、更に西南諸島に進出した。現在沖縄の人達のD2比率が高いのは、海洋民族の子孫という事で説明できる。

中国人は有史以来、隋代まで、日本列島や西南諸島に渡航せず、O3とO2b*の人達は倭人の船で日本列島に来た。倭人は、中国人が海上を航行できる船を持つ様になってからも1000年以上の間、中国人に渡航ルートを教えず、列島の地理の秘密を守り続けた。これは組織力と団結力の結果だから、大陸の人には大陸と日本列島を往復させず、必要ない人は連れても来ないとする掟が厳然と存在し、1000年もの間秘密を守ったということだろう。漢代以降は中国船の方が大きかったかもしれないが、それにも拘らず地理も航路も教えないことにより渡航を拒んできた。中国の歴史書を見ると、故意に嘘を教え、日本列島の位置を実際より遠方にあるかのように錯覚させてもいた。うっかり流されたり、紛れ込もうとしたり、航路を探索しようとした船に対しては、秘密を守る為に必要な処置を取っただろう。

倭人は、後漢の頃から奴隷交易をし、一部を日本にも運んで農業労働者や工人とし、更に技能者や知識人として使い、後世それを帰化人と呼んだ。彼らは必ずしも戦争捕虜や拉致された人ではなく、財貨で交易された移民集団や技能者を多く含み、後世帰化人と呼んだ。最近の歴史家は帰化人を渡来人と呼ぶが、渡来人とはその人の意思で来た人を意味し、財貨として運ばれてきた人を意味しないから、やはり譲っても帰化人と呼ぶべきだろう。隋の使者は山口県辺りに中国人の秦王国があったと記しているから、運ばれて来た人達は奴隷という言葉からイメージされる様な待遇を受けていた訳ではなく、一定の年貢や生産物を収めれば、家族や統治組織を持つことを許された人を多数含んでいたと思われる。常識的にはその方がより多くの生産物を獲得できたと思われる。

現代日本人で、Y遺伝子O3とO2b1ではないO2b(朝鮮半島出身者)の合計が2割以上だということは、古墳時代に大量移民があった事を想定しなければならない。古墳時代の人口は150万人位だったから、古墳時代300年の間に60万人以上を運んで、漸く今日の2割弱になるのではないかと考えられる。移民の子孫の生存率を倭人の半分とした推定だが、倭人の女性が移民の子を産むとは考えられないし、移民女性の一部は倭人の子孫を遺す役割に回っただろうから、かなり少なめの見積もりではある。ともかくそれで計算すると年平均2千人になる。

主要交易先であった江南にこの数倍の移民奴隷を送り込んだとすれば、倭人は年間1万人近い移民奴隷を扱ったことになる。別ブログで、三国時代の呉(日本は弥生時代末期)に年間1000人を送り込んだと見積もったが、古墳時代には一桁上の数を扱っていたことになる。他の物品の交易もあったとは思うが、このために朝鮮半島に万単位の軍隊を駐留させるのは、経済的には割に合うのか疑問も感じるが、秘密を守るという列島の安全保障を堅持する手段として、他の選択肢がなければ仕方なかったのだろう。韓半島の南半分の地理情報が中国人に漏れなければ、九州は楽浪・帯方から、はるか離れた海上の島にあるという幻想を中国人に与え続けられる。魏志倭人伝の里程はこの観点から紐解けば理解できるから、邪馬台国は畿内辺りにあったのであろうという結論になる。

倭から日本に変わり、民が戸籍で管理される時代になると、移民奴隷は帰化人と呼ばれるようになったが、これは倭人として精一杯の平等主義の表現だったのではなかろうか。アメリカの黒人奴隷程には悲惨でなかった移民奴隷を、7世紀の日本人が解放して戸籍民としたのであれば、アメリカより1000年以上前に奴隷解放したことになる。但し、続日本紀には奴婢の扱いについての規定が書かれているから、奴隷的存在が全くなくなったわけではなかった。

以上で、男性の移動はほぼ説明できる。それでは女性はどうだったのだろうか。篠田謙一氏著「日本人になった祖先達」(2007年)を参考に検証してみる。この本を執筆した当時篠田氏は弥生人が大陸から稲作技術を持って渡来したという説に基づいた、要領を得ない説明に終始しているが、彼が提示するデータはしっかりしているのでそれを使わせて頂き、私流の解説に流用することにする。篠田氏のデータを扱う態度は客観的で理性的だから、非常に有用である。

男性の系譜を示すY遺伝子と、女性の系譜を示すミトコンドリア遺伝子を、海洋に囲まれて地理的に孤立していた日本列島への移住は倭人の管理下にあったという前提で解析すると、面白いほどに因果関係が明確になり、民族という単位を形成・維持したのは男性だった事が分かる。その男性集団が、遺伝子的観点で、相手女性集団を変えてしまうという現象が頻繁に起こっている。新石器時代には民族間で女性を遣り取りする習俗があった様だ。

現代の日本女性のミトコンドリアDNAの多様性は、男性と比較すると非常に高い。これは海外から多数の花嫁を迎えた結果である。既に縄文時代にそれが活発に行なわれた証拠が、縄文人のミトコンドリアDNAの多様性の中に刻まれている。

先ず、旧石器時代の遺伝子を残していると推測される北海道縄文人のミトコンドリアDNAの解析から始める。分類記号であるアルファベットはY遺伝子とダブるが、相互の関連は全く無い。

北海道縄文人44体は、7割がN9bで他にD、G、M7aが各1割だった。サンプルは縄文時代早期~続縄文時代のもの。N9bとM7aは日本人独特の遺伝子で、N9bはY遺伝子D2との当初ペア、M7aはY遺伝子O2b1との当初ペアと考えられる。Dは東アジアで最も多い型で、満遍なく分布しているので、ルーツ解析はできない。Gは氷河期が終了してからシベリアか中央アジアで発生した型なので、Y遺伝子C3の当初ペアではない。

ここで奇異なのは、M7aが複数見出される事である。アイヌにO2b1が居ないとすれば、ペアの女性だけが花嫁として津軽海峡を渡ったことになる。以後の解析でも同様の現象が散見されるから、そういう事だと解釈しておく。

理解を深める為に、ここで参照している篠田氏の本には載っていないが、産経新聞連載記事を纏めた「日本人の起源」(2009年)に東北縄文人12体のデータが記載されているのも参考にすると、M7a5割、N9b4割、D1割となっている。M7aが最多であるということは、Y遺伝子O2b1の男性も縄文時代に東北に広がった事を示唆している。Y遺伝子は劣化が早く、古人骨からは遺伝子採取できないが、ペアであるミトコンドリア遺伝子からそれが推測される。

関東縄文人56体は驚くべき状況を示している。 D+G、Bが各2割、M,F,A,M10が各1割、M7a、M7bc、M8が数体となっている。時期は6000年前から晩期まで。Y遺伝子D2の当初ペアN9bは見つからず、Y遺伝子O2b1の当初ペアM7aも極僅かで、それ以外が多い。B、F、M7bcは中国南部から東南アジアに多く、ハワイ・ポリネシア・ニュージーランドに拡散したオーストロネシア語族は殆どBであるという特徴を持つ。M8の中のM8aは漢民族にだけ存在するが、存在の仕方が特殊だとする篠田氏の説明を掲載すると「M8aは中国各地のいわゆる漢民族集団に一定の割合で出現し、その周辺の集団には比較的少ないという特徴を持っています。おそらく中国の北部で誕生したのでしょう。Dなどと比べると決してその割合は高くありませんが、漢民族と呼ばれる人たち、特に北の集団では常に一定以上の比率で出現します。・・・・このM8aが漢民族を特徴づける指標として面白そうです。」ここではM8はM8aとして扱う。M10とAはブリヤート人に多いから、Y遺伝子C3の当初ペアに同定され得るが、それにしては比率が高いから、海外起因も考慮した方が良いだろう。

以上の事実は私が今まで展開してきた古代の倭人(縄文人+弥生人)の活動推定と良く符合する。沖縄経由で台湾に達した縄文中期の倭人は、オーストロネシア語族の人達と数千年間接して航海技術を交換し合い、倭人はそのついでにオーストロネシア語族の女性と恋愛し、その女性を日本に連れ帰った。その痕跡がBで2割を占めている。航海技術の交換も半端ではなかった事が推測される。

倭人は航海術を向上させて江南に渡り、若しかすると更に南下し、東南アジアの女性とも恋愛してF、M7bc、を連れ帰った。漢書地理誌に書かれた、海南島の民が倭人女性と同じ貫頭衣を着ているということは、そこに出掛けたのは倭人男だけでなく、倭人女性も出向いたか、倭人が連れ帰った女性かその子孫が、倭人習俗を持って再び故郷に戻ったかの何れかだろう。縄文時代の長い交流が文化の類似性を産んだと解釈されるから、略奪婚ではなかったことになる。

M8a、即ち漢人の女性が居るという事は、二里頭や殷・周への宝貝の販売代金が女性という財貨で支払われた可能性を示す。M8aは漢人男性の当初ペアだったと推定されるから、二里頭時代にはその比率は高かったと思われるが、支払われた総女性財貨はM8aの数倍だったとすると、子孫は実質1割程見込まれる。それにしても、海洋交易民族であるY遺伝子D2は余りに多数の女性を日本列島に連れ込み、当初ペアだったN9bは居なくなってしまった。Y遺伝子O2b1の当初ペアだったM7aも僅かしか見つからない。関東平野の縄文人はブームの様に江南・東南アジア巡りをし、宝貝交易と花嫁探しに邁進していたらしい。縄文時代早期から居たらしいのはD、G、A,M10で、M8効果を勘案すると3割にしかならないのに対し、海外から連れ込んだ東南アジア系と漢人は、B、F、M7bc、M8、M8効果を勘案したD、で5割近い。縄文人は南にだけ進出したとも言えず、沿海州とも交易していたから、北方系のA、M10もその過程での恋愛の結果である疑いも拭えない。

数千年かけてという事ではあるが、関東在住の海洋交易民族であるY遺伝子D2を持つ縄文人男性は、旧石器時代のペアだったミトコンドリア遺伝子をほぼ完全に失い、縄文前期までのペアだった混合ミトコンドリア遺伝子の半分以上を失い、海外由来のミトコンドリア遺伝子に変えてしまった。検体となった関東縄文人はいずれも海や河川に近い遺跡の人骨だから、海洋性の強かった倭人だと思われる。八ヶ岳山麓ににあった大きな縄文集落の住民は海洋性倭人とは言えないから、東北縄文人の様な状況で、列島全体がこの様な状況であったわけではないとは思うが、大変な事態を引き起こしているのは事実だ。

関東は縄文時代最大の人口密集地域だったから、縄文時代の倭人の指導的存在だったのかもしれない。少なくとも、南海の縄文人のお手伝いとして沖縄経由で江南や華北に進出し、宝貝交易に参加したということではなく、相当深く関っていたことになる。既にこの時代に倭人は、交易の為の何らかの組織体を持ち、その組織は関東縄文人を中核的に含む広範囲の組織だったと言えそうだ。更に言えば、これだけ混血すれば体形や顔付きも相当変貌していた筈だ。ミトコンドリア遺伝子Bが2割もあれば、言語も彼女等の影響でオーストロネシア的になってもおかしくはない。

全くの想像であるが、縄文中期以降、関東で成人した健常な男子は、海外経験のある指導者に率いられて台湾・江南・渤海湾にまで交易に出掛け、色々体験し、何人かは花嫁を帯同して帰還し、その後家庭を営むという、勇壮でロマン溢れる生活をしていたことになる。彼らが稲作農耕民になるのが、日本で最も遅かったというのも何となく頷ける感じがする。

余談だが、漢書地理誌に書かれた倭の100余国には関東の国も含んでいたことになる。倭の五王であった武の上表文に書かれた、毛人55国、西の衆夷66国併せて121国と符合する。

更に余談であるが、日本の皇室が彼らの血筋なら、系譜は恐ろしく遡ることになり、京都の人が関東の人達を東夷と呼ぶのも見当外れで、皇室は東京の故郷に数千年振りに戻ったということになる。笑い話に聞こえてしまうが、可能性は否定できない。奈良時代までの天皇家では、ミトコンドリア遺伝子を保存する婚姻が続いていた疑いがある。つまり、皇族の女性は天皇一族の妻になるという事で、こうしてミトコンドリア遺伝子も保存され、「おほきみ」の家系が尊い血筋を維持したと看做された可能性もある。

次に現在の沖縄の人を検証したい。372検体で、Dが4割、M7aが3割弱、Bが2割弱、Aが1割弱、M7ab、N9bが5%程、その他少々となっている。関東縄文人にあったGが欠落し、M7aが3割居る。篠田氏によれば、ミトコンドリアDNAは代謝に関係し、寒冷地向きと温暖地向きがあるとの事なので、現在シベリア北部やカムチャッカ半島で優勢なGは沖縄では生存しにくかった可能性がある。関東縄文人ほど浮気性ではない様だが、やはりM7aが多くN9bが少ない。Y遺伝子D2縄文人が、南から来たY遺伝子O2b1縄文人のペアを、ミトコンドリア遺伝子Dの次に多い相手にしてしまった。海洋民族で交易者だったY遺伝子D2が、本土から沖縄に配偶者として連れて行くのに、自分の一族の娘N9bよりも、異民族だったY遺伝子O2b1の娘をより好んだ。更に言えば、北方系Aは一旦列島に連れ込んでから再移住させたであろうが、それもN9bより多い。現代の日本女性にはN9bは2%しかいない。他のミトコンドリアと比べて何か生存上不利な要素か、母娘遺伝の病原を持っていたという様な特別な理由がなければ、N9b女性がひどく嫌われたことになる。

篠田氏によれば、沖縄のM7aは最も変異が多く、沖縄がM7a発祥の地であるかの様であるらしい。しかし沖縄は新石器時代になってしばらくの間、人類生存の痕跡がなく、縄文時代早期から中期に本土から人が渡ったらしいという考古学的検証があるから、M7aの沖縄発祥説はありえない。ともかく、縄文時代の最大のM7aの集積地は沖縄になり、弥生時代以降改めて沖縄のM7aが本土に再度拡散したことを意味する。想定できるシナリオは、N9bの様に、本土では一旦M7aはほとんど消滅し、再度沖縄から、他のミトコンドリアDNAの様な海外花嫁に衣替えして流入したことになる。縄文・弥生時代の男性は海外からの流入遺伝子を喜ぶ風潮があった様だ。隣の芝生が青く見えたのだろうか、それとも現代の様に根付いた女性とは口論しても叶わないから敬遠したのだろうか。この場合、東北縄文人の様にミトコンドリア遺伝子M7aやN9bを保存していた内陸縄文人と、海洋縄文人の関係が問題になる。縄文晩期に内陸縄文人の人口が激減した様だから、そこに理由があるのかもしれない。食料不足に陥った内陸縄文人は娘を財貨として食料と交換することを潔くないと考える人達だったことになる。そして彼らの人口は激減したのだろうか。

別のシナリオも考えられる。縄文交易が盛んになると皆が交易をしたがり、東北以外では海洋縄文人と内陸縄文人という区分が消滅した可能性もある。夏は八ヶ岳の裾野や安曇野に住み、冬は房総海岸に住むという2重生活者で、縄文晩期には夏の家を放棄したことを意味する。その辺りを検証できる証拠はまだ見つかっていない。

本土の縄文男性は盛んに海外の女性を求めたが、沖縄の男達は現代に至るまでさほどでもなく、その熱が薄かったのは何か理由があったのだろう。彼らは交易基地提供者で、真の交易者は本土から玉や黒曜石・琥珀などの交易品を持って中国大陸に出掛けた関東の縄文人だったという事かもしれない。M8aがいないから、宝貝も、彼らは採取するだけで、関東縄文人が交易を仕切っていたということらしい。沖縄で農耕が始まったのは10世紀以降という説が有力だと看做されているが、それは違うという事になる。交易で得た財貨で食料を輸入していたかもしれないが、縄文時代から焼畑農耕も行なわれていたと考えるべきだろう。M7a沖縄起源はそれでなくては成り立たないし、多数の縄文人が沖縄を通過して江南に向う為には、食料供給も必要だったと思われる。

篠田氏は山東・遼寧地域、韓国、日本の間ではミトコンドリア遺伝子の多彩な構成が近似している事を示し、何か意味付けしたがっているが、縄文人のこの有様を見れば、山東・遼寧地域から多数の移民奴隷を迎え入れた古墳時代以後の倭人のミトコンドリア遺伝子が、その地と類似しているのは当然だろう。韓半島の住民は元々山東・遼寧地域から流入した移民が多い筈の地域だから、両者の類似は当然だろう。山東・遼寧地域もミトコンドリア遺伝子の多様性の豊かな地域だが、それはその地域の物産の豊かさを示しているのだと考えられる。古代では、鉄などの必要資源を得るために、女性という有力財貨で支払われることもあっただろう。食糧生産性が高ければ、自然に周囲の貧民が集まって、娘を売りもしただろう。

弥生時代に北九州に居た人達の78体の統計では、M7aもN9bもいない。関東縄文人との違いは、N9a、Zが加わっていることだろうか。N9aは中国の南部や台湾に多いから、江南との交流が想定される。Zの分布は良く分からないので論評しないが、吉野ヶ里遺跡の時代に倭人は連合国を作って漢と交易し、広範な地域から女生口が九州に送られて来て、当地の人と混合しただろうから、弥生時代以降のミトコンドリア遺伝子構成で何かをコメントするのは難しい。現代日本人に更に複雑な組み合わせが現れているのは、古墳時代に大量の移民奴隷を送り込んだ結果で、民族移動とは関係ない話になる。

以上から分かるように、縄文人的骨格とか、弥生人的風貌とかの概念は意味を持たない。関東の中期縄文人は既に海外女性との混血で、時代が降るほどに当初の純血性は失われていく。北九州の弥生人には当初縄文人のミトコンドリア遺伝子が存在していないから、混血男性が更に海外女性との間に設けた子供という様な関係を重ねていた疑いがあり、縄文的風貌という言葉が何を意味するのか一考を要する。弥生人とは混血児の事に他ならないことになる。それでも猶縄文的風貌が見える頭骨が発掘されるのであれば、その形態は環境要因ということになってしまうだろう。

倭人と日本人に関しては、海という障壁があったお陰で、この様な生々しい情景を描写できるが、陸続きの大陸内部では更に複雑な動きがあっただろう。日本人と比較すると、山東・遼寧や韓国の方が複雑で細分化された構成になっている様に見える。倭人は遠くまで航海して集めたのだが、大陸の民はどうやって遠方のミトコンドリア遺伝子を集めたのだろうか、不思議な事だ。

  ここで、縄文人が海洋民族になった理由についてもう少し深く検討してみたい。北海道の縄文人は樺太に進出してアスファルトを採取し、千島列島に進出して海獣を捕獲していた。どんな船を使っていたのか分からないが、1500年以上前から、続縄文人やアイヌが使い続けてきたイタオマチプという最大20人程が乗れ、オールで漕ぐ舟があったから、そこから縄文時代の船を想像出来るかも知れない。イタオマチプは釘を一切使わず、ロープや樹脂などを使って建造した船だから、類似の船は縄文時代にも作れた筈だ。丸木舟の上に舷側用の板を張り、オールを固定する突起がその上にあり、舳先も海の波が切れる様に切りあがり、アイヌはそれで千島列島を往来した。アイヌは縄文人とは違う文化の人(別の人種という意味ではない)だから、全く同じ船とは言えないかもしれないが、類似の構造だった可能性はある。

 縄文時代前期(BC5000年以降)、Y遺伝子D2の稚拙な海洋民族が、関東辺りの海岸でY遺伝子O2b1から樹木を加工しやすい石器の作り方を習得し、沖縄を南下して台湾に到達し、オーストロネシア語族の人達と数千年の交流の後に航海技術を高度化し、中国沿岸で交易を始めた。青銅器時代(縄文時代)に既に中国人の戦争の仕方に恐怖を感じ、中国の勢力が列島に及ぶ事を極度に恐れた倭人は結束し、中国で鉄器が使われ始めると色々な工作をして中国の造船技術を盗んだ。徐福伝説はその工作が始皇帝にまで及んだという事だろう。しかし大型船を作る技術競争に勝つ見込みはないと判断した倭人は、日本列島の地理を中国人に偽って教え、渡航ルートを隠し、日本列島ははるか大洋の彼方にあって中国人には渡航できないと思い込ませ、秘密結社的団結で真の情報を秘匿した。この方法は大変有効で、1000年間中国人を騙し続け、日本列島への中国船の渡航を阻止し続けた。

 中国の勢力は時代を追うごとに朝鮮半島を南下し、古墳時代に高句麗が半島を統一しそうな勢いになると、倭人も国家統合して半島に出兵し、南半分を勢力圏に納めた。商業民族であった倭人は、農業生産性の低い半島を領有する積りは無く、現地人国家を統制するために、職業軍人を多数常駐させた。5万の兵を動員できる高句麗と対抗するためには、同等の兵を送り込んでいたと思われる。費用は交易で捻出し、食料は関東に移民奴隷を入植させる事で賄った。

 唐代、中国は遂に半島南部にまで勢力を広げ、倭人の伝統的安全保障政策は破綻し、朝鮮海峡の地理的秘密は暴露された。これにより、倭人国は破綻・壊滅し、新たに親唐的で海洋交易を好まない政権が生まれ、鎖国的な日本が誕生した。飛鳥時代末期の事になる。江戸時代初期まで東南アジア経由で明との交易に活躍した日本人が、キリシタン禁教と鎖国によって突如江戸時代日本人になった状況と似ているかもしれない。

 この日本政権は倭人国の伝統を破棄し、沖縄を見捨て、唐に媚を売り、唐の制度を積極的に導入した。日本人は倭国時代を忘れ、唐に献上するために書いた日本紀物語を日本の歴史だと誤解するまでになった。日本書紀は隋・唐に反抗的だった倭国の歴史を抹殺した意味不明の物語に過ぎない。唐は中国船による交易を志向し、9世紀以降は唐の船が日本の港に来航する様になる。宋代には中国船が交易の表舞台に登場し、中国人が博多に常駐する様になった。沖縄は日本を見限り、10世紀以降独自の交易による発展を目指し始めた。

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2013年2月10日 (日)

江南的倭人と内陸的日本人が飛鳥時代に対立した。

 飛鳥時代、倭は隋と唐に朝貢し、唐代、倭に代わって日本が朝貢を始める。日本は倭の後継国だが、唐にその交替の経緯を説明しなかったから、どんな勢力がどの様な過程で交替したのか分からない。古事記や日本書紀にそれらしい事は書かれていない。古事記や日本書紀は倭人伝に記載された事績を殆ど無視している。倭人伝の内容には一貫性があるが、古事記や日本書紀は創作性が疑われ、倭の歴史を抹殺している。但し天皇の系譜は倭から日本になっても変わらなかった。摂関政治や幕府政権で皇室は政権の権威を認める役割を果たしたが、太古の昔からこの役割を続けていたのではないかと思われる。

倭から日本への変化は何が原因で、どの様な過程を経たのか、記録が無いので見当を付けにくい。倭国伝に書かれ倭と、続日本紀に書かれた日本を比較してみる。

統治制度について、倭では「国」は地方政権を意味する。中国人の認識では「国」は独立した政権を意味する。魏の使者は狗邪韓国、対馬国、一大国、末盧国、伊都国と国名を記し、邪馬台国に至る。隋の使者も、いき国、ちくし国、秦王国、を経て倭国に着く。唐も倭国に使者を派遣したが経路の記述はなく、四面の小島五十余国は皆倭国に付属するとだけ記している。魏志と旧唐書では倭には国を監督する一大卒と呼ぶ役職があり、諸国が恐れているとしている。中心となる邪馬台国や倭国に大王が居り、独立性の高い小国を従えていたらしい。一方、日本では中央政権に任命された国司などの官僚が統治する中央集権国で、地方の国名は筑前国などの様に行政区画の単位になっている。後世まで日本では県単位の広さを「国」と呼ぶが、これは倭の伝統を引き継いだものに見える。国司は当初国の王が任命され、その期間が長かったからだろうか。

 中国との通交に関し、倭は邪馬台国以来、魏、隋、唐王朝の正式な使者だけを受け入れ、商人は歓迎しなかった。倭に渡って来るには倭人の船しか手段がなかったから統制は容易だった。邪馬台国では帯方郡の使者は伊都国までしか入国させなかった。隋の使者が山口県辺りで見た中国人の国である秦王国について、随書を書いた史官にもその素性が分からなかった。秦王国の中国人は船で移動する事が出来ず、大陸から来る中国人と接触していなかった事になる。隋代になっても中国商人は倭に脚を踏み入れず、官人も滅多に訪れなかった事を示している。これは倭の秘密主義に由来する。正式な使者が渡航して来た場合には、日本列島に関する偽の地理情報を与えて中国人の認識を撹乱し、中国人が日本列島や沖縄に航行して来ることを阻んでいた。中国の使者も、皇帝が派遣したというより倭の大王が招聘し、史官はそれを派遣と記録したのだろう。邪馬台国以後中国から使者を受け入れる様になったのは、中華勢力が韓半島へ南下したからだと考えられる。春秋戦国時代には、中国人にとって倭は実態不明の国だったが、秦・漢時代に半島南端まで中国人が移民した。

 倭から日本に変わり、新生日本の使者が唐に朝貢した時、従来の秘密主義を変更し、日本列島に関する正しい情報を伝えたが、唐朝の人々は却って嘘を言っているから信用できないと判断した様に見える。日本列島の地理に関する倭の時代の唐への説明は「倭は新羅の東南の海中にある島で、東西は5ヶ月の行程、南北は3ヶ月の行程、近辺に50程小島があり、皆国を自称しているが、倭に従っている。」と相変わらず訳の分からない状態だが、日本になってからの最初の使者の説明は「国都は数千里四方あり、南と西は海で終り、東と北は大山が境界になり、その外には毛人がいる。」という事で、数千里を1000~2000kmとすれば東北を除く日本の広さだから、国土総てを都とする思想があれば、ほぼ正しく日本の地理を述べたことになる。畿内の一部が倭国で、そこを都(みやこ=王の宮殿のあるところ)と呼んでいたが、日本列島が統合されその倭国が消滅した場合、本州が「みやこ」と呼ばれ、それを漢字の都と表現したとしても、理解出来ない話ではない。中国に嘘を言い続ける積りであれば、従来の嘘を変える必要はない筈だ。状況証拠からは、正しく申告する方針に変更した様に見えるが、今まで嘘を言ってきた倭人達がある日から正直になっても信じて貰えないのも当然である。唐と友好を深めて政治制度を学び、僧侶などを招聘する必要があれば、開国せざるを得なかっただろう。

 日本の使者が従来の秘密主義を捨てたとすれば、新唐書に記された日本の使者の「日本は昔小国だったが、倭国の地を併せた。」という説明も、その通りだったかもしれない。日本という名前の権力集団があり、倭国と覇権を争って勝利し、天皇から政権を付託されたことになる。皇族の系譜は倭国時代から繋がっていた。「日本」は和語ではないから、古代国家を複数統合した連合国家名だったのだろう。「にっぽん」は呉音だから、漢音で学んで来た遣隋使や遣唐使経験者が日本を作った訳ではない様だ。

 随書によれば、倭国の王「あめ氏」は隋の使者を迎えるに際し、小徳(12等級の官職の2番目の位)の官人に数百人の供揃えを付けて派遣し、武装した兵隊を整列させ、太鼓・ほら貝を鳴らし、使者が海岸(多分大阪湾)に着いたところで派手に出迎え、10日後にまた二百余騎を従えた大礼(12等級の官職の7番目の位)を派遣して都の郊外で出迎えさせ、倭国王は都に到着した使者と会見した。」とかなり派手な歓待をしている。倭国王は後宮に女性を6~7百人も抱え、臣下を朝廷に集める時は必ず武装を整えた兵隊を整列させ、倭の音楽を演奏させる。楽器には五弦の琵琶、琴、笛がある。倭人は碁、双六、さいころ博打が好きで、毎年正月1日には必ず射的競技をし、酒宴を開く。などと書かれた倭王の生活は奢侈で派手な印象がある。

 一方の日本では、正月1日に天皇は大極殿で官人の朝賀を受けるだけで、大宝元年にこの儀式の文物の儀礼が定まった。正月中旬に百官と酒宴を開くが、十分に酔ったというくらいの記述で、他の記述と併せて華美を好む風潮は見られない。朝廷の儀式の礼法を定め、皇族と5位以上の者に食封を地位に応じて与え、正月に人々が行き来して拝賀の礼を行なう事を止めさせ、博打や賭け事をして遊び暮している者を取り締まった。

 倭には交易国家的・古代国家的な華美な雰囲気を感じ、日本には農業国家的・中世的な質実剛健の気風を感じる。

日本は唐の使者を招聘する事はせず、鑑真、菩提僊那(インド人)、仏哲(チャンパ)、道璿などの高僧を招いている。鑑真以外は北朝系の高僧で、道璿は鑑真に先立って渡日し、鑑真同様日本に戒律を伝え、彼の開いた大安寺は東大寺、興福寺と並ぶ南都7大寺の一つで、唐招提寺より格が高かった。奈良時代の北朝的な国家鎮護仏教は政権と結びついていたが、小乗的な南朝仏教を信奉する日本の僧侶の多くは鑑真から授戒された。これは奈良朝日本政権の脆弱性を示すと考えられる。

平安時代は再度倭人的貴族文化が盛り返し、王朝文化を再現したのではないかと思われる。奈良朝的日本が再度復権したのが鎌倉政権であったとすれば、飛鳥時代の動乱を平安末期の歴史から類推できるかもしれない。平安政権の崩壊には、朝廷と地方双方に事情があった。朝廷では藤原氏政権に綻びが出来て政権内部に深刻な対立が生じ、地方では農地の所有権が不安定だった。

飛鳥朝廷内の問題として、神道と仏教が対立した可能性がある。奈良朝権力は中国北朝系の国家鎮護仏教に傾倒したのに対し、倭の仏教徒の主流は南朝系で、国家権力と結びつく意図は弱かった様に見える。平安朝は国家鎮護仏教を捨て、神社信仰を復活させ、本地垂迹説を起して南朝系仏教と宥和した様に見える。諸国の国分寺は平安時代早々から衰退していった様だ。ここから見えるのは神社と仏教の対立ではなく、古来の神信仰を守り、南朝仏教を受け入れた、海上交易にこだわる保守伝統主義の倭と、唐の文物を丸ごと受け入れようとする開国主義の日本という対立構図になる。幕末の尊王攘夷派が開国に傾いていく模様を意識しながらこの時代の動乱を考察するのも有意義だ。

地方の対立は移民奴隷制と戸籍制度の選択ではなかろうか。戸籍を作るのは、農民を家族単位で把握し、彼らの土地所有を安堵し、国家的土木工事で生じた墾田を平等に分配する仕組み作りだったのだろうか。奴隷姓は大規模農地経営を連想させ、厳しい身分制に基づく貴族制を連想させる。奴国・邪馬台国時代に奴隷が重要商品として売買された事と、飛鳥時代に戸籍が作られた事には大きなギャップを感じる。古墳時代はその中間期だが、日本中に大規模な古墳が盛んに造られたから、貧富の差の激しい貴族制だったことが覗われ、飛鳥時代が過渡期だった可能性が高い。現代人は、班田収受は無理な制度だと感じるが、唐にそのモデルしか無く、戸籍制度導入による中央集権制を志向すれば、その制度を伴う事になったのは仕方ないだろう。かくして奈良時代は短命に終る。唐でも班田収受は早々に破綻した。

奈良時代は女帝が多く、卑弥呼と台与の時代を連想させる。男の王では争いが止まなかった故に選ばれた女王卑弥呼から連想するのは、飛鳥時代は戦乱の時代だったという事だろうか。卑弥呼が鬼道に向い、奈良の天皇が国家鎮護仏教に傾倒したというのも何かの関連を感じる。

 続日本紀の天皇の言葉に、「天皇の系譜は高天原にはじまり、遠い先祖の代々から現在に至るまで皇子が、神が授けた順序で皇位を継ぎ、大八島国を治めてきた。天智天皇が不改常典を定めた。」とあり、皇統は断絶していないし、奈良的日本の創始者は天智だと主張している。

日本権力成立時の権力構造は、文武天皇の夫人は藤原不比等の娘、嬪は紀竈門の娘と石川刀子の娘で、大宝元年(8701年)の職制は、左大臣多治比嶋、右大臣阿部御主人、大納言石上麻呂、藤原不比等、紀麻呂となっている。708年に、左大臣石上麻呂、右大臣藤原不比等、大納言大伴安麻呂となっている。多治比嶋は皇族。阿部御主人は壬申の乱で功績があり、仲麻呂の祖父とされ、体制推進豪族で藤原氏と婚姻関係を持つ。藤原氏は車持氏との関係、鹿島神社との関係などから、関東に勢力拠点がありそうだ。

 以上を材料に、倭の五王の上表文、高句麗の好太王碑文などを参考に、少し大胆に卑弥呼以後の倭の状況を推測する。統制の取れた秘密主義で交易国家を運営していた倭王は、半島や遼寧で移民奴隷を調達し、江南や倭国内に売って利益を得ていた。倭王は朝鮮・対馬海峡の地理を秘密にする状況を維持する為、中国や高句麗の半島南下を阻止する必要に迫られ、半島に出兵した。出征兵士は職業軍人で、半島南部に武器を製造する製鉄工人も送り込んだ。朝鮮半島の農産物は雑穀主体で、米は南端で生産できるだけだから、万単位の兵の食量は賄い切れない。当初、米は鉄の交易で関東からも購入していたが、食料増産の為に関東を征服し、移民奴隷も送り込んで食料増産に励んだ。群馬・栃木を指す「毛の国」、東国を指すらしい「毛人」は、毛=「け」=食で、軍隊の食料を賄う地域を意味した。やがて軍人の調達も関東に依存する様になる。

 大農地を所有し、交易で奢侈品を得て優雅な暮らしをする貴族と、軍隊や交易船の船員に提供する食料を生産する農民との貧富の差は甚だしい状況だった筈だ。生産量が投入労働に比例する農業では、大農場で奴隷が生産する農産物の方が販売価格は安くなる。自作農が、奴隷制大農場経営者と農産物の販売価格で競争しても勝てないから、流通経済に晒される自作農は貧しい小作農に転落せざるを得ない。非農業労働従事者には廉価な農産物が提供され、貴族や交易者・職人には有利な制度だ。関東に入植した倭人は、兵士の供給源になっただろう。農民兵ではなく、職業軍人として。それは関東だけの出来事ではなかったかもしれないが、農業生産に依存する度合いが高い地方に顕著な出来事であった筈だ。

中国が隋に統一されて遼寧での移民奴隷調達が困難になり、中華の軍隊が半島を覗う様になると半島の維持には一層の軍事力の増強が望まれ、農民への租税負担が増加した。南朝から伝来した小乗的仏教は特に体制批判的ではなくとも、人々の個人的意識を目覚めさせ、小作・奴隷制への批判を高めただろう。唐王朝が成立すると、秘密主義的鎖国状態の継続を是とするか、開国して親唐的になり唐文化を吸収するか、という対立が始まり、開国派は重税感を持つ中小農民層と連携し、旧守的鎖国交易派との対立が先鋭化したというのは一つのシナリオになる。

 7世紀に隋・唐で学んだ僧は、戸籍制度に基づく中央集権制を学び、開国派はその制度の導入を旗印に結束した。開国派は交易的には鎖国派で、唐の制度や文物の導入に開国的というおかしな状況で、旧守的鎖国交易派は、海外での中継交易による利益で日本に鉄や青銅素材という必需品と鏡などの奢侈品を持ち込んだ。鉄や銅が自給できる様になると、存在価値は薄らいだだろう。唐と百済・高句麗の興亡を賭けた戦いへの参加に関して、国内に是非論があった筈だ。半島を放棄して海峡を守れば良いという意見もあっただろう。半島で唐の陸軍と戦うのは敗戦リスクが高い。倭人が唐の海軍を恐れるまでの必要があったとは思えない。徹底抗戦派は半島に渡って唐の軍隊と戦い、白村江で敗北した。倭国にしてみれば、元々新羅が半島を統一した方が望ましかった筈だ。半島が3国に分裂していては、唐に対抗できない。倭国内にも新羅派はいただろうし、彼らは新羅が唐から自立する際には新羅に肩入れした筈だ。

663年に白村江で旧守抗戦派が敗れ、国内は内乱状況になり、672年の壬申の乱が天下分け目の最終決戦だったのだろうと、考えたくなるが、それが怪しい。

東国を中心とする農業勢力が勝利を収め、唐の制度を学んだ勢力が権力を握り、唐風日本に改造しようとしたのが続日本紀の示す奈良時代だろうと考えると、壬申の乱で勝利した天武天皇が遣唐使を派遣していないのは腑に落ちない。むしろ白村江で敗北した責任者に見える天智天皇の方が積極的に遣唐使を派遣している。当時の朝廷は相当混乱していた様だ。

天智天皇を担いだ奈良朝的勢力は、不本意な白村江の敗戦の責任を追及され、壬申の乱で一旦朝廷を追い出されたのだろうか。大敗したのは斉明天皇で、開国を決意したのが天智で、壬申の乱で旧守派が担ぐ天武が権力を握り、開明派が持統を担いで逆転し、奈良朝に至ったという様な、複雑なストーリーだった様に見える。記録があっても分かりにくいから、日本書紀的歴史観では到底説明不能だろう。

日本書紀がこの様にあてにならない歴史書である理由は幾つかあるだろう。一番の理由は、正確な歴史を伝える伝統が無かったからだと思われる。日本人は話し合いで物事を決める民族だから、決定事項だけあってその理由も利害得失も不明瞭になることが常だった筈だ。因果関係が分からなければ事績の軽重が判断できず、結局総てが忘れ去られるという事態が頻発しやすい。争いを避けるためには、水に流して積極的に忘れるという発想もある。

専制的リーダーなら皆を説得する必要があり、勝利した場合には後付の麗々しい理由が創作され語られるだろうから、そんな場合には歴史物語は創られ易いが、残された話が真実だという保証もない。勝者によって歴史が語られるのであれば、明らかに不自然でも違和感を持つ事は許されない。それが中華式歴史観の様だが、蛮夷の事については冷静だった様だ。

第2の理由は、権威の根源を天皇の任命に委ねてしまう日本人には、職責を全うする以外に必要な事はないという状況だろう。業績を他者にアピールして自分の立場を良くしようとする行為は、説得したい人々に対して行なわれるものだから、目的を同じくして努力している人達に上下関係があっても、部下が上司に自分の実績をアピールする必要はない。言わなくとも見れば分かる世界なのだから。目的を同じくして努力している人達の社会では、歴史的因果関係を明らかにする必要はなく、誰も歴史を語らない。そんな世界では、歴史を書く人も創作せざるを得ない筈だ。歴史は集団の存続を目的に、対外勢力との葛藤として語られ書かれるべきものだから。

倭から日本への交替は歴史の大転換だったのだろう。その動乱のために何10年も費やしたと思われる。中華世界の統一と朝鮮半島への南下は航路秘密主義で海上覇権を握っていた倭人に方針の大転換を迫るものだった。当時の倭人は恐怖感や切迫感を持って、幕末の勤皇の志士達の様に激論を繰り返し、主義主張のために命を落とす人もいたかもしれない。幕末でもペリー来航から明治維新まで、20年かかっている。倭人にとって隋の高句麗征伐は江戸日本人にとってのアヘン戦争の様な意味があった筈だ。

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2013年2月 5日 (火)

魏志倭人伝に書かれた倭人と江南の関係

中国の王朝では史官が出来事を記録し、過去の王朝から引き継いだ記録を読み、前王朝の歴史を編纂した。漢・魏・晋代までの中国人は隋以降の人と比較すると実証的観察眼と、検証的発想を持っていた様に見える。

 魏志倭人伝は倭人の江南的習俗を説明している。「倭人の男子は大人も子供も皆顔や身体に入れ墨をしている。昔から中国に来る倭の使者は皆自分のことを大夫と言う。夏王朝の少康王の子が会稽に封じられ、断髪して身体に入れ墨をして大蛇の害を避けたという伝承がある。倭の海人が盛んに水に潜って魚や貝を捕らえ、入れ墨するのは同じ様に大魚や水鳥を威圧するためである。後に次第に入れ墨を飾りにする様になった。倭の諸国での入れ墨の仕方は各々違っていて、ある者は左に、ある者は右に、ある者は大きく、ある者は小さくという風で、位によって差がある。倭の位置を計算してみると、丁度会稽郡東冶県の東にあたる。」「男は皆かぶりものがなく、木綿で鉢巻をしている。着物はひと幅の布をそのまま横に巻き、紐で結んで繋げるだけで、ほとんど縫う事はない。女は髪をばらして曲げて束ね、衣はシーツの様に作り、その中央に穴を開け、そこに頭を通して着る。」とある。単なる紀行文ではなく、他の歴史書との関連を意識して書かれている。

 ここから読み取るべきことが二つある。先ず、「夏王朝の少康王の子」という系譜を出す事によって、倭人の入れ墨の風習は越(春秋時代に会稽を都にした国)に由来していると匂わせている。魏志に少し先行して書かれた魏略は散逸したが、引用文から復元されたものに、魏志と同じ内容に加えて「その言い伝えを聞くと、自分の事を太伯の後裔だと言う。」がある。魏志の作者陳寿は同じ資料を読み、魏略を読んでいたかもしれないが、これを採用しなかった。実は魏略の方が矛盾している。太伯は呉(春秋時代)の王の先祖で、周王朝の系譜になる。夏と周は違う民族である。春秋時代に呉越同舟と言われ隣り合い争い合った2国は同じ越族の国だが、王の系譜が違う。夏王朝は殷に先行する王朝で、現在考古学的にはその存在は確定していない。殷に先行する二里頭遺跡から宮殿跡が発掘されているが、甲骨文字は発掘されないから夏王朝の宮殿とは決められない状況である。陳寿は夏王朝の実在を信じ、倭人の王は呉の王朝の系譜ではないと判断し、「太伯の後裔」という文を採用せず、消極的に越としたと推定される。倭人の男王も卑弥呼もこの系譜との推測を基礎にしている。中国では、入れ墨は春秋時代には既に過去の蛮族の風習だったらしく、史記、呉越春秋、漢書地理誌には江南にこの風習が残っていたとは書かれていない。越族の入れ墨は大蛇の害を除くためだから、越族が海洋民族だとは考えられない。

 「使者は皆自分のことを大夫と言う」と書けば、春秋戦国時代の匂いを感じ、呉か越かという問題を意識した筈だ。史記を読めば、「大夫」という身分はその時代頻繁に出てくる。周王朝が衰え、地方政権の王が独立して力を得た春秋時代、その王を補佐する重臣達を「大夫」と呼んだ。倭人の使者はその意味の「大夫」と言ったのだろう。漢代にはその表現は廃れていた。陳寿も魏略の作者も、倭王の系譜は呉か越だろうと考え、魏略の作者は判断が付かず、陳寿は呉ではないと判断した様だ。「大夫」は日本では奈良時代以降も使われたから、卑弥呼の使者もその様に名乗ったかもしれないが、魏志倭人伝には使者の応答に関する記載はない。内容が重複する当然の事は書かないからかだろう。

 読み取るべき第2は、倭人の男女の民族衣装だ。漢書地理誌に海南島の住民の風俗について、「民皆服布如單被,穿中央為貫頭。男子耕農,種禾稻紵麻,女子桑蚕織績。民有五畜」と書かれ、魏志のこの部分の記述と似ている。魏志では「婦人被髮屈、作衣如單被穿其中央、貫頭衣之。種禾稻紵麻、蚕桑、緝績、出細紵、緜。其地無牛馬虎豹羊鵲」であり、漢書地理誌を参照している様に見える。倭人女性と海南島の男女が同じ服装で、倭と海南島では、稲、からむし、麻を栽培し、桑を植えて蚕を飼い、物産が概ね同じとしている。男の服装は倭人独特で、倭には牛馬羊がいないが、海南島の家畜は中国と同じ種類だ。しかしその解釈は陳寿にできなかったらしく、記述されていない。

 この事は倭の起源に関し、陳寿を悩ませた筈だ。倭人は昔の越族の様に入れ墨をしているから、同じ様な目的で始めたのだろうが、今では飾りとして使っているとして、入れ墨の越族起源を主張しているわけではない。比較的新しい周の王族系譜では倭の王族は説明できないと感じ、更に遡るかもしれないという曖昧な表現にせざるを得なかったと思われる。男が断髪して身体に入れ墨をするのは古い越族の風習、女の衣類や作物・養蚕・物産は海南島の風俗、倭の女は独特の髪型をしている。倭の階級制度は400年以上昔の春秋戦国時代の呼称を使い、600年前の春秋時代に滅んだ呉の王が周王朝の一族の末裔だと知っている。陳寿が推測したのは、勇猛な呉や越が興る前に、その地に海南島の民が居たのではないかということではないだろうか。証拠はないが中国では珍しい事ではない。しかし伝承がないから記述には該当せず、読者に推測して貰うしかない。

 日本人は、目新しい事は皆伝わって来たと考えるが、この様に倭人が複合的文化を持っている場合、倭人がオリジナルで、越が入れ墨を真似し、海南島の住民が貫頭衣を真似したという方が、話が分かりやすい。縄文時代の土偶には入れ墨の存在を連想させる模様が描かれたものがあり、縄文人は入れ墨の習俗を持っていたと推測されている。越は殷・周時代には荊蛮と呼ばれた蛮族だから、倭人が殷・周文明に影響を与えたというわけではない。陳寿はふとその疑念を持ったかもしれないが、それは中華思想に反するから、記述できない想定であっただろう。それであれば倭人は江南から華中の沿岸に、遅くとも夏王朝期(BC1500年以前)には出没していたことになる。越族は後に中華文明により強く影響され、漢代には中華民族的になったが、越に圧迫されて南方に逼塞した海南島の民族は衣装や物産に倭の影響を残しているという説明になる。陳寿は呉誌も書いたが、そこには倭人は登場しない。しかし陳寿は倭人が会稽に出没していた事は知っていただろう。それでも敢えて書かなかったのは、この事実に触れたくなかったからではないかと推測される。

 倭人が春秋戦国時代以降中華の政界と縁を切ったのは、やはり宝貝のビジネスがなくなったからではないだろうか。春秋時代に中華の各国の王に宝貝を売り、倭人のリーダーが「大夫」と呼ばれていたのではなかろうか。しかし貨幣が青銅製に替わると、倭人はその地位を失って中華の政界との縁が切れたと想定すれば、辻褄が合う。

 交易が周王朝から各国に広がった時点で、各国の方言に対応するために倭人は漢字を習得しなければならなくなった筈だ。そこで習得した漢字を倭人は一体何処の民族の音で読んだのだろうか。「夏王朝の少康王の子」「太伯の後裔」と想定されるのは、当時の江南音で読んだからだろう。倭人語は語順が違うから、漢文は中華のどこかの音で読まなければならない。その倭人訛りの音は生活用語と無縁だから、長い間変化しなかった可能性がある。つまり、日本の現在の呉音は春秋戦国時代に呉越で使われていた音を残しているとか、更にその基層となって単音節倭語となっている可能性がある。身体や植物の部位に関する単音節語が多い事が気になる。

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2013年2月 2日 (土)

倭人の交易相手は江南だった。

  三国志呉誌によれば、呉の人は会稽の東の海上に夷洲、亶洲があり、数万戸あると考えていた。1万人の兵隊を夷洲(台湾)に派遣し、労働力不足を補うための人狩りをし、数千人を捕獲したがそれを上回る多数の損害を出したと書かれている。損害は難破などの行方不明であろう。亶洲には到達できなかった。呉誌には倭についての記述はない。

  漢代既に倭人の朝貢を受け、光武帝が金印を下賜していたのに、時代が下る呉で認識していなかった筈はない。倭人は会稽の市で交易し、移民奴隷を毎年千人ほど送り込む、知られた民族だった筈だ。呉は徐福伝説は知っていたが、徐福が率いて海上に乗り出した男女数千人は会稽の東の亶洲で数万家となっていると認識し、倭と亶洲が同じとは考えていなかった。会稽の東に日本列島はないからその認識は正しい。間違ったのは、会稽の東に亶洲があるという認識だ。

  時代は300年も下るが、随書に非常に酷似した話がある。煬帝の命令で武官が正体不明の島である流求(台湾)を調査し、住民を帰順させようとしたが拒まれたので戦をし、捕虜数千人を中国に連れ帰ったという記事で、調査の段階で住民の麻の鎧を奪って持ち帰り、たまたま朝貢に来た倭人に見せたら、それはイヤク国の人のものだと教えてくれたという内容が含まれている。呉と全く同じパターンに見える。

倭人は海上の地理を秘密にし、中国人は沖縄や日本列島に行くルートも各々の島の規模も知らなかった。倭人は江南に頻繁に出掛け、南朝に朝貢を続けていたにも拘らず、300年間秘密は守られた。

呉と同時代の魏では、卑弥呼が朝貢した時、魏の使者が日本の地を踏んだ。倭は「楽浪海中にある」という事しか分からない状態から相当進化したが、江南方面に関する知識はさほど進化していない。魏志では邪馬台国は会稽の東の海上にあるに違いないと記している。呉が夷洲を騒がしたのに、倭人からそれに関する話を聞かないから、夷洲、亶洲は倭ではないと判断している。魏の使者の見聞録を基に記した魏志倭人伝の邪馬台国への里程が不可解だから、現在邪馬台国論争が盛んであるが、中国人の使者が判断を誤った故に里程を認識出来なかったのではなく、倭人が使者を騙したという観点で見るべきだろう。ここでも倭人の秘密主義が発揮されている。

具体的に倭人の手口を検証する。魏志でも、中原に近い陸地の距離は比較的正確で、高句麗(丸都)は遼東(瀋陽)から東千里とされている。漢代の一里は415mだから、丸都と遼東(瀋陽)の道路距離が400kmということだが、現在の地図上で直線距離は250kmだから、曲がりくねった道を使えばそんなものだろう。韓(馬韓・辰韓・弁韓)は方4千里だから、半島の幅は4千里としている。つまり、朝鮮半島は幅1000km位と書かれていることになるが、実際は300km前後である。後世の中国の地図で半島が過大に描かれる根拠なのではなかろうか。帯方郡から狗邪韓国(半島の南端にある倭人の国)まで7千里、対馬・壱岐・唐津まで各1千里と記している。狗邪韓国までは4倍以上、海峡は5倍以上の誇大表示になっている。ここは船だから、倭人がゆっくり操船するなどで誤魔化せる。但し、狗邪韓国への旅程は、方形の韓の2辺を航行することになるから、それを7千里とするためには、韓は方4千里という虚構が必要になる。つまり、韓については倭人が詳しく、中国人は不案内だったから、倭人の誤魔化しはここから始まっているということになる。それであれば弁韓での製鉄や、楽浪・帯方郡への供給は倭人が船でしていたことになるだろう。

使者は九州に上陸し、伊都国まで草や木が繁って前を行く人が見えない道を歩かされ、五倍以上に誤魔化された。奴国までは平野を行くのでさほど誤魔化せず、2倍程度の里程が記されている。案内する倭人が少し回り道したのだろう。ということで、倭人が誤魔化したと想定すれば、すべてに辻褄が合う。倭人は呉がどの様に間違っているか知っており、恰も邪馬台国が亶洲の近くにある様に説明したのだろう。何故その様に騙すことが望ましかったのかは分からないが、呉も魏も倭人が望む様に騙され、倭人の交易ルートは隋代まで露見しなかった。

漢代には中国人も沿岸航行は出来たから、その気になって航路を探せば、探せない事はなかった筈だ。一方、倭人にしてみれば、海上交易を独占したいから、制海権を維持したかった筈だ。制海権は武力で守るのではなく、沖縄廻りの島伝いの航路と、帯方から南の航路を秘密にすることで守っていたと思われる。単に秘密にするだけでなく、日本列島を過大に遠方にあると思わせ、渡航の企てを断念させる工作をしていた。台湾以北の西南諸島に中国船が入り込めば、襲撃して沈めてしまうくらいの事はしただろう。中国人は難破リスクが高いと思い込まされ、裏を知ることはなかったことになる。漢~隋の時代、中国人は大洋に船出する意思があったのか無かったのかは、倭人のこの意思がなかった場合の事になるから、歴史のIFに属する話になってしまう。倭人が大陸上で中国人に、何処から奴隷や商品を獲得したのか聞かれたら、夷洲、亶洲という好い加減な話で誤魔化したのだろう。

三国志呉誌や後漢書に書かれた、『嵐に遭ったが亶洲に漂着して助かった会稽郡東冶県の人がいる。』という記事は、極めて珍しい事だから個人を特定したのだろう。会稽郡東冶県は倭人が台湾から江南に向かって航海した場合最初に停泊する場所になる。襲撃して見て分かった世話になった知り合いを会稽に戻すわけにもいかないので消息だけ伝えたか、九州に流れ付いたから倭人の秘密を知らない人として友好のために送り返したか、短い文からは窺い知れないが、そう解釈すると辻褄が合う。

1万人の軍隊を船に乗せて人狩りをする呉国の野蛮性は、華北や華中からの流れ者が作った国だからと思うが、元々漢と交易していた倭人は華北・華中の中国人の恐ろしさを認識し、航路の秘密を守る事が如何に倭人にとって大切な事か、十分知っていただろう。対抗するには完全な制海権と、最高の操船技術が求められる。それを認識すれば造船も、航海も、海戦も、改善と研鑽が積まれただろう。事情を薄々知ったのが後漢書を書いた南朝宋の人范曄(はんよう)だった様に見える。南朝宋には百済も朝貢していたから、百済にも倭人の秘密は漏らさなかったと思われる。だから百済人は中国から倭国への経路は百済を通る必要があると錯覚し、百済の役割を錯覚し続け、百済滅亡後そのまま日本に亡命したのではなかろうか。その発想は新羅に受け継がれ、今日の韓国人の願望的歴史観にまで反映されている様に見える。この体制は倭から日本になって崩れ、唐や新羅が海上交易を始めた。日本は秘密を守る事に倭ほど熱心ではなかった様だが、伝統的偽装工作もある程度続けていたとすれば、遣唐使船がしばしば難破したというのも、創作かもしれない。

秦・漢の時代から700年以上、抜け駆けして中国人に海上の地理の知識を洩らす者もなく、この守秘体制を維持したことになる。倭人の結束力は恐るべきものだったと言わざるを得ない。漢の時代に百余国に分かれていても、バラバラの人達ではなく、何らかの合議体を持っていたと思われる。日本の縄文時代である中国の殷・周時代に、宝貝や玉という威信財を送り込んだ人達の末裔だから、統合組織を継続していた可能性がある。宝貝や玉は、無条件で威信財になったのではなく、入手性や希少性、入手経路の秘匿性などが加味されて威信財になった筈である。議論しても無駄な事ではあるが、統合組織の要として天皇の系譜がその時代に存在していた可能性も否定できない。古事記や日本書紀に書いてないと反論する向きもあるだろうが、二つの理由から、可能性を指摘したい。一つは、日本人は歴史事績や祖先の系譜に関心が薄く、目立った歴史伝承は誇張・変形して虚構文学にしてしまう傾向がある事である。源義経と弁慶はその典型だろう。だから日本人の記述する歴史は信用できない。もう一つは、古事記も日本書紀も天皇を万世一系の尊貴な血筋と主張する割には訴追力が弱い事である。日本書紀では天地創造に始まる神代の記述部分で、本文に匹敵する長文の異説を複数、延々と掲げている。これで読み手に天皇の神性を訴えていると考えるのは無理だ。恐らく世界に累を見ない祖先神話形式だろう。それでいながら、日本書紀が書き上げられた頃の事績として、朝廷の議事録の様な続日本紀に、「現神(あらひとかみ)として天下を統治する天皇としては云々」などと記されている。日本書紀は天皇の神性根拠を定める目的で書かれたのではない事は明らかで、当時既に誰も知らないほど昔から「すめらみこと」だったから、言い伝えに諸説あってよく分からないという前提で、正直にそう書いても差し支えなかったとしか思えない。日本書紀の作者も天皇の権威の根源を知らなかったが、それでも神性を疑う人はいなかったのだろう。しかし、高句麗、百済、新羅が皆建国伝説を隋に申告したから、日本も見栄を張って唐に提出するものを一応作った、という事ではなかろうか。春秋時代の呉と何らかの交渉を持った伝承があったから、その辺の年代を起源にしたが、今まで中国を騙し続けてきたのだから、正直に書く気など毛頭なく、そこで文学志向が発揮され、あの長い物語が出来たのではないかと見える。総てが当時の創作ではなく、昔物語が多数繋ぎ合わされたのだと思われる。

  

 倭人との交易に関する中国側の文献は、黄河流域の政権のものに偏っている。これは中華の中心が黄河流域だったからだが、三国時代の呉に倭人が朝貢しなかったからでもあろう。江南を征服した華北的な王朝に好意的ではなかった様だ。呉も倭人を無視してみずから人狩りに出征しているから、関係は良くなかったのだろう。その後南朝の東晋、宋などに朝貢しはじめたのは、北朝が更に殺伐としてきたからだろうか。人口が増え、経済力も付いた倭国は、『一番の弱点である韓半島と九州間の狭い海峡を守る為』、半島に出兵したということであれば話として分かりやすい。そのために強力な王権が必要になり、邪馬台国を経てヤマト王権が成立したのだろう。統一国家の軍隊は半島の南半分を領有し、その目的を達成した。倭は領域国家を目指したわけではないから、新羅や百済という現地政権を使って間接統治したと見える。百済は韓族を支配する濊人の国、新羅は移民秦人を統治する現地政権として発足したのだろう。新羅はしばしば反抗し、倭から懲罰を受けたらしい。その新羅が遂に唐と組んで百済を滅ぼしたとき、倭国は新羅に怒りを感じたかもしれないが、新羅が半島を統一して強力な唐に対峙する方が、日本にとって望ましかったと思われる。百済滅亡後新羅が唐に反抗的になった際、倭国はその新羅を応援した筈だ。

 オーストロネシア語族の言語は分析が進んでいて、起源地域と拡散過程が明らかになっている。オーストロネシア語族の人達は、西はマダガスカルから東はハワイ・ポリネシア、南はニュージーランドに広がる海洋民族で、発祥は台湾とされている。言語学的推定では台湾からBC3000年頃拡散し、BC2000年にはフィリッピンに、BC1500年にはフィージーに到達していた。拡散が始まった時代は、縄文人が沖縄に達してから数千年経た時期にあたる。北の海洋民族縄文人と南の海洋民族オーストロネシアンの交流が航海技術を発展させたという推測は妥当性があるだろう。

 BC3000年頃、倭人は良渚文化(BC3500年~BC2200年)に玉の加工技術を供与し、紀元前後には海上覇権を確立し中国交易を独占していた。島嶼ルートを知られる事を恐れた倭人は、海洋オーストロネシアンを台湾から南に追い出した可能性はある。彼らの土地であった台湾は中国人に占領されやすく、水先案内をされたら倭人の海上優位が失われるという判断があったかもしれない。オーストロネシアンは台湾より南に広く拡散し、北には進出していない。縄文人はY遺伝子D2という、どこで女性を犯しても証拠が残る遺伝子紋を持っているが、東南アジアにその痕跡はないらしい。しかし、魏志倭人伝には「婦人は・・・・衣を作ること単被の如くし、其の中央を穿ちて頭を貫きて之を衣る。」と書かれ、漢書地理誌に海南島について、「民は皆單被の如き布を服し、中央を穿ちて貫頭と為す。男子は耕農して禾稻紵麻を種へ、女子は桑蚕織績する。」 と書かれ、女性の衣服が海南島に酷似しているのは中国でも気付いている。ここから類推されるのは、倭人はここまで進出した履歴を持っているという事だろう。Y遺伝子は遺さず、多数の女性を日本列島に連れ込んだと見える。桑蚕織績の技能者として招致し、彼女等が絹の布で貫頭衣を作って着たから、それが倭人女性のファッションとなったということは十分あり得る。漢代の海南島の住民がオーストロネシアンであったとすれば、日本語にオーストロネシア語的要素が濃厚にあるのは、それが原因であった可能性もある。海南島が少し遠過ぎると考えられる場合、彼らは紀元前には江南にも居たが、越に追い出されて海南島に閉じ込められたというシナリオもあり得るだろう。呉は周の太伯の子孫が王となり、越と激しく争った国だ。太伯が多数の従者を引き連れて乗り込み、中原的な民族浄化の気風を持ち込んだ可能性は否定できない。

漢書地理誌に呉について、要約すると「殷の覇道は既に衰え、周の大王である亶父は梁の地に興る。長子を大伯、次を仲雍、少を公季と云う。公季には聖なる子である昌が有り、大王は昌に國を伝えたがった。大伯と仲雍は別れを告げて薬草を採りに出掛け、そのまま荊蠻に出奔してしまった。公季が位を嗣、昌に至って西伯になり、命を受けて王になった。大伯は初めて荊蠻に奔り、荊蠻は大伯に帰順し、句呉と名乗った。大伯が卒し、仲雍が立ち、曾孫の周章に至った時、武王が殷に勝ったので周章を句呉に封じた。周章の弟の中を河の北に封じ、これが北呉になった。後世の人はこれを虞と謂う。十二世で晉に滅ぼされた。周章の二世後、荊蠻の壽夢は盛大になり王を称した。壽夢から六世、闔廬は伍子胥を挙げ、孫武を將とし、攻めて戰勝を得て、諸侯の間に伯名を興したが、その子夫差に至って子胥を誅し、粤(越)王句踐に滅ぼされた。」と書かれている。ここから読み取れるのは、呉王は中原の系譜を持つが、越族の風習を持つ国で、当時河南省にまで越族がいたが、中原の晋に滅ぼされ南に追い遣られたということである。楚も同類の民族とされているから、越族は春秋時代依然は広く中国南部を占拠していたが、次第に中原の民族に圧迫されて南に移動したらしい。

 海洋オーストロネシアンは越族とは違う民族で、春秋時代以前には台湾海峡を挟む両岸に居住し、越族が華夏民族に圧迫されて南下する過程で両民族の圧迫を受け、やはり南下を余儀なくされたのだろう。彼らのその後を見ると交易には興味がなかった様だ。倭人は日本列島に縄文工房を持ち、沖縄という宝貝の産地を押さえて交易に邁進したが、交易する物産品が採取・生産できる後背地を持たない海洋オーストロネシアンには交易は難しかっただろう。台湾は沖縄より南に位置するが、揚子江のため海が濁り、宝貝が生育する透明なさんご礁の海は殆ど無い。仮に一時交易できたとしても、越族と華夏民族の圧迫を受け続け、南に退避するしか方法は無かっただろう。こうして東シナ海は倭人の海となった。

 日本語の漢字の読み音は、江戸時代まで呉音が主流で、万葉仮名も呉音で、仏教経典も呉音で読む。この事から、日本への漢字移入は遅くとも古墳時代に江南からなされたと考えられる。ここで、魏志倭人伝の卑弥呼の統治に関する記述「(女)王が使いを遣わして京都(洛陽)・帯方郡・諸の韓国に詣らせる時、及び(帯方)郡から倭国に使いする時は、皆津に臨んで捜露し、文書、賜遺の物を伝送して女王に詣らせ、差錯あることを得ず。」を検証したい。卑弥呼が洛陽・帯方郡・韓国の諸国に遣わした使者が所持する文書と物品、帯方郡から送られて来た使者が所持する文書と物品を港(津)で臨検し、文書の内容と物品に食い違いがないか確認するということである。臨検に捜露という言葉を使っているから、荷を解いて中身を確認したのだろう。これは、担当する役人は文書を読めた事を意味する。卑弥呼が中国人を側近に雇って代筆させていたわけではないということである。韓諸国への使者が目録を持っていたのなら、既に漢字は邪馬台国の統治に導入されていたことになる。これを報告した使者が実際に、皇帝の詔書と下賜品の検分を倭の役人に要求され、その役人が詔書の記載内容と使者の持参した下賜品の現物を検査したのだろう。「差錯あることを得ず。」としているから、きちんとした検査で、使者は役人に総てを確認する決まりになっていると言われた。皇帝の詔書は長文で、内容もレベルが高い筈だが、役人は正しく読めたことになる。文章管理が統治に組み込まれていたのであれば、高官は漢字が読めなければ勤まらないから、倭人は遅くとも漢代に漢字を習得したと思われる。

 後漢代、倭は洛陽に朝貢し金印を貰っているから、この頃習得した可能性もある。紙が実用的になり始めた頃である。北九州の奴国が倭人を統合する勢いのあった時期だから、中原・楽浪から学んだ可能性は高いが、習俗は江南から学んでいるから、いささか矛盾気味である。もう少し時代を遡って考察する必要がある。

魏略に、倭人は「その旧語(言い伝え)を聞くと、自ら太伯の後(子孫)という」と記されていたとされるが、これは倭人が史記を読んでいたことを意味するのだろう。倭人は越族ではないし華夏民族の末裔でもない。これを現代風に言えば、「我々倭人は蛮風である刺青をしているが、野蛮人ではありません。太伯の子孫という言い伝えもあります。」と見栄を切ったのだろう。「史記を読んでいますよ。私は教養人で、野蛮人ではありません。」と言いたかったのではないかと推測する。だからこれを読んで文面通りに解釈し、倭人は呉からの移住者だとか、太伯の子孫が呉が滅んだ時に日本に移住して天皇の祖先になったとか推測するのは噴飯ものだ。縄文時代から海洋を制覇し、殷・周の朝廷と交易してきた倭人が、亡国の民を受け入れたとしても、亡命者を戴くほどに落ちぶれていた筈はないだろう。

 これと関連するのは後漢書や魏志倭人伝に書かれた、「使人自ら大夫と称す。」という文だろう。後漢にしてみれば、倭人が勝手に自称した「大夫」は傍系官職だったかもしれない。大夫は周から春秋時代にかけて使われ、領地を持った貴族を指す、身分を表す言葉だった。日本では律令制以後も五位以上の男性官吏を指す言葉として使われ、長い歴史を持つ言葉になった。呉(蘇州)か越(会稽)に強い思い入れがあり、その滅んだ時に、中国人としての身分を持つ機会が失われ、時間が止まってしまった故に当時の身分呼称を使い続けていたと解釈したい。呉を滅ぼした越は楚に滅ぼされた。楚は春秋時代に宝貝に似せた青銅貨幣を多量に作ったから、倭人に敵対していた国だったのだろう。

 春秋時代の呉は既に中華的文明国だった。その呉から漢字を移入した可能性も否定できない。「大夫」に対する思い入れの深さからすると、こちらの方が本命と考えたい。ということは、漢字は稲作と同時期に入って来たという事だが、江南の風習に染まる程人の交流があったから、漢字だけではなく、所謂バイリンガル倭人が多数居たのだろう。交易者は相手の言語を理解する者達でなければ勤まらない。中国語は相手の言語を解さなくとも、文字だけを介して意思疎通できる言語として発達したから、会話している様でも実は筆談だったりする。その場合同じ文を相互に違う音で読む事になるが、日本語では漢文は読めない。平安時代以降は返り点を振れば一応読めただろうが、弥生時代当時その様な器用な技術があったとは思われないから、倭人は漢文を江南訛りの中国語で読むしかなかった筈だ。今日の我々も語順が違う英語を日本語では読めないから、英語を覚えるしかないのと同じ事情が、周辺民族倭人にだけ存在し、倭人は例えば越族の漢文読み音を習得しなければならなかった筈だ。それが呉音なら、倭人は木簡や竹簡の束を持って華夏民族と会話しただろう。北九州の倭人は逆に華夏民族の言葉で漢文を読んだ可能性がある。いずれにしてもどちらかが出来なければ朝貢も交易も難しい。これ以上の事は言えないだろう。

 中国の認識や日本書紀の書き方では、漢字も仏教も百済経由で倭に移入されたニュアンスがあるが、これは倭人の秘密主義に起因する誤解だと思われる。百済や新羅の人は、倭人が海上を制覇していた事を知らなかったから、地理的位置関係から倭の文化は半島経由で中国から移入されたと錯覚していた。彼等の方が倭人より多数華北に入り、文化的類縁性から親しくなり、彼らの考えを中国人に吹聴しただろう。倭人は元々厳格な秘密主義者だから、それに反論することなく黙っていたから、中国人、特に華北人の認識がそれに傾いたとしても不思議ではない。日本書紀にしても、今までの秘密をそこに書いて中国に暴露する意思は日本人にはなく、倭人としても自分達の秘密を今更書いて欲しくはなかっただろう。誇る歴史を誇示して一族の栄誉とし、その歴史の下に一族の団結を図るという価値観を持たなかった倭人及び日本人は、倭人の活躍を秘密にし続ける事が後世に不利益を生じるとは予期していなかった筈だ。

 これにより倭人の活動記録は失われたが、倭人が抑圧されたから闇に葬られたと云う事ではなく、双方合意の上だったと思われる。

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2013年1月29日 (火)

良渚文化以前の玉加工

「日本の古代史の基軸ポイント(1)」に不適切な記事があったので、以下訂正したい。

良渚文化(BC3500年~BC2200年)以前の中国の玉器として、
河姆渡(かぼと)遺跡(BC5000年~BC4000年)から
管玉や玦状耳飾りと呼ばれる玉製品が発掘されている。
良渚は杭州、河姆渡は杭州から更に海岸寄りの江南地域にある。
玦状耳飾りは同じ頃新潟県でも生産されていた。又遼寧・満州地域でも発掘されている。
朝鮮半島からはこの時代のものは発掘されていない。
3地域の関連は明確ではなく、当分不明の状況が続くだろう。
満州地域は沿海州辺りとも関連がありそうであるが、双方発掘実績が不十分な状態にある。
こんな場合、少ない遺跡からの情報で仮説を作ると、
新しい発掘によって否定される恐れがある。
従って研究者の発言は慎重にならざるを得ず、分かりにくい説明しか得られない。
ほぼ同時期に似た形状のものが、見かけが類似する所謂玉器として作られているので、
研究者は相互に関連があったと看做しているが、
3地点は余りに距離が離れているので、関連の説明に困惑している。
考古学者川崎保氏は要約すると以下の説明をしている。

日本に関しては、玉質の石材を利器に使うことは旧石器時代以来の伝統があるが、
縄文時代早期末に玉質石製装身具が急に出現し、
日本列島でほぼ斉一的に変化するから、
少なくとも日本列島各地で独自に発生したものではない。
広域に分布するが、当初は製作遺跡が北陸地方にほぼ限定されることを考えると、
伝播のルートを考える必要があるが、
日本列島の玦状耳飾りなどの玉質装身具を含む日本列島の玉文化が
大陸の影響をまったく受けないで成立、展開したとは考えにくい。 

更に、玦状耳飾り出現期からすでに管玉や垂飾(箆状垂飾など)が存在し、
これらは中国東北部の遼寧省査海遺跡をはじめとする興隆窪文化や
黒龍江省小南山遺跡などの資料
さらにはロシア沿海州チョールタヴィ・ヴァロータ洞穴資料などと
個別の装身具の器種が類似しているだけではなく、
セット全体での類似が認められる。
形態的にもチョールタヴィ・ヴァロータ洞穴の「玦状耳飾り」は
日本列島の中では古いタイプである。
チョールタヴィ・ヴァロータ洞穴の箆状垂飾は湾曲したタイプであり、
これは日本列島では桑野遺跡
(BC
4000年;多量の玉製品が発掘された福井県の縄文早期~前期の遺跡、

福井県には鳥浜貝塚もある)に見られる。
よって、出現期の玦状耳飾り(玦飾)やそれに伴う管玉(管状珠)、
箆状垂飾(匕)のセットや形態、炭素
14年代から中国東北部を起源とし、
沿海州経由で日本列島に波及してきたのではないかと推測する。

 鳥浜貝塚はBC10000~3000年の縄文遺跡。縄文時代前期の丸木船が発掘されている。BC3500年頃の土壌から、どんぐり、くるみなどの堅果の他、まぐろ、かつお、ぶり、さわら、の骨が見つかっている。ひょうたん、うり、あさ、ごぼうの種子も発見されている。

 当時の縄文人は海上で漁労をしていたのだから、彼らは海洋民族で、この発掘年代から更に1000年ほど前から既に漁労と共に海上交易をしていたと考えれば、難問は氷解する様に思える。日本の研究者は、日本の文化は大陸の文化が朝鮮半島経由の陸路で伝播したと考えたがるし、中国の研究者は中国大陸が文化の発祥地だと決め付けたがる様だが、3地点のいずれが発祥地であるかは軽々には決められない。確かなのは、新潟県には工房が存在したことである。他の2地点からはまだ遺物が発掘されているに過ぎないが、将来工房が発掘される可能性がある。桑野遺跡を縄文前期初としてBC4000年と同定した様だが、国土交通省近畿地方整備局では縄文早期の遺跡(BC4000年以前)としている。

 不確かさの淵に沈むと何も言えなくなる。少なくとも、縄文人が海洋交易をしていた故に3箇所の遠隔地の玉製品に共通性があったのだとすれば、遺物が現地生産であるか交易品であるかは問わず、物と加工技術は相互に伝播したであろう。遼寧省査海は「岫岩玉」の産地とさほど離れていない。

 岡村秀典氏は二里頭・殷・周に跨る玉文化の発生・交易の起源調査としての中国での発掘状況は概略以下としている。

BC5千年紀には遼東半島と山東半島間の交流はほとんどなく、それぞれ独自の土器様式が広がっていた。BC4千年紀になっても、漁労活動にともなって少数の土器が山東から遼東に運ばれるくらいで、両地域の土器様式にはほとんど変化が見られない。ところがBC3千年紀に山東と遼東との交流がにわかに活発になる。

「岫岩玉」を用いて遼東ではBC五千年紀から小型の斧や鑿などの工具類を作っていたが、石器の代用品としての利用に留まり、加工技術は未熟なままで、玉の美しさを生かした装身具は作られなかった。錐状の工具で紐通しの孔をあけることは早くから始まっていたが、BC3千年紀になると、竹の様な管状の工具で直系1cm以上の大きな孔をあける技術が、江南から山東をへて遼東に伝わった。江南というのは良渚文化を指す。

竹の様な管状の工具で直系1cm以上の大きな孔をあける技術は新潟県の長者が原遺跡でも使われ、その起源は長者が原なのか良渚文化なのか、「日本の古代史の基軸ポイント(1)」で論じたところであった。その際中国の穿孔技術は良渚文化以前に遡らないと書いたが、河姆渡を考慮していなかったので、ここで改めて検討したい。

  先ず言えるのは、日本と、河姆渡・良渚文化と、遼寧ではどこが玉の穿孔技術の発祥地か分からないが、縄文人の航海技術が3者を結びつけたらしいということである。大きな孔をあける技術の移転だけでなく、遼東と山東半島間で他の活発な交流も同時に起こったのは、縄文人が両半島を船で結びつけたからだと推測するべきだろう。船が無ければ日本と河姆渡・良渚、日本と遼寧は結びつかないし、遼寧に航海技術が無かったのは明らかなのだ。この様な関係にある場合、どこが技術オリジナルなのか、概ね想像が付くだろう。縄文人が手広く交易をして大陸各地の特産物を物色していたら、偶々遼寧の玉を見つけ、それを江南に売さばき、そうこうしていたら江南で新しい技術が生まれたので今度はそれを遼寧に持って行ったというシナリオもないことはないかもしれないが、それでは縄文人の交易活動があまりに派手すぎる。新潟県には大きな工房もあり、最も硬いヒスイの加工に挑戦し続けていた。個別技術の実際の開発が何処で為されたかは分からないにしても、技術センター的役割は果たしていただろう。

  新潟県で誰かが玦状耳飾りを作ったら、近隣でブームになったので、交易に出掛けたら江南と遼寧で受け入れてくれたというのが、想定として一番大人しい。やがて直系1cm以上の大きな孔をあける技術が日本と江南で開発され、一番軟らかい「岫岩玉」が豊富に産出する遼東に伝わり、中国的な精緻な玉加工技術に発展したのであれば、解釈は容易だ。日本は中国が独自の技術発展に踏み出すまで、技術交易センターの役割を果たし、やがてヒスイという硬い玉の加工に特化して行ったのではなかろうか。そのプライドが日本の弥生・古墳時代のヒスイの勾玉・管玉重視の文化に繋がったのであろう。

  倭人はそれらの身体装飾を好んだが、日本人は好まず、奈良・平安時代以降宝飾品で身体を飾る文化が失われたように見える。倭人と日本人は同文同種の民族でありながら、商業民族と農耕民族など習俗や思想は大分違った人達だった可能性がある。

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2013年1月25日 (金)

漢代、倭人は中国との交易に励んだ。

  日本の古代史の基軸ポイント(2)として、漢代の倭人の交易状況を検証する。

 前回の、「二里頭文化期から殷代・周代(BC17世紀~BC8世紀頃)まで、倭人は貨幣である宝貝、威信財である玉器の交易で潤い、組織的な交易をした」 を受け、今回の検証を進める。次の春秋戦国時代に宝貝と玉のビジネスは壊滅したと考えられる。宝貝は貨幣の座を春秋時代(BC8世紀ーBC5世紀)に青銅に譲り、玉器は技術を進化させた王の工房で作られ、殷墟(BC14世紀―BC11世紀)から発掘されている。中国四大玉産地は、遼寧の「岫玉」(硬度4.8-5.5)、新疆の「和田玉」(硬度5.5-6.0)、陝西の「蘭田玉」(硬度~4~)、河南の「南陽玉」(硬度6.0-6.5)で、陝西や河南は長安や洛陽の王の工房に近いから倭人の出る幕はなさそうだ。硬玉である翡翠(硬度6.5-7.5)の加工技術を得た中国で、軟玉(硬度6.5未満)の造形加工が発達し、複雑な形状の器物が喜ばれ、遼寧の「岫玉」に頼るビジネスも行き詰った。新しいビジネスが生まれなければ交易は立ち枯れてしまう状況になった筈だが、春秋時代の倭について記述した文献は見当らない。全くの推測だが、倭に青銅器時代がないのは、倭人が青銅器に怨念を持ったからではないかと考える事ができる様に思える。青銅の武器は重いから、海戦には不向きだった可能性もある。当時の小船での海上戦では鎧を着けずに戦っただろうから、竹槍や弓矢の方が有効だろう。当時の倭人の墓は発見されていないから、確かな事は言えないし、縄文時代の倭人に豪華な首長墓を作る習慣があったのかも怪しい。死を「隠れる」とする思想が縄文時代由来であれば、抜け殻である死体は野辺に捨てられ、水葬されたかもしれない。墓もなく、木製家屋に住んでいたのであれば、当時の倭が豊かであっても考古学的遺物は発見されにくいだろう。

 戦国時代の倭に関して、山海経(BC4世紀~BC1世紀著作)に「蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。」とある。鉅燕(BC3世紀前半の燕)は遼寧(渤海湾北岸)を中心とし後の北京を都にしていた。蓋国がどこを指すのかは不明だが倭は燕の南(の海上)というのは漢書地理誌と同じ認識になる。当時の燕は中華の僻地だから、それほどの交易量は見込めなかったと思われるが、黄河を遡上できない倭人が止む無く交易したのだろう。黄河はBC2278年~AD1128年は渤海に流れ込み、当時の黄河は現在の天津辺りで海河と合流し渤海に注いでいた。燕の都は黄河の河口都市だったかもしれない。二里頭時代からの銅鉱山が近くにあり、この頃遼寧で鉄の生産が始まっていたから、それらが交易の対象になっただろう。北九州の銅剣、銅矛文化はこの遼寧の影響が強いと思われる。山東の斉の都も海に近かったが、斉でなく燕であったのは「岫玉」の産地を領有していたからだろうか。

当時中国では河川や海岸を航行する船はあったが、日本列島に関する地理的知識の欠如を見れば、日本に渡る航海術はなかった様だ。中国人が河川で優位になり、中国が動乱に突入すれば倭人の黄河遡上交易は困難になり、北九州廻りの朝貢交易は海に近い都に限定される。内陸河川は盗賊に襲われる心配があっただろう。時代は下るが、水滸伝で有名な盗賊の巣窟であった梁山泊は渤海から趙の都である邯鄲への途上になる。

 ここで徐福伝説を検証してみたい。斉の徐福は秦の始皇帝を騙し、仙人を東の海上に求めると称して童男童女数千人、五穀の種子、多くの工具と共に船出したが戻って来なかった、と史記に書かれている。史記が書かれた時期からさほど遡らないから事実だろう。本紀では徐福は戻って始皇帝に言い訳しているので、内容に混乱がある。日本列島と琅邪(現在の青島南)を何度も往復したのかもしれない。

徐福が倭人の子孫だったら、この数千人は移民ではなく倭人の現地子孫が秦の圧政や長城の土木工事への挑発を恐れて逃れたということで、徐福がなぜそこまでしたのか理解しやすいが、証拠はない。徐福は始皇帝に、海中に蓬莱・方丈・瀛州の三つの神山があると言ったが、思いつきで言ったのでなければ、三つは九州・四国・本州を指すのかもしれない。

当時の倭人の船が伝統的な構造であれば、数千人を運ぶのは困難だったろう。中国の河川・沿岸航行用の船として構造船が登場し、サイズの点で倭人の船に優っていたから、それを官営造船所で海洋航行用に改造させ、複数隻x数回で数千人と工具を運んだというのが妥当な推測の様な気がする。安全に日本列島に着くには倭人の水先案内は必須だ。当時はまだ鉄器が十分普及したとは言い難い状況だから、官営造船所の木材加工技術は倭人の垂涎の的だっただろう。鉄の道具がなければ構造船の材料となる板は大量に作れない。鉄だけあっても鍛冶技術がなければ目的とする大工道具は作れない。倭人は鉄と鍛冶技術の輸入に熱心になっただろう。徐福が江南ではなく斉の人であるのは、朝鮮半島沖を南下して北九州に到れば、距離は短く構造船の損傷も免れやすいからだったのではなかろうか。

 後漢書倭伝の末尾に「夷洲、澶洲が会稽の海の彼方にあり、徐福は澶洲に留まった。子孫は数万家になったと伝えられている。夷洲、澶洲の人々は時々会稽の市に来る。会稽郡・東冶県の人で海に出た時に大風に遭い、漂流して澶洲にまで行った者がいる。夷洲、澶洲は大変遠い所にあり、距離が遠すぎるので往き来はできない。」と記されている。漢代にも中国から沖縄や日本に渡る航海術はなかった事が分かる。後漢書の作者范曄は南朝宋の官人で、倭伝の大半は先に書かれた魏志倭人伝の内容を踏襲し、この記述も三国志呉誌の内容をアレンジしたものになっている。三国志の作者陳寿は呉とは疎遠の人であったらしく、徐福と夷洲、澶洲を関連付けたが倭とは関連付けず、魏志倭人伝には「倭の位置を計算してみるとちょうど会稽・東冶の東にあたる。」とだけ記されている。三国志呉誌では230年に夷洲を攻伐し犠牲を払って数千人を得たとも書かれているが、倭人伝には倭が呉から攻撃された痕跡は見えないから、当時の呉が夷洲と看做した島は倭ではなかったことを陳寿は論理的に理解していた。しかし南朝宋には倭の五王が朝貢し、倭人は会稽の市に出没していたから、范曄は倭人からの情報として、夷洲は沖縄、澶洲は本土と理解していたのではなかろうか。台湾の存在も倭人から聞いていたかもしれない。

三国時代の呉に倭人は出入りしていた筈だが、倭人と夷洲は関係ないと考えていただろう。だから記録にも倭という言葉が出ず、陳寿も夷洲亶洲を呉の内部の歴史として扱った。当時呉は労働力としての人民が不足し、夷洲に人狩に行ったとされている。呉は倭人の生口交易の顧客だったことになる。呉は、夷洲、亶洲に徐福の子孫数万家があると伝え聞き、生口の供給源だと期待したらしい。その情報源は、亶洲から会稽の市に来た人(倭人)が徐福伝説を語り、会稽・東冶県の人が暴風に流され亶洲に至った人がいる(倭人に連れ戻して貰った?)こととされている。東冶県は現在の福州市辺りとされている。倭人が沖縄から台湾北岸を経て江南に向かった場合、最短で接岸できる場所で、山並みが海岸に迫り出しているから海上から位置が判断しやすい。閩江という水量の豊かな川が中洲を作りながら流れ、安全な給水地としても適している。倭人にとって交易の要衝となる土地の住人に便宜を図って友好を求めるのは重要な事だっただろう。逆に言えば、日本を知ってしまった中国人を滅多に送り返さないという秘密主義を守っていたのかもしれない。それでなければここまで中国人の知識が欠如している筈がないとも言える。判れば、呉の様に兵船を揃えて押し寄せてくる恐れは感じていただろう。

呉が1万人規模の兵隊を海上に出して夷洲、亶洲を探した事から、呉が期待した獲得人数は少なくとも兵隊と同数以上だった筈で、当時倭人がどの程度の人数の生口を華南に送り込んでいたかを推測することが出来る。毎年数百人~千人位を送り込んでいれば、この様な欲望を起すだろうし、数十人程度では1万人規模の軍隊を送り出す気にはならないだろう。逆に万人単位の生口を送り込んでいれば、軍隊は出さなかっただろう。徐福がした事を繰り返し呉に対して行なっていたから、倭人の中で徐福の記憶が呼び戻された可能性もある。大規模の移民は徐福がその道を開いたのだろう。

三国志呉誌では亶洲と書き、後漢書では澶洲と書かれている。亶は説文解字で「穀多い」という意味だから、誰が命名したか分からないが、実質的には日本列島を指すと思われる。范曄が意味不明の澶に変えたのは、誤植だったのだろうか。

 時代を戻して、

 漢書地理誌には「楽浪海中に倭人有り。分かれて百余国を為す。歳時を以って来りて献見すと云う。」と書かれている。倭人の交易者の単位は「くに」で、当時100程あったということは、「くに」単位のビジネス競争社会であった事を示す。中核ビジネスを失った倭人は、小グループに分かれてビジネスをしていたという事だろう。小グループの自由競争は新規事業開発や事業規模拡大を実現しやすい。新しい商品を発掘する力も格段に向上する。その効果は現代資本主義と共産主義の対比で実証されている。

東シナ海・黄海・渤海の海上交易は古代ギリシャのポリスと同様多くの倭人勢力の競合体制だったことになる。毎年複数国が中国高官に献見(貴人と会見する)していたのなら、活発な交易が行なわれていたのだろう。献見することは利益に見合うという打算があった筈だ。倭の群小国王の権威を中国に認めてもらうためという説があるが、倭人は中国人の渡海能力を知っていたから、中華からの権威付けが倭内部での権力向上にそれほど役に立たないのは判っていた筈だ。それより交易の便宜を求める動機の方が現実的だ。中国船が沿岸航行に乗り出せば、海上といえども沿岸は安全ではなくなり、政治活動が必須になるのは今日も変わらない国際情勢だ。各所の郡長官(地方軍事組織の長)に付け届けを絶やさない必要はあるだろう。

倭は中国から鉄と青銅素材を輸入した筈だが、見返りに日本から何が輸出されたのか、当時の記録はない。後漢書によれば奴隷交易はある時期から主要ビジネスの一つだった様だ。時代は少し下るが、魏志倭人伝に、麻糸、絹織物、真珠、青玉(翡翠?)、丹、猿、黒い雉などが記されている。魏の官人に江南との取引の内情を正直に申告するとは考えられないから、記録された品目に納得がいかなくても仕方ない。壱岐、対馬の4千戸、唐津辺りの山が迫った海辺の4千戸が、交易の物流で生計を立てていたのだから、北九州~渤海交易は相当な量だったのだろう。但し交易の物品すべてが此処を通ったかどうかは判らない。交易者は黄海や東シナ海に出向き、島は拠点だった可能性もある。

後漢書にはAD57年「倭奴國貢を奉じ朝賀す。使人自から大夫と称す。倭國の極南界也。光武(帝)印綬を賜う。」、107年「倭國王帥升等生口百六十人を献し、請見を願う。」と記されている。前漢時代の分国状態から奴国が抜きん出たらしい。「倭國の極南界也」とは江南交易まで支配していたことを意味し、九州は統一された様に見える。中国から見れば東の海を会稽沖まで支配していると奴国王の使者が断言すれば、「極南界」という表現に自動的になる様に思われる。裏を返せば、北にも倭人が住んでいたことになる。多分本州の倭人を指すのだろう。

王莽の新の後の中国の動乱によって交易が減少した事が小国の統合を推進した様だ。その50年後には更に統合が進み、倭国王が誕生している。九州一円を仕切る奴国を含む広域連合は本州政権になるだろう。交易に従事する人達の連合なら領域国家ではないから、戦争によって統合されたのではなく、企業連合的性格であったと考えられる。本州の倭人は金属と移民奴隷が欲しかったから、大陸と交易していた倭人と連合したか、九州を傘下に組み入れた事になる。それが動機なら交易量が飛躍的に増加した筈だ。その中心が畿内にあったのかは分からない。纒向が邪馬台国の宮殿跡だったとしても、同じ場所であった保障はない。

最大の交易品が奴隷だったとすれば、奴隷の調達から販売までを扱う大規模な組織が誕生したと推測できるかもしれない。当時の中国の人口激減や東夷の動乱を考えると、奴隷交易は行き場のない流民の就業斡旋業という側面があっただろう。関係者全員に利益がある事業は利潤が大きいのが常だ。売り先が揚子江流域と、日本列島の水田稲作地帯であれば、歴史的必然の世界になる。漢代は中国で鉄器の普及期だったから、水田が開かれ灌漑工事が可能になり、労働力が必要になる。奴隷は倭人ではなく、半島や遼寧辺りで調達したのだろう。交易業者が自民族を奴隷として売るとは考えにくい。

中国では王朝末期に政権が衰えると流民が発生するが、彼等を隷属的農民にすることは難しかったと思われる。武力鎮圧の対象になる匪賊・強盗の類になって農村を荒し回ったからだ。倭人が船に乗せる流民や困窮民が、乗船の段階で異郷の農業労働を承諾した人達だったのなら、効率の良い労働移植ビジネスになる。海上輸送のルートが確立すれば、船は効率の良い安全な移民移送手段になる。小集団が匪賊の襲撃を避けながら言葉も通じない内陸を長距離移動することは難しい。行き先が天水を使える未開の畑作地ならまだしも、灌漑工事が必要な水田地帯などは流民集団の落ち着き先にはならない様に思える。彼らが鎮圧されて奴隷として売られたのであれば別であるが、流民集団を引き取って養う様な慈善家が居たとは思えない。食料が不足して流民にならざるを得なくなった村とか、鎮圧されて四散した小集団とか、移民奴隷になるのが唯一の生き残り策だったろう。

華南や日本のY遺伝子O3の人達はこの様な手段で移民した人の末裔である可能性は否定できないだろう。呉は戦国時代には楚の一部だったが、前漢時代に呉楚七国の乱の中核国になるまでに発展し、三国時代には中原の魏に対抗する国に成長している。稲作農業の驚異的発展があったのだろう。徐福の検証の中で推測した様に、毎年千人程の難民奴隷を江南に送り込んだとすれば、後漢200年で20万人、日本の古墳時代に倍増したとして、400年間で80万人という計算になる。家族として男女を送り込んでいれば、後世数百万人になった筈だ。日本列島にその半分程度を別途送り込んだとすると、奈良時代に100万人程になり、総人口450万人~650万人の2割前後ということになる。現在日本人のO3比率が15~20%で、九州での比率が高いことの説明になる様に見える。後世の日本人はこの人達を帰化人と呼んだ。移住に関して同意があった事を強調したのだろうか。学術技芸に優れた人も含んでいただろう。百二十県の人民を率いて弓月の君が帰化し秦氏の祖先になったと云われる。東漢氏、西漢氏なども、移民の長が倭人と交渉して集団移住したのだろう。船を持たない内陸民であった彼らが、自発的に「渡来」するとは考えられないから、「帰化人」という呼称が彼等を気遣った呼び方だったと思う。江南に殺伐とした華北的風俗が浸透しつつあった状況を勘案すれば、日本に送る移民と江南に送る移民に区分けがあっただろう。知識・技能系は日本列島向けだったと思う。交易としてその方が高額の契約が見込めただろう。韓国式の誤った歴史観からそろそろ卒業したいものだ。

漢代が終った直後の状況を記した魏志倭人では倭は江南の風俗だと描かれている。南九州や沖縄に多数の交易者が居たのだろう。相当の人数が往来しなければ倭人が江南の住民と間違うほど習俗の近接は起こらないはずだ。魏志倭人伝の作者に情報を提供した魏の使者は東と南を、間違えたか、紛らわしい報告をした様だ。それで邪馬台国の位置が未だ決まらない。倭人は古くから江南と交易し漢代も交易量は圧倒的に江南が多かったと思われる。漢成立後、黄河流域の洛陽・鄭州、遼寧、楽浪との交易が増えれば、そちらの地域への交易拠点として北九州が位置づけられ、北方文化に染まった地域として栄える様になるだろう。明治時代の神戸や横浜が西欧風の街になったと同様な事が起こっただろう。一方で、南九州、瀬戸内、畿内は依然江南風だったとすれば、魏の使者は北九州から倭の奥地に進むに連れて江南色が強くなる光景に遭遇した筈だ。これでは東と南を混同しても不思議はない。魏志があるから、倭は魏を中華の代表として接したという錯覚を持つが、魏の使者が見たのは明らかな江南習俗だから、倭は漢代、江南を中華として接していたと認識すべきだろう。

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2013年1月20日 (日)

日本の古代史を再検討する基軸ポイント(1)

 倭人伝を検証し、記述内容は信憑性があることが確認されたから、それらを繋げて日本の古代史を再構築する。先ず重要事項から敷衍できる状況の検討から始め、点を線にする必要がある。事の真偽に関する検証は既に「倭人伝に見る日本人」で実施したので、「それが事実であったなら更に何が言えるか」を考察する。新たな矛盾が発生しなければ、間接的な検証にもなるだろう。

1、殷を中心とする中国古代遺跡で発掘される宝貝は沖縄産が多数を占める。

2、漢代(BC3世紀~AD3世紀)、倭人は中国との交易に励んだ。

3、倭人の習俗は江南的であり、主たる交易相手は江南であった。

4、日本では、飛鳥時代以降、江南的倭人と内陸的日本人の政治・文化路線が対立した。

5、縄文時代以降日本列島周辺の海洋は倭人の海で、倭人が連れ込んだ民族だけが移住した。

6、朝鮮半島は中華文明と倭人文明の谷間だった。

7、日本人は歴史を文学にしてしまう。

今回は1、項の検討とする。

1、殷を中心とする中国古代遺跡で発掘される宝貝は沖縄産が多数を占める。

殷に先行する二里頭遺跡の宮殿跡はBC17世紀頃と推定され、有力者と思われる人物の墓から90点程の宝貝が発掘され、末期であるBC15世紀頃の墓2基からも同様に発掘された。二里頭遺跡は黄河南岸の鄭州にある遺跡で、緯度は大阪とほぼ同じ。当時の気候は温暖湿潤であったらしい。二里頭文化期の遺跡の土壌分析から、アワ、キビ、大豆、小麦、稲、大麦の種子が見つかっている。稲は陸稲か水稲か分からないが、ジャポニカ米である。小麦もこの頃から栽培が始まったらしい。小麦は他の雑穀と比較して単位面積当たりの収穫が多く、世界4大文明は小麦の生産地だったという指摘が納得される。鉄がない時代の稲作がどの程度の収量だったか分からない。黄河流域で青銅器が出現するのは二里頭遺跡からで、ここからは酒を温め香草の香りを付ける盉(か)と呼ばれる土器も発掘されている。

鄭州は海岸から直線距離で500km以上離れた内陸で、中国の沿岸では宝貝は採取できない。不確かであるが、後世の越人は自分達が夏王朝の子孫だとする伝説を持っていたらしいから、当時越が二里頭文化人と交易していた可能性は高い。越は江南沿岸部の民族で、西南諸島を経て来た倭人と最初に接触した筈である。越は後世となる春秋戦国時代に青銅器の生産地として知られた。

注目すべきは、同時代の内蒙古夏家店遺跡の43基の墓から総計659点の宝貝の他に、宝貝を模倣して加工した貝製品が大量に発掘されている事である。夏家店遺跡は遼河文明の遺跡だ。遼河文明は中国青銅器の発祥地と考える学者もいる。二里頭遺跡の支配階級が銅を得るために夏家店の有力者に宝貝を贈呈したと推測される。その銅は中国各地に分配され、遠く四川省三星堆まで送られた疑いもある。遼河文明は、縄文時代中期頃の温暖期に栄えた文明で、青銅器が中国で使われ始めたBC2000年紀には寒冷化のため農耕が衰退し始めていた。遼河文明を担った民族は分からない。

 宝貝を財貨と考える文化が既に萌芽し、倭人が既に供給していたのであれば、二里頭・殷・周の権力者は極力仲介者を排除して直接倭人と接触したがったであろう。その辺の事情を考察する。

山東半島と遼東半島の間には島嶼があって渡海しやすいにも拘らず、BC四千年紀までは相互の交易の痕跡がなく、BC三千年紀になって漸く始まるらしい。遼東半島は中国人が好んだ玉器の原石の産地で、BC二千年紀に竹を使った穿孔技術が江南から伝わった。揚子江下流の良渚文化(BC3500年~BC2200年)では既に鑽孔玉器を製作していた。想定される竹を使った穿孔技術は、縄文時代に新潟県糸魚川の長者ヶ原遺跡で縄文人がヒスイの加工をする際使った穿孔技術と酷似している。長者ヶ原遺跡はBC3000年~BC1500年頃の工房を持つ巨大な縄文遺跡。時代も同時期でどちらが穿孔技術のオリジナルか、判定できない。長者ヶ原遺跡の近くに、大角地(おがくち)遺跡と呼ばれる縄文時代早期(BC5000年頃)の遺跡があり、こちらからは軟らかい滑石で作った耳飾りなどの日本的な玉器が出土し、穿孔が盛んに行なわれている。硬いヒスイは加工用の道具として使っていた痕跡がある。ここは海岸で容易に採取できる蛇紋岩を使った磨製石斧の製作工房だったらしい。石斧の完成品が10点出土し未完成品が133点出土したから、交易が行なわれていたことが推測される。一方中国では良渚文化(BC3500年~BC2200年)以前には身分秩序を表現する玉器は出土していない様だ。

ここまでの事実からは、縄文中期に新潟県のヒスイ加工技術が、良渚文化(BC3500年~BC2200年)に伝わり、更にBC2000年紀に山東半島から海を越えて遼東半島に伝わった事になるから、この立役者も倭人であった可能性があり、渤海湾に進出していた証拠となるから、あとは黄河を遡れば二里頭に到達する。倭人は中国で玉器の製作を指導したのであれば、当然交易も握っていただろう。倭人の守秘義務の対応性の良さがあってこれらが中華での威信財の典型となったと思いたい。当然倭人の交易者としての組織力と、権力と競合しないという了解も背景として存在していなければならないだろう。それは、倭人は越人とは全くの異人種だった事を意味する。また、二里頭期のかなり早い時期に黄河を遡上する交易を始めただろうと推測される。

此処まで話が広がると、職人民族倭人の面目躍如たるものがあり、日本人としては痛快だが、誰かが学会で発表したら、中国と韓国の学会から痛烈な批判が出るだろう。それと渡り合う度胸のある研究者が現在の日本には居そうもない。日本の歴史学者は20世紀に余りにも政治的に痛めつけられたから、PTSDから快復できていなくとも、個人的責任を問う事はできないだろう。

最後に付記すれば、照葉樹林文化として、雲南・江南と倭人の類似性が多数指摘されているが、それらの一部はむしろ倭人のオリジナルであった可能性もある。例えば鳥居、装飾、建築、民話・神話とか。いずれにしても双方で刺激し合い更に発展したのだろう。

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