世相

2013年11月 5日 (火)

予知能力の涵養

人が生きていくためには色々な能力が要る。学校で習得するのはその一部でしかない。学校で学べない能力に予知能力がある。学校や塾で学びすぎるとこれらの能力はむしろ退化する。しかし実社会では色々な場面で使わざるを得ず、結果に大きな差が出るし、能力を向上させる経験も個人差が大きい。

経験は常に能力を向上させるわけではなく、余りに高い能力を要求されると、挫折感から却って向上意欲を失わせ、劣位の人になる場合も多々ある。能力が要求されているという認識は個人的な感性のみに依存するが、その感性は周囲の人からの教唆による影響も大きい。特に若年になるほど、経験が乏しい故に大きな影響を受けやすい。

子供は本能的に自分の感性に大人が踏み込むことを警戒している。それを許せば自分の感性が大人に支配され、自律性が破壊されると感じるからで、その感覚は極めて正常である。感性が大人に支配された子供は、子供時代には良い児かもしれないが、大人になって自分に必要な能力を嗅ぎ分ける能力を喪失している。その様な子供は人格障害を発症しやすい。親子で価値観が近いからと言って、子供が自分の判断プロセスを親に渡したくないと考えるのは極めて健全である。反抗期という概念があるが、感性の防衛はもっと若い時期から萌芽すると考えるべきであろう。

人格障害は、学校で学びにくい能力を持っていない事を自覚している人を包含する。自分の価値観に不安を感じ、余りのギャップの大きさに圧倒されれば、逃避するか従順に振舞うかどちらかになる。青年期であれば親や教師や友人に、社会人になっていれば社会組織に、結婚していれば配偶者に従順になる。これは人間として当然の行為で、この分野に得意な人の忠告を素直に受け入れる姿勢は時に美談でさえある。近年、個性化としてこれを否定する思潮が拡大している。そのことそのものの是非は判断しにくい。成功している者は声が大きく、好ましい流れに見えるが、敗者には厳しい世界観である。左翼は経済活動にだけ、貧富の差として噛み付くが、問題の本質はむしろ、個人を前面に押し出すことによる社会の荒廃懸念ではなかろうか。

予知能力に関して言えば、問題なのは、幼児期に親に従っていたが、それでは社会では立ち行かないと気付いた場合である。社会に溶け込めない自分に苦しむだろう。しかしこの時点ではまだ人格障害ではない。

世間には積極的で攻撃的な人と受動的で温和な人がいる。必要な能力を身に着けていると看做される人が積極的であれば、人は高く評価する。受動的で応分のささやかな人生を目指す人は人畜無害と言われる。問題は能力が無いのに積極的な人である。荒っぽい分け方であるが、人を相対チャートで区分すれば、1/4の人がこれに相当する。更にその1/4の人の程度の優劣を再び各2分すれば、その区分1/4の人、即ち全体の1/16の人はかなり危険な状態になるという机上の理論になる。机上ではあるが、人格障害者の統計では、概ね数パーセントから十数パーセントが、人格障害者と言われるのは、この単純な推論と合致する。

人格障害者の典型的なモデルは、母親が人格障害者の人である。価値判断が定まらず、独善的で攻撃的な人になる。彼女は子供に、学校では学べない能力を伝授できない。彼女自身は世間の荒波を乗り切るために、即ちその能力の欠陥を補う為に、世間で明確に推奨される行為を組み合わせて実行するが、そのちぐはぐさから能力ある人からは疎んじられる。彼女は自分の子供に見せかけの推奨動作をさせるが、心という能力は伝授できない。一部の苛立つ母親は語気が荒くなり、子供に理由を伝えずに推奨行動のみ要求するだろう。母親と呼ばれる人は一般論として、自身の社会的適応能力とは関係なく、子供を躾ける能力が高い人が多い。これは女性の生得的能力だろう。男性には元々無い能力だから、男女を比較しても意味が無い。男性は、理性だけで子供が知能を発達させ得ると誤解している。誤解はしていないのだが、男女同権論というイデオロギーに触れると反論できず、予知能力の無い男性も、自分も子育て出来ると錯覚し、行動に走ったりする。

孤立している子供は、新しい共感を求めて仲間を探すが、それは苛めグループ関係になりやすい。大人の世界でもそれは日常茶飯事だ。軋轢の中で孤立する子供は、いじめの標的になりやすい。しかし彼らは、それを通してしか母親から学べなかった能力を確認できる場がない。問題児の集団から、標準より高い能力を備えた子供も排出される。子供も経験から学ぶのであって、教育はそれを微弱ながら支えているという程度のものでしかない。

それらのグループに入る事を禁止された子供は、思春期から大きな違和感を持って過す。漠然とした違和感を抱えて大人になるのなら、その人は正常である。自分の未発達な能力を認め、親離れするのを反抗期と言うが、よほど出来た親でない限り、問題を他人に転嫁する手法を子供に教える場合がある。その性合成に子供は葛藤し、親からは離反する時期が遅れ、離れた後が悲惨になる。

人間関係は生涯の課題なのだから。

| コメント (0) | トラックバック (0)

2013年10月21日 (月)

「恨みを忘れない文化」に対する誤解

韓国人が恨みを忘れないのは、情感に根差しているのではない事が分かっても、その由来を説明する説に出会わない。歴史的な解釈が出来ないからだ。韓国人の恨みは、それが長い歴史を積んだ正義なのだと考えれば、納得できる。

何時の時代にも、隣国、隣郷、隣人との紛争はある。武力や腕力を使う場合には、正義が必要になる。大義名分と言っても良いだろう。上位である国が方針を決めれば、民はそれに従う。価値観は、上意下達的な性格が強いからだ。

日本について言えば、天皇の任命という公の認識があった。明治維新では錦の御旗と言われた。長州の幕府に対する恨みは、関が原以後続いていたと言っても、日本人は動かない。それ故、大義名分に関する日本人の意識は、公的な性格を帯び、国家統治には冷静になりやすい。

西欧も様子が似ていた。教会やキリスト教が上位概念にあり、私怨で動くのは大儀がないと言う意識は、昔からあったのだろう。日本と状況が似ている。

中国にはその手の公が無い状況が、秦の国家統一以後続いた。大義名分を皇帝の絶対性に求め、それが不十分だと分かると、身分制を作り、序列秩序で固めた。秦以前の春秋戦国時代には、周王朝という大義名分と、諸侯の統治という制度があり、公権力と実力者という大儀があった。だから春秋戦国時代は、百花繚乱と言われる文化の隆盛を見たが、それ以後文化は劣化の一途を辿った。中国では覇者を評価しないのは、司馬遷の歴史観から始まる。

朝鮮は長らく中華の柵封国だったから、国王が大義名分を唱え、隣国と対峙する事が許されなかった。だからといって隣の民族や国と、紛争がなかったわけではない。争いを処理する為には、彼らの大義名分が必要になる。そのために使える一番有効なカードが、恨みだった。だから、日頃から恨みは蓄積しておかなければならない。できれば国民皆が蓄積している事が望ましい。

お上がその価値観で動けば、民衆が隣人と争う際にも、同じ価値観を使う。逆上して暴力を振るっても、統一的な正義が育ちにくい社会だから、昔の恨みを持ち出して大義名分にする。かくして朝鮮半島の正義は、恨みに基づくものになったと考えられる。正義感は人間の行動には不可欠だから、空気の様に当然と感じる感覚を根底にしなければならない。

日本では公徳心を教えることが、正義の要素だと考えている。公権力が長い間支配してきた賜物である。公権力とは天皇に任命された権力という意味で、根源の公は天皇だった。西欧のキリスト教も同様の働きをしたのだろう。この社会での正義は、現在我々が求める正義と同じである。

公権力がなかった中華では、教育の基本は序列意識の涵養だった。それが否定された現代の中国では、子孫に残すべき文化がない。それが中国の混乱の根本原因だと思われる。結局中華思想に戻りたくてうずうずしている。共産党幹部の腐敗に対する寛容さは、中華の伝統だろう。

韓国は、恨みと云う正義を否定できないどころか、大統領が率先して使っている。教育にも恨みの思想が充満している。反日は、「恨」文化を教育する先にある必然の世界になる。韓国では教育が普及しない方が良いとさえ見える。文化教育をすればするほど、この異常な世界へ押し込む作用が働くからだ。民族文化には、望ましいものと、おぞましいものがある。しかし教育は結局民族文化の継承でしかない。

| コメント (1) | トラックバック (0)

2013年7月 7日 (日)

橋下市長の従軍慰安婦発言を非難する日本の中華思想

 日本人は中華思想の解釈に途惑っている。韓国や中国が、なぜあの様に訳の分らない事を言い張り、言い続けるのか、理解に苦しんでいる。同様の発想は、日本人にもあり、それが発揮される場合もあると知れば、少し理解が進むと思う。理解しても同調する気にはならないだろうが。

 橋下市長の従軍慰安婦発言は、間違った事を言っているわけではないが、時と場所、言い方が問題、政治家の発言すべき事ではない、などの理由で非難されている。もっと直截的なものとして、欧米のマスコミにどの様に判断されるか、心配だという識者もいる。理由は何とでも付けられるが、これは純然たる中華思想の亜流に見える。

欧米先進国の価値観にも色々ある。歴史的にも変化してきている。色々言い分はあるが、究極的な課題は現在の秩序にある。

 現在の世界は、欧米的価値観が普及し、先進国では更に高度化する過程にあると、多くの人は認識している。その価値観には疑念もある。しかし問題を内包しているとしても、相対的には現状最も優れた、社会秩序を維持するシステムを作り出す思想体系であり、先進国が支持する思考方法の根源である。これを進んで学ぼうとする人にとって、この思考方法を非難する論調は、雑音であり、時に不快な邪魔者になる。

 不快な邪魔者が、時に事実や真実である場合、最も憎悪する対象になる。橋下市長の従軍慰安婦発言は、欧米文化に対する挑戦の様に見えることになる。蟻の一穴も望まない人にとっての、非難や攻撃の対象になるのは当然だが、多くの一般人は、もう少し感覚的に捉える。欧米人は過去の人種差別や、植民地での不当な搾取を、現在は反省している。口に出してそれを言えば、補償問題の嵐に遭遇するから、黙っているが、日頃の言動でそれは分る。今更歴史を蒸し返して、それを非難する事は不毛だと感じている。一部の人が、それでは日本人が余りに貶められていると主張しても、大人はそういう行動は取らないと考える。これは欧米的思考や文化を、支持しているからだ。過去の日本文化が、この欧米的な文化より優れているとは考えにくいと思っている。それが事実であるかどうかは、教育の分野の問題になる。少なくとも科学技術の世界では、優位は圧倒的である。

 中国という地域は、3千年の歴史の中で、多民族の暴力的対立を、どの様に治めるかが、最大の関心事だった。多くの思索が、平和のために費やされてきた。上記の感覚が理論化され、精緻化され、生活感覚の世界を支配していたのが、中華思想だと考えれば、彼らの言動も理解しやすい。

 日本は敗戦国という最下位のランク付けの国だと、一旦認定されれば、王朝体制が崩壊するまで、その秩序は変わらない。秩序はすべての待遇に及ぶ。上位にある国は、この秩序を守りたがるが、それを正義だと断定してしまうのが、中華思想なのだ。だから、体制が変わるときには、大混乱の流血が起こるが、皆がそれを避けようとすれば、秩序の安定は維持される。

先進的欧米が支配する世界秩序の中で、現在領土問題は、絶対に手を付けてはならない分野に属する。欧米は民族主義者だから、必ず領土的国境が存在する。これの議論を欧米的に始めたら、世界は動乱の渦の中に放り込まれる。欧米的には領土は重要な認識の一部になる。

中華世界では、中国という、山岳と砂漠と寒冷地で囲まれた、閉ざされた世界の事象を扱うから、中華世界が強力な権力で統合されている状況が、最善であり、中華の力の限界まで、即ち地理的限界まで、中華世界を広げる事が、最善の統治になる。国民もそれを支持する。そこには、地域的な国境はない。中華思想は国境がない代わりに、序列という秩序がある。多民族を統治するから、民族的序列が必要になる。序列が上位であるか、下位であるかは、最重要なポジションになる。一旦これが決まると、欧米的国境の様に、それを議論する事は、中華世界を揺るがす混乱の渦に身を投じることになる。

現在の中国人や韓国人は、この思想から脱却できていない。だから、最下等の敗戦国日本が、戦後秩序を揺るがす様な発言をすることそのものが、悪だということになる。内容の問題ではない。その悪を知らしめるために、意地悪や嫌がらせをするのは、正しい行いになる。これは多くの日本人が現在でも行なっている行為だ。この範疇に入るいじめもあるだろう。

現在、欧米思想はもてはやされているが、中華思想はだれも理解しようは思わない。発展を阻害し、文明の進化を妨げる思想だからだ。しかし世界の人々は皆、いずれかの民族文化の影響下にある。民族文化を捨てて欧米思想に一本化すれば良いと考える人は、共産主義者しかいない。それは既に失敗している。人には情感や情動があり、それを律する事が出来るのは、伝統に根差した民族文化でしかない。欧米の民族文化人になるには、欧米人の家庭で教育されなければならない。言葉を話し、その国小説を理解できる程度では、創造性のある人間にはなれない。

その意味で、あの膨大な中国人が、中華思想を捨てる日を待つしかない。

| コメント (0) | トラックバック (0)

2013年6月 8日 (土)

予知能力

 予知能力とは現下の情勢を分析し、その条件下で将来起こり得る事を可能性として把握する能力の事である。予知能力は誰にでもあるが、能力差は大きい。これは総ての能力に共通する話だ。

 予知能力のある人が、その能力の無い人の言動を見た場合概ね二通りの反応を示す。①能力の高い人の特徴として、この手の能力は誰にもあるものだという直感を持っているから、自分とは違う予知をする人がいるという理由で、自分の想定だけでなく能力も疑う。予知能力の高い人は多くの可能性を想定できるから、それ故却って陥り易い誤謬であるが、そのために自分が混乱してしまう。②能力がそれほど高くない人の特徴として、世間にはこの手の能力に欠けている人がいるから、馬鹿なことを言っている人間を又一人発見してしまったという感慨を持ち、以後その人の評価を下げる。

 予知能力が無い人が、予知能力のある人の言辞を聞くとやはり二つの反応に分かれる。①劣等感を持ってその人に接するが、その感情を持ち続けることに抵抗感があるから、以後その人に近付くことを避けたがる。これと逆の反応をする人も居る。その人を尊敬し、主従関係の様な人間関係になる事を厭わない人も居る。自由な人間関係では希だが、組織内での生き残り競争が激しければ、その様な関係を望む人も多い。②劣等感を抱く理由が分からないから、相手を神経質な人だと判断する。場合によっては偏執者ではないかとさえ思う。自分が他の能力に優れていると自負する人に多く、相手を侮蔑する程度も甚だしいことになる。

 予知能力に優れている人は、当然ながら自分の感性に忠実に生きようとする。それは意思で決めるのではなく、そうせざるを得ない必然からだ。予知能力に劣る人は、世間の評価を気にすると同時に、自分の優れている能力でそれを補おうとする。これも必然だろう。しかし長い人生の中で、やはり自分はこの能力には恵まれていないということは何となく分かる。多くの人はそれを自覚して引きこもり勝ちになったり粗暴になったりするだろうが、同じくらいの数の人はあくまでも自信を持って生きたいと願う。

 あくまで自信を持って生きたいと願う人にも色々なパターンがある。その総てを網羅する事はできないが、二つの典型が知られている。自信を持って生きる手段として、身近な人に常に働きかけ、自分の正当性を認めさせようとする行動を取る人と、例えば自分の発想の論理性とか他人を説得する言語能力などを高め、表現力や発信力でカバーしようとする人がいる。

 身近な人に常に働きかける行為は、成功して受け入れられれば善人と評価され、失敗して開き直れば人格障害者と看做される。今韓国は国民を挙げてこの方向に向かっている様に見えるから、この手の人格障害者は必ずしも先天性の異常に起因する問題ではない事が分かる。

自分の発想の論理性や説得能力を高める行為は、学校の教育の主眼であるから、現代人はこの能力に長けていて、能力の序列も明らかになっている。しかし、例えば東大を卒業してもその言動がおかしいのは、彼らの予知能力の欠如ではないかと思われる人が結構居る。人間社会は複雑だから論理だけではなかなか測れず、予知能力のある人は彼らの論理性に対し、容易に如何わしさを感じる。これは平行線の世界だが、現実にはこの平行線が蔓延している。

予知能力は判定が困難であるほどに不可思議な能力ではない。大別すると、自然界に関する予知能力と、対人関係に関する予知能力に分類される。偏見があるかもしれないが、男性は自然界に関する予知能力に優れ、女性は対人関係に関する予知能力に優れている様に見える。太古の昔の長い期間、男性は狩猟という変化に富んだ自然界を相手にする行為の中で、この能力を遺伝的に身に付けたのではないかと推測される。女性はそんな男性の庇護を受けながら出産育児という行動半径が限定される世界で生存競争してきたから、やはり遺伝的に対人関係能力を身に付けたのだと思われる。遺伝的という表現は、優勝劣敗の自然淘汰を受けている事を意味する。男女間の能力にそれほどの違いはないかもしれないし、実は大きな差があるかもしれないが、実は誰にも分からない。フェミニズムの残渣がこの手の実験の実施を阻んでいるからで、予知能力という大きなジャンルの話も進展を阻んでいる様に見える。どうも違いがありそうだから。

予知能力を判定する試験を行なう事は、誰でも明日からできるほど容易ではないが、議論を重ねればそれほど難しい事だとは思われない。しかし誰もそれを提案しようとはしていない。現在のエリート制度の根幹に関わるから、現代のエリート集団からそれが提言されないという側面もあるのではないかと思われる。現在の大学教授やエコノミストがその資格を有さないという判定が為されるケースが続出する恐れがある。元々補完能力であった論理性や言語能力に優れた人は、予知能力の欠如の自覚の中で努力した人が多そうだし、予知能力が欠如していたが故に、この能力を高める事が出来たのではないかと思われる人も多いのが実態でもあるからだ。

東大も入試制度改革の必要性を痛感しているらしいが、どこまで踏込めるのか怪しそうだ。しかし、政治家に予知能力が欠如していると国民は困難を感じる機会を多く持たねばならないことになる。予知能力の高い者だけの集団は、合意も早く、行動的になれる。中に予知能力の低い者が混ざると、彼らは徒に事態をややこしくする方向に持っていこうとする。彼らの存在感をアピールするためという側面があるが、もっと重要な事は、予知能力の無い者は沢山のケースを掲げて貰って詳しい分析や予測を聞きだし、自分の能力を補完して貰わなければその集団の中での自己の位置を喪失するからだ。予知能力が無くても論理を理解できる人にも、進行する状況が理解できなければ自分の地位が危うくなるという程度の事は分かる。劃して組織内のミーティングが延々と果てしなく実施されるという現在の実態が炙り出される。

其処までしても、予知能力の無い人は失言する。この失言は、嘗ての保守的政治家の失言を指すのではなく、民主党の政治家の無定見な発言の様な類の失言を意味する。つまり、本質的な状況を理解しているかどうかの問題なのだ。この違いが直感的に分かる人は予知能力があると言えよう。

| コメント (3) | トラックバック (0)

2013年5月23日 (木)

中華思想に基づいて日本を非難する韓国

日本を非難する理不尽さに驚きの連続の日本人は、彼らの不確かな根拠に基づく発言を異常だと感じる。しかし中華思想にとって個別の真実の探求は重要な問題ではない。重要なのは日本が敗戦国であって、現在の国際秩序はそれを織り込んで維持されているという認識であり、国際秩序は現状認識を守ることによって維持されるという基本的発想である。日本が周辺国に謝罪し続けることで極東の安定が得られているという、韓国にとって喜ばしい秩序を維持する事は、中華的正義になる。この考え方の人に、真実の歴史を訴えても意味が無い。正しい歴史観と彼らが言うのは、日本は敗戦国である事を自覚せよという事なのだから、真実を訴えて彼らに逆らうのは、逆効果になる。それを受けた韓国が、現状の国際秩序を守る義務を果たせと要求する事で、正義の国になる。

大陸は暴力的行動が支配しやすい場だから、秩序を維持する事が最優先課題であり、秩序が乱れる事は諸民族の利益に反する。中華思想はこれを重視する。李朝が清国に屈辱的な礼を何百年も続けてきたのも、この思想が根底にある。大東亜戦争に敗北した日本も、現下の国際秩序が維持され続ける限り、同様の屈辱外交を継続する義務があると中華思想は強制する。中華的「正しい歴史認識」とはこの様な状況を意味する。

一部の日本人がこれを誤解し、周辺国の恨みを解くためとか、日本人は過去に過ちを犯したからその反省をする義務があるとか、情緒的な発言をしているが、これは情緒的な日本民族が居住する国内向けの事で、国際的な認識は、日本の敗戦を前提とする国際秩序を維持するためには、日本が敗戦国としての行動をとり続けるべきだという秩序観に過ぎない。中華思想を持たない国は、「もう好い加減そのくらいで良いだろう。未来志向でいこう。」と、ある時期から言い出すが、中華思想の国は決してその様な事は言わない。常識が違うからだ。日本のマスコミも中華思想に共鳴しているから、事実誤認と分かっても訂正報道はしない。国際秩序の混乱を恐れ、西欧的正義感を持たない状況は、中華思想に共鳴しているのと変わらない。

民主主義はキリスト教を基本に作られているから、悔い改める者は許されるという思想を持つ。これは民主主義とは直接関係ないが、機会均等、敗者復活、自由競争という、現在民主主義と不可分と考えられる思想と一体となって民主主義であると捉えられているから、その意味で中華思想は非民主主義的である。民主主義者は、民主主義こそ最も有効に社会的・経済的進化を促すものだと確信し、それ故に優れた主張だとして世界に拡散しようとしているから、中華的秩序観は民主主義と対立する。

しかし思想には都合の良い例外がある。国境の維持に関して、民主主義国は現状維持を堅持している。これは嘗て自分達が主導して決めた国境だから、国境線を変更する事は欧米の秩序に挑戦する行為になるからだが、一見極端な中華的原理主義に見える。但し、根本思想が違うから、誰も中華的だとは言わない。

中国は機会があれば国境を膨張させようとしている。これは2千年以上の歴史を持つ例外なのだ。国境が中華の中心から遠ざかるほど、中華秩序は安定するから、根本が安定志向である中華思想にとって、これは根本問題の解決であり、秩序維持は手段と言う次元の低い思想だから、本質的に矛盾しない。周辺国から見れば大国主義のエゴイズム以外の何者でもないが、国家主義というものは、元々民族のエゴの保持が目的なのだから、問題視するにはあたらない。こんな世界の中で、平和憲法を維持すれば日本の安全保障が担保されると考える事に無理がある。

| コメント (0) | トラックバック (0)

2012年9月27日 (木)

60歳から始める農業

 日本の農業従事者の高齢化が問題視されて久しいが、時間の経過と供に農業人口が激減する状況には仲々ならない、と言うより、最近は安定状態とも言える不可思議な状況にある。60歳から農業を始める人が結構いるからだ。兼業農家で会社勤めが主であった人が定年退職して農業に専念しても農業就労者数は変わらない。都会で暮し定年退職後に帰郷して親から農地を相続し農業を始める人が周囲に居るが、この人は農業就業者数を増加させる。この種の人は資産や年金があり、専業農家だが家計は農業収入にさほど依存していない人を多数含む。この種の専業農家が日本の専業農家の主流になっている疑いがある。以下それを検証してみる。

最近の就農者の人口動態(男性)を総務省統計局のHPで調べると、
年度              60歳未満    60歳以上   
昭和55年(1980年)   153万人     114万人    
平成 2年(1990年)    84        113       
平成12年(2000年)    53        118       
平成22年(2010年)    33         96

 60歳未満の就農者は激減しているが、60歳以上の就農者数はそれほど減っていない。これは就農者が次第に高齢化していくから高齢就農者が増えていくのではなく、60歳以上の就農者の補充がなされていることを意味している。

 視点を変えて、北海道を除く地域の経営耕地規模の変化を見ると、
年度              1ha未満    1~2ha    2ha以上   専業農家
昭和55年(1980年)   320万人     98万人    33万人    59万戸
平成 2年(1990年)   250        78        34       56
平成12年(2000年)   130        59       32       39
平成22年(2010年)    89        41       27       42
 (専業農家は北海道を含む数字から、北海道の10ha以上の農家を除いた数字)

 経営耕地規模別の人口が男性就農人口より多いのは所謂3ちゃん農家の主婦が含まれるからで、1ha未満の農業人口の激減はその様な2種兼業農家の減少を示していると思われる。平成22年に専業農家数が増えたのは民主党の所得保証制度の影響と思われる。ベビーブーマーが60歳から農業を始めて増えたと看做すのは当らない。ベビーブーマーは戦時に外地で従軍した人が復員して結婚した結果であるが、当時の政府は長男は外地向けの徴兵はしなかったから、増員ベビーブーマーは相続する農地を持たない親の子である。所得保証制度が悪用されたことを示す数字であろう。
 昨今の農業はさほど手が掛らない。高価な農機具を買えば肉体労働はさほどなく、農協の営農指導でリスクが少ない農産物を栽培できる。但しそれでは2ha以上の農家でも年収は3百万円に満たないケースが多いが、専業農家と言っても厚生年金が支給されれば併せて5百万円以上の年収になり、子育てが終った世帯が田舎で暮すには十分以上の金額である。
 60歳から農業を始めれば、熱心な人もいるだろうが、大勢は余生を気楽に過したいが暇を持て余す生活はしたくないという人達だから、規模の拡大を含む積極的な営農姿勢は望みにくい。彼らの多くは1ha以上の専業農家に分類されるだろう。
 荒い推測であるが、昭和55年にはまだこの様な状態が顕在化せず、単純に新規就労人口の減少に伴う老齢化が進行する時代だったとして、その人口比を当てはめてみると、現在の60歳以上の営農者96万人の半数以上が60歳から農業を始めた人になる。驚くべき事であるが、これは専業農家数を上回る。
 今の日本の農業は、定年退職者の再就職先として成り立っていることになる。ちなみに第1種兼業農家(農業所得が主)は22万戸しかない。ここからは甚だ寒い景色が描かれる。つまり、北海道以外の日本の農業生産の大半は、60歳の定年退職後農業を始めた人40万人余と第1種兼業農家20万人余によって支えられていることになる。どちらの営農意欲もさほど高いとは思えない。TPPなど進めたらひとたまりもないだろう。早急に農地を集約して企業化を推進するしかない様に見える。上記60万人余に寄生している農協は大反対するだろうが、若し農産物が戦略商品だと考えるのなら、その様な農協は国賊的存在と考えなければならない時期に来ていると言えそうだ。
 

| コメント (4) | トラックバック (0)

2012年9月 6日 (木)

脱原発、もうひとつの論点

 日本人は今深刻な原発アレルギーになっているが、民主党政権、マスコミ、経済界が騒いでいる論点とは別の視点でも脱原発を検討する必用がある。政治家もマスコミも、増して経済界の人も決して公の言葉としては発しない最も重要な視点は、問わず語らずの中にある。それは安全保障上の視点である。しかしこれを無視して将来の脱原発を云々することは軽薄との誹りを免れないだろう。

 今、安全保障上の問題として最大に露出している言葉は、「日本が脱原発を決めれば米国原子力産業は韓国と組んで原発開発を進め、米国にとって日本の同盟国として地位は陥没するだろう。」とするものであるが、これはまだ厚いオブラートに包まれているので真の苦味が伝わらない。日本の産業力を以ってすれば米国が安易に日本を軽視する事はないだろうと言う様な的外れの期待を国民に抱かせてしまう。

 脱原発の議論は、今日の我々日本人が子孫に何を遺すかの二つの選択肢を議論しているのだと考えるべきである。一つは安全な自然環境を残すべきだとする考え方であり、別の考えは安全な国土を残すべきだとする考え方である。安全な自然環境についてはここで解説するまでもなく、放射能汚染の恐怖から隔絶された日本という意味であり、現下の国民の最大の関心事となっている。別の考えは、公の場では発言できないから、匿名の提言としてここに披瀝したい。多分多くの国民は既に気付いているとは思うが。

 安全な国土とは国際環境下の安全保障上の安定性という意味である。今中国は核兵器を持ち、北朝鮮は持とうとしている。20年後、50年後、100年後、更に多くの国が核兵器を保持している可能性は極めて高い。中国と韓国は日本に対して友好的ではない事も周知の事実である。その心情的理由は日本人には理解出来ないが、彼らには彼らの理屈があり、「話せば分かる」相手ではないし「人として生きる道がある」という日本的宗教観は持っていない。時々に応じて彼らには彼らの事情があるが、その事情は日本人の努力では決して解消されない。恐らく日本人が地球上から消えてなくならなければ消滅しないだろう。彼らが日本人を抹殺しようと考えているわけでもなく、これは大陸の共存論理である。

 原発は核の平和利用であり、日本は核兵器を持つ意図は持っていない。但し潜在的には保有能力は持っている。それは原発を持っているからである。それであるから日本はIAEAの査察を無条件に受け入れ、核兵器保有の意図は無いことを世界に証明している。原発を持つ国としてあるべき姿勢である。しかし、人のすることであるから、ある時事情が変わるかもしれない。勿論そうならないことを望むのは当然である。しかし、万が一事情が変われば日本は核武装できるという事実は厳然として存在し、それが核保有国への力の誇示になる。

 日本人の中の無条件平和主義者は、こちらが武装すれば相手も武装するのであり、こちらが武装しなければ相手は平和的に対応すると主張する。しかし相手は日本だけを意識して武装するのではない。中国が年々防衛予算を急上昇させている理由は誰も説明できない。中国人自身も説明できないかもしれない。ともかく彼らは19世紀以降他国の武力に痛めつけられてきたから、民族意識が芽生えれば、本能的に武装するのかもしれないし、実は明確な国家目標を密かに持っているのかもしれない。民主主義国ではない彼の国の真の意図や意識は公開されないから誰にも分からないし、ある時秘密裏に考えを変えるかもしれない。民主主義国家でさえ、首相や大統領は自身の意見を公表して選挙に臨むから大丈夫という見識も成立しない。選挙では人物を評価されるだけで、政策は臨機応変に実施する事が許され望まれている。米国でさえ、ルーズベルトは国民を対日開戦にリードしたし、トルーマンは公約とは関係なく広島と長崎に原爆投下する許可を与えた。

 時代が大きく変化すれば、それらを考慮しなくても良い時代が来るかもしれない。しかし現下の極東情勢で、日本が核武装の可能性さえ否定し去るのは、国土安全保障政策の放棄だと考えざるを得ない。勿論日本は核武装などする意図は持っていない。しかし安全保障は自衛力のパワーバランスの上に成り立つという現状と、近い将来それが解消される目処は立っていないという事実は認識しなければならない。日米安全保障条約は重要である。日本は米国の核の傘の下に安住したいと考えるのも合理性がある。しかし落日の米国が50年後も日本を庇護し続けている事は確実だとは言い切れない。その時の対応可能性を放棄するか否かが、今の脱原発依存の議論には反映されていない。我々の世代だけが米国の傘の下で安全を享受できれば良く、子孫の事は子孫が考えるべきだというのは無責任である。一旦技術開発から離れれば、未来永劫競争力ある技術力の復活は望めないと考える必要がある。

 そうならないためには、原発は稼動させ続け、新鋭機も導入し続けなければならない。少し言い過ぎれば、例え第二の福島が出来てしまおうと、安全保障は更に重要な要件であると言えるだろう。勿論従事するエンジニは決して再発しない様に万全の備えを企画しなければならない。そのためには日本人はオブラートに包まれた言辞の中の真実を見詰めなければならない。

 国民の動揺に振り回されている今の民主党政権は原子力行政を担当する資格に欠けている。しかし、維新の会も言う事がおかしい。保守的改革志向は支持する人が多く、改憲推進もそれへの整合性があるが、それでも脱原発と主張するのは自己矛盾になる。地方政治にしか関心が無いからだと思うが、認識の甘さは否めない。

 脱原発の市民運動は、もう死語になっている「アナーキズム」の様に見える。権力の存在は悪だとする思想であるが、権力が無ければ無秩序しかない。犯罪を取り締まる法律もなくなる。権力は必要だが常に監視と改革が必要だとせねばならない。その監視活動にのめり込むと何時の間にか「アナーキスト」になってしまっている自分に気が付かない人が多い。菅元首相が福島原発に乗り込んだ事は不適切だったと結論付けされつつあるが、なぜ彼がその様な不適切な行為を行い、反省する気配が無いかについてコメントする人がいない。菅氏は「アナーキスト」だから、権力とは組織的であらねばならないという認識が欠けているからである。権力を批判する事は、本能さえあれば誰にでも出来る。しかし権力を構築し維持する事は並大抵の努力では出来ないし、時に非情な判断もしなければならない。原子力の安全利用も然りであり、全ての機構、技術、体制、そして日本民族文化にも言える。

| コメント (0) | トラックバック (1)

2012年7月17日 (火)

震災ガレキの処理

各地の地方自治体では震災ガレキの受け入れ処理に関し問題が生じている。受け入れに反対する一部の過激な人達を説得する事に疲れている地方自治体幹部の方も多数いるだろう。そのご苦労も大変だろうと推察する。住民の多数派が善意の人であっても、それが素直に表現できないもどかしさを感じる人も多いだろう。

ところで、震災ガレキの処理は本当に各地の自治体に依頼しなければならないのだろうか。津波の被災地、例えば仙台市若林区荒浜は今広大な無人の原野になっている。地盤沈下により田畑だったところが沼地になっている場所も多いが、海面と同じ高さにまで沈降してしまったから沼地になっているのではなく、海岸の堤防があるから雨水が海に流出できずに沼地となっている。しかし微高地もあり、その一部がガレキ置き場として使われている。その微高地の一部を使えば人口10万人ほどの市が使っている焼却場が数十施設容易に建設できる様に見える。なぜ建設しないのだろうか。一時的に使うことにして数年後に取り壊せばよい筈である。ガレキ置き場に隣接した敷地に建設すれば効率も良い。地域の雇用も幾分か生まれるだろう。

震災直後、余震が続いていた時期にその様な提案をするのは問題があったであろう。しかし今は余震も収まっている。津波が来るのが心配なのであれば、避難経路を確保しておけばよい。2kmほど内陸に高速道路があるから、その内側まで逃げられれば大丈夫だと見える。高速道路の脇に焼却場を建設することもできる。何故建設しないのか、理解出来ない。

元々は農地だから、土地の権利が入り組んでいるからだとか地主が多すぎて手続きが難しいという風には見えないし、塩害があるとも思われない。地主が皆反対しているから建設できないのだとすれば、それは何かがおかしいと言わざるを得ない。どのみち今後数年は農地にはできそうもない様子が見える土地である。一旦焼却場が出来ると永久に農地を手放さなければならないから、その様な用途に土地は貸せないと、その辺の農地の所有者が皆言っているのであれば、それもおかしい。何か、被災地救援の美談作りをしているのではないかと疑いたくなる。遠方の自治体がわざわざ大騒ぎの上で運搬させて焼却する労を取る必要も無い様な気がするのだが。

今の荒浜の海浜に立てば、同じ事を考える人は少なくないのではないだろうか。

| コメント (0) | トラックバック (0)

その他のカテゴリー

世相 | 宗教 | 歴史 | 論評