宗教

2012年10月12日 (金)

日本人が無神論者である理由

 日本人は無神論者であるが倫理観は高い。その倫理観は衰退しつつあるのではなく、むしろ高まる方向にあるらしい。この理由を日本人自身が考えるにしても、キリスト教徒的発想から答えを出そうとしても無理だろう。

 キリスト教徒は神から、いかに生きるべきかというメッセージを受け取っている。イスラム教徒もユダヤ教徒も、メッセージの内容は異なっていても状況は同じ様に見える。日本人は、神はいないと考えるが、それ以前に、もし神が居たとしても、神はこの様に述べたという伝承は、更に受け入れない。そのあまりにも合理的な判定が確立している故に、神はいないと積極的に否定したがる民族になってしまったのではないだろうか。

古事記や日本書紀が書かれた奈良時代に、日本人は既に神に関する古伝承に疑念を持っていたと考えられる。古事記の「序」に、神代の事は伝承でしか知る事が出来ないと書かれ、日本書紀には古伝承に関して多数の異説が満載され、古伝承の不確かさを明確に示し、絶対的な伝承などありえないとする考えが明確に顕れている。古事記や日本書紀の記述は天皇家の権威を示すために捏造された記事に満ちているとしても、背景にある思想は当時のものであろうし、以後の人がそれを読んで学び、後世に伝えた事は間違いないだろう。

16世紀に来日したルイス・フロイスはヨーロッパ文化と日本文化を比較した記録で、「我々の間では教えに背いた者は背教者、変節者とされる。日本では望みのままに幾度でも変節し、少しも不名誉としない。」「日本人は神に現世の幸福を求め、仏にはただ救霊のことだけを希う。」と宗教や道徳に関して現代と変わらぬ日本人像を描き、「坊主らは、逸楽と休養の中に暮らし、労苦から逃れる為に教団に入る。」と手厳しいが、今日の日本の僧侶と民衆の関係を描写しているかの様である。僧侶は葬式さえ出してくれれば良いと考えるのは、記紀の認識を基にすれば不思議ではなく、それは1500年以上の伝統を持つ発想だということになる。江戸時代に、宗門改めと称してどこかの寺の檀家にさせられたので仏教が堕落し、日本人の宗教心が薄れたとする歴史家や宗教者がいるが、そうではなく、元々日本人は無神論的宗教観を持っていたと考えるべきではなかろうか。但し、古代には祟りを恐れたり、加持祈祷をしたり、風水を信じていたと言われているから、昔から全くの無神論者であったとは考えにくい。

日本人の倫理観は更に時代を遡る弥生時代から周辺民族より高かったらしい。邪馬台国の卑弥呼を描いた魏志東夷伝を、倭人条だけでなくその他の民族に関する記述も併せて読めば、朝鮮半島や中国東北部に住んでいた種々の民族と比較して倭人は礼儀正しく、犯罪が少なく、男女の差別がなく、女性は慎み深いと書かれている。中華的道徳律とは異なる社会でありながら、高度に文明化されていると示唆している感がある。

日本の古代の伝統に、盟神探湯(くがたち)という裁判の手法があったことが知られている。熱湯に手を入れさせ、嘘を言う者は火傷を負い、正しい者は免れるとする判定法であるが、これはその様に脅して嘘を自白させる手段であり、機械的に実施するような野蛮な行為ではなかった。日本書紀にその記述が何度も出てくるが、継体天皇の時代に朝鮮半島の南端にある任那で、現地人と倭人の間の諍いを判定する手段として用いたところ、倭人と共通する宗教観を持たない任那人に多数の火傷による死者を出したという記述がある。当時の日本人は既に神を恐れる心を強く持っていた証拠だと思われる。神に嘘を暴かれれば恐ろしい結果が待っていると信じられていた証拠であるが、倭人が支配していた任那でさえ、現地人は同じ種類の恐れを持っていなかった事を示している。盟神探湯(くがたち)という裁判が古代に有効に機能したのは、当時の日本人である倭人が、神に対して、また社会秩序に対して誠実であらねば神に罰せられると考えていた証拠であるが、それは日本人独特の宗教観であったことが分かる。多分現在も変わってはいないであろうということが、昨今の日韓関係に関する報道を聞けば推測される。

現代の日本人論に戻って、誠実さを倫理観の頂点に置く日本人の心の中に、もしも神が存在し、その神が人間的な道徳感を強く持っているとしたら、どうなるか、逆説的に想像してみることは大変興味深い。日本人は聖書の様な古伝承を疑い信じない民族である。その神が推奨する具体的行為は何も啓示できないとすれば、そこには大変怖い世界がある。神が監視しながら、しかし神はどうすれば良いかを教えず、違反者には突然災難を降りかけるという事態が想定される。自然災害や飢饉・疫病が頻発する昔の日本人の心境を加味すれば、一層分かりやすい。日本人は皆神経衰弱になってしまうだろう。

例えて言えば、もしバスケットボールのプレーヤーに何もルールを教えずにプレーさせ、しかし審判が厳格にルールをチェックしたらどうなるか想像してみれば分かる。反則の連続でプレーヤーは身動きできなくなるだろう。もし罰則が人命に関わる災難を振り掛けるということであったら、恐ろしくて動く事さえできない。そうなれば、神は居てもらっては困る。居るかもしれないという疑いでも、神経質な人はパニックに陥ってしまう。平安時代の貴族は毎日宗教行事をしていたと言われるが、それがこの状態ではなかったかと疑われる。それであれば平安時代には死刑の宣告が出来なかったという事情も理解できる。

中世の武士はそれを克服し、祭式ばかりしていた貴族に替わって日本の支配者になったのだろう。しかし、神が居るかもしれないという恐怖心から完全に免れることが出来たとも思えない。その緊張感が独特の習慣を日本人に強いたのではなかろうか。ルイス・フロイスは「われわれの間では普通鞭で打って息子を懲罰する。日本ではそういうことは滅多におこなわれない。ただ言葉によって譴責するだけである。」と書くも、それで日本人の子供が甘やかされて駄目になっているとはせず、「ヨーロッパの子供は青年になってもなお口上ひとつ伝えることができない。日本の子供は十歳でも、それを伝える判断と思慮において、五十歳にも見られる。」と賞賛している。当時の日本の教育の目標が、使者となれる人格の育成であり、現代の様に受験合格が目標ではなかった事による違いは認識して置くべき事ではあるが。

皆で話し合って全員一致で物事を決めるというのもそこから来ている疑いがある。皆で決めた事が不適切であったと判明しても、私一人が悪いわけではなく、罪は全員に分散されて自分の罪は軽くなると考える発想である。一人でも異論があれば、残りの賛成者は決議を強行したことになり、判定が不適切であればその罪は重くなる。従って、形の上でも全員一致が望まれる。日頃からそうならない予防をするためには、世間の意見を知って置かねばならないし、世間の意見と離れた発想をする習慣を持つことは危険になる。世間から非難を受けるのも怖いから、世間体を気にしなければならない。

葬式仏教もその恐怖心の顕れの一つではなかろうか。仏教を信心していなくとも葬式は仏式に従って厳格且つ盛大に挙行したいとする心理が読み解ける。現代日本人もその心境を堅持している感がある。

その日本人に対して、畳み掛けるように、「お天道様はすべてお見通し」という唱えやすく記憶しやすい言葉が圧し掛かれば、日本人の心は更にストレスを増すだろう。

神が居るかもしれないというだけで、日本人はこの様な恐怖に陥るとすれば、居ないで欲しいという希求を心の底で持ち続けていたのではなかろうか。世間への誠意という概念があれば、神が居なくとも世の中の秩序が保たれる。神ではない妖怪程度で人々は十分その祟りを恐れるから、民間伝承では崇高な神について述べる必要もなく、むしろ祟る神については述べたくない気分だったのではなかろうか。科学が神の存在を否定してくれるのなら、喜び勇んで「神はいない」と言いたい心境にあることになる。

聖典に書かれている内容が神の言葉で、それが全てだとするイスラム教は対局にある。これは日本人には想像できない安心を人々に与えるものだと思う。災難に遭えば聖典を読み直して読み落としを見つければ良いのだし、素人にそれが出来なければ宗教学者の解説を聞けば良い。心の拠り所が明確だから多くの信者が獲得できたのではないかと思う。

日本人は、神の言葉が伝承という形で存在するということを信用しない故に、社会的道徳律は自分達が相談して決めなければならないと認識してしまった。万人向きの道徳律などなかなか決められないから、○○道と呼ばれる多数の専門家的在り様を、それに携わる人が話し合って決めることにした。それにしても知識が不足しているから、他宗教であろうが、異端であろうが、人の生き方に関して書かれたものは読み漁りたくなる民族になったのではなかろうか。西欧人の生活文化が一番進んでいると見れば、宗教も哲学も文学も、構わずすべて学んでその成果をまた皆で議論し合いたくなる。

現代人にもこの心は多分に継承されている。原発は人類に不幸をもたらすから反対だと言われれば、推進派も後ろめたい気持なり、推進の言葉を発しにくくなる。慎み深いのではなく、万が一神が居て、推進する行為を咎められたら恐ろしいという、祖先が持っていたこの恐れをいまだに伝承しているのではなかろうか。習慣として継承しているだけにも拘らず十分心に響くほどに強く恐れているのは、世間と言う相互呪縛の構造を形として持っていることに起因すると考えられる。日本人が勤勉で、優しく、他人に気遣いし、責任感が強いのもすべてはこの恐怖心から来ると考えると説明が付きやすい。

科学に対する日本人の敬慕は異常に高い。西欧キリスト教徒は神の摂理を解明するという宗教心からであると言われるが、それは人工の異常性があるという意味である。日本人にもそれに近い異常性があるが、これは日本人の恐怖感に由来すると考えると理解しやすい。神は存在しないという事を一層明らかにして欲しいと考える心境にも由来するが、神に替わるものとして今の世間の認識を重視する日本人にとって、世間の人々の知識が向上する事は大変望ましいことである。単に向上するというだけでなく、日本人の世間が世界で最高の知恵を備えていなければ、日本人は日本の世間に価値観を依存する事が覚束なくなる。多分その恐怖感も現代日本人は持っているのではなかろうか。それ故に民主党の蓮舫議員が科学技術予算の仕分けで「2位では駄目なんですか?」と叫んだ時、多くの日本人は言い知れぬ違和感を持ったと思う。その違和感が著名科学者を動かし、発言の撤回を迫ったのだろう。蓮舫議員は長く日本社会に浸り、日本語も自在に操りながら、やはり日本人にはなり切れていない事が示されたのだと思う。国民の栄誉と言う様な単なるナショナリズムからではなく、著名な科学者の存在を是非とも必要とする日本社会の特異性が国民全員の賞賛を賑々しく発露しているのではないかと見える。誇りよりも安心感を国民にもたらすからだ。この様に、日本人は必要以上に科学技術の振興に熱意を持つ民族だから、今後もノーベル賞受賞者を輩出し続けるだろう。

各地の神社に参詣する人が多いのは、この恐怖を鎮めてくれるのが神社だという記憶伝承があるからだと思われる。その神社は、決して畳み掛ける様に人に倫理観を押し付けるのではなく、特段の宗教心を持っていなくとも、ストレスに満ちた心を癒してくれる場所であって欲しいと思う。合理的に考えても、今以上に日本人を縮み上がらせて公徳心を高める必要はないだろう。癒しに現生御利益的願望が重ねられた結果、折に触れて参詣者が溢れる神社の景色が出来るのではないだろうか。日本の神社が日本の倫理観を具現する宗教とは縁もゆかりも無いことも、御利益宗教であるが、その祈願が不純なものではないと感じる日本人の心も、これで説明できる。現在の、ささくれ立つ方向に向かっているとも思える社会状況を考えれば、むしろ今の日本人には心を癒してくれる優しい神が必要で、人々がその御利益で心の平静を持てるのなら、その様な神は存在すると信じた方が望ましいのではないかと思える。各地で宗教行事が復活し、創出されているのはその様な人々の心の現われではないだろうか。

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2012年8月27日 (月)

日本人の宗教観

 宗教とは秩序を持って社会生活を円滑に営む為に、人々が道徳とかあるべき生き方とかを模索するための根拠となる考え方、又は感覚の事である。宗教観とは宗教それぞれをどう考え、あるいは感じているのかということである。宗教観は歴史的背景を負ってはいるが、人は世代毎に考えを変え、個人でも生涯同じ考えであり続けるわけでもないから、歴史から説き起こすのは特別な場合に限るべきである。今日の日本人の宗教観は、今日の世相から判断する必用がある。外見的には多彩であるが、根底に同じ宗教観がある様に見えれば、それが日本人の宗教観と言えるのではないだろうか。極端な4種の人達の外見を具体的に考察し、根底的な共通点を模索してみたい。極端な例は状況の明確化に資するところが大きいからである。

 先ずは、科学者的集団について考察する。天文学の泰斗小柴教授が「科学はいずれ全てを解明する」と言って世間を驚かせたが、これは科学者とその周辺に生活する人達の思考傾向の様に見える。これは「あらゆる神は存在しない。」と言っているに等しい。多分彼らはあらゆる宗教行事に興味がないだろう。ここで言う宗教行事とは、墓参りとか初詣とか地鎮祭とかのことである。しかしこれは観点のすり替えの様に見える。何故なら天文学が解明しようとして未だ道半ばなのは宇宙空間のマクロな法則で、それらがすべて解決したところで宗教が取り組んでいる、「私はなぜ今此処にいるのか、そして私は何を寄る辺に生きていけば良いのか、」という問いには答えられないだけでなく、太陽は何故銀河の今の位置にあるのか、何故地球は今の軌道で太陽の周囲を回っているのか、何故人類は存在しているのか、何故私は日本人なのか、何故私はあの父母の子なのか、などの問いには答えられない。確率論で答えられると考える人がいるかもしれないが、それは間違いである。確率論は同じ環境の者が多数居れば、どういう傾向のものがどれだけの割合存在するのかということを記述するだけで、個の存在を説明するものではない。例を挙げれば、放射性元素の半減期というものがあるが、これは膨大な数の原子が存在する場合の確率論で、1個の原子を取り出して、これはいつ崩壊するのかと問えば、明日かもしれないし1万年後かもしれないが、今の科学では答えられない。つまり個別の太陽、地球、人類、個人、を取り出した場合、何も答えられないし、答えを得ようとする努力もしていない。西欧で科学が熱心に研究されるのは、神の法則を極めたいという宗教的情熱である。キリスト教徒ではない日本の科学者が、科学を研究する動機は何なのかを先ず問わねばならないが、それに答えられる科学者はほとんどいないだろう。しかし、日本的宗教観を認知していれば、科学者は自信を持って科学的心理の探求に邁進し、国家は惜しげもなく予算を付けていることも不思議ではない。

 次にその対局であるキリスト教徒について考えて見たい。キリスト教徒になった動機は色々ある様に見える。西欧科学や哲学の先進性、西欧者会の安定性に感激し、キリスト教徒になった人、尊敬または敬愛する人がキリスト教徒だったから感化された人、勧誘されて人間関係の綾の中でなった人、その他色々あるようだ。しかし多数派を占めるには至っていないのは、絶対神の存在と契約の考え方は日本人の宗教観とは相容れないからだ。それにも拘らずキリスト教徒になっているのは、日本の伝統に関する劣等感とか反感や蔑視がある様に見える。だから、米国の大統領は聖書に手を載せて宣誓することを知っていながら、自治体が地鎮祭に公費を出す事に反対する。つまりアンチ日本的伝統である。この心情は多くの日本人が共有しているが、だからと言ってキリスト教徒になる気もしないところが多数派の本音である。清水の舞台を飛び降りた人が、日本人キリスト教徒かもしれない。彼らは絶対神の存在を信じていると言うが、少なくとも私の存じ上げるキリスト教徒は、一般の日本人が混じる座談でそれを控え目に言い切る。私には確信して居るようには見えない。西欧人の様に契約に峻厳だという印象も無い。彼らが持つ異質な価値観に戸惑う事も、無いとは言わないが、多くは無い。宗教的に禁じられていない日本的習慣は守っているからだろう。しかし日本的習慣こそが日本的宗教観と密接に連携している事をどの程度理解しているのか分からない。

 左翼と呼ばれる人達は唯物論的史観に染まっている人である。個人の歴史観はその人の人格そのものである。日本には擬似左翼が多数居る。唯物論的歴史観という体系的な思考体形に染まっているのではなく、アンチ権威の人達である。主婦を中心とする女性に多い様に見える。厳密な意味では2者は区別すべきであろうと思うが、共闘共助関係にあるから区分が難しい。特に伝統的考え方を否定する点では区別が見えない。唯物論は多分に心情的反発、特に社会の進化に関する適応不全から発している思想だから、真の根は一緒かもしれない。彼らは本能的な勧善懲悪を信じる権威秩序の破壊者である。もう死語になった言葉に「アナーキズム」というのがあるが、その親類である。彼らは建設的文明人ではないから、彼らの宗教観について論じる事には意味が無い。何故なら彼らは健全な社会を建設する具体的で身近な青写真を1枚も持っていないからである。宗教の本来の役割は、複雑化しながら発展していく折々の健全な社会を建設するための処方箋なのだから。一方で彼らは自分に合致した生活習慣的な価値観にこだわる事もある。

 日本の右翼についてはどうだろうか。昭和初期的な天皇制を復活させようとしている人は極右であるから一応議論から除く。右翼とは日本の伝統を守る価値のある物と主張している人達である。この人達は日本の先人の活動が今日的常識でも評価できると考えている。特に明治以降権力闘争を控え民族の発展に寄与した人が多数輩出した事を評価している。これは人種的、民族的優越性ではなく、日本が2千年以上民族自決の世界であったことと大きく関連している。日本が島国であったことに起因しているが、それでも事実は事実である。それはあくまでも環境要因だと認識していれば、一部の他民族もその言を受け入れるかもしれないが、民族的優越性があるかの様に匂わせるのは厳しく糾弾されなければならない。それを言い出せば擬似左翼より更に卑しい人格になるという自覚に乏しい感がある。この人達の論には日本人の宗教観が判然と見えない。それを説明するのに仏教などを出してくるのは最悪である。仏教徒日本人など、キリスト教徒よりも少ないと思われる。

明治の偉人、新渡戸稲造は日本人の道徳観は「武士道」にあると世界に紹介した。新渡戸稲造は旧士族であったから彼の倫理観の根拠は武士道であっただろう。明治維新は士族の革命だったし、明治の指導者は旧士族が多かったから、当時の日本を代表する倫理観が武士道であったのは事実だ。しかし新渡戸稲造は、武士道は廃れつつあると嘆いている。武士の世は終ったのだから当然であって嘆く事ではないのであるが、その文化で育った新渡戸稲造には悲しい事だったかもしれない。新渡戸稲造が偉大なのは、武士「道」だと喝破した事ではないだろうか。「道」は人が歩くものだ。分岐はあっても荒野とは一線を画す文化の経路である。それは神とは関係ない。「道」が付く言葉には、医師道、職人道、芸人道、町人道等がある。皆その専門分野で精神面を大いに含めながら大成する状況を指す。外道と言えば「人でなし」と同義である。そして「人でなし」が日本語の最大の侮蔑用語である事も重要である。人の道を外した人は最低の人格とみなされるのだから。日本人は人の道には色々な種類があることを知っている。しかもその道は、専門家が自分で考えて決めなさいとしている。非常に合理的であるが、汎用性はなく独善的になり易い欠点もある。

以上の論点からは日本人と神は無縁であるかの印象を受けるが、全く違う。日本人の神は元々人である。神社に祭られているのは過去の偉人である。日本全国どこにもあるのは、稲荷、八幡、天神、熊野、白山、住吉、と数えれば切が無いが、皆祭られている神は○○命や○○神で神話時代の偉人・英雄である。唯一神ではなく非常に身近な神である。

日本人は人が好い。その日本人が想像する神も好人物(好神物?)である。人々が参詣して祈願すれば気安く引き受けてくれると信じ、神様と個人の関係は擬似的な人間関係になっている。記紀に記述されている神は余りにも人間的であるから、それは確たる根拠のあることである。最高神である天照大神ですら、弟スサノオノの悪ふざけに翻弄され、怒って天の岩屋戸に隠れてしまう。彼女を引き出す為に神々はヌードダンス付の楽しい宴会を岩屋戸の前で開催する。神の感性は非常に人に近い。これが重要である。頼めば聞いてくれる人に契約などと言い出せば、却って人間関係を損ねる。従って聖書などは要らない。必用なのは真心だけである。

日本人は災難を何かの祟りだと感じることがある。この場合神社では厄払いをしてくれる。厄災が予感される建設現場では事前に地鎮祭もする。特段の信仰心がなくとも、依頼すれば万民にしてくれる。これは神社の金儲けのためだと非難する事は合理的ではない。そもそも神社に参詣する行為を、疎遠な親戚にたまには顔見世して置かねばならないと考える感覚で捉えている。伝統的宗教的にそれは正しくないと言う宗教家がいるかもしれないが、そもそも日本人は特定の宗教に染まった事もなく、宗教界の神学論争は自分とは無縁の事だと考えていた節があるからその様な権威筋の批判は筋違いなのだ。更に言えば、日本人は特定の宗教の信徒だと言う人を、偏った人格の持ち主ではないかと疑い、いかがわしく感じる。

とにかく良い事をする事が神様の眼鏡にかなうことなのである。「お天道様はお見通し」だから隠れた悪事もしにくい。この言葉は古代人の非凡な発明だと思う。神様の感覚は全くの人間類なのであるから、世間の人が判断する善悪は神様の判断する善悪に等しい。もしかすれば、万事を話し合って決めるという日本人独特の感覚は、それが神様の感覚であるという信仰を根拠にしていると言えるかもしれない。ともかく、何処の宗教から引いてこようが良い事は良い事で、悪い事は悪い事なのだ。世間という皆様がそれを判断する為に、皆様の知識を向上させる事は何より大切な事になる。これは民主主義の根底として必用な事だから、日本人は民主主義に向いている民族であることになる。この文脈で上記天文学とか科学への日本人の熱意を考えれば、大きな予算を付ける事は必然になる。経済的利益のためや国威発揚のために科学を振興するのではないという事情は西欧的な発想と結果だけを同じくすることになる。

日常的な活動は神社に祈願し、死後のことは仏教に依頼するというのも面白い。日本古来の神様は活動的で肯定的であったのに対し、仏教は地獄の責め苦を強調するとか、他の生物に生まれ変わるとか、死後の世界と現生の道徳とを関連的に強調したからだろう。甚だ機智に富んだ区分である。

日本は物質的に豊かになり、心の豊かさを求めるようになったと言われている。その時宗教は重要な位置を占めるはずであるが、日本の場合は、墓参りや初詣、厄払いに始まり、七五三や十三参りが盛んになろうとしている。神様が身近に居るということは精神的安定には大いに役立つ。増してその神様が優しく加護してくれるとすれば猶更である。その神様を祭る神棚が家庭にあるのも好ましい状況である。八百万の神の中に、クリスマスツリーがあっても特段の違和感はないだろう。

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2012年8月12日 (日)

日本人の宗教

日本人は無神論者だと言う人が多い。日本人自身もそう考える人が多い。欧米人は日本人の道徳観を評価するが、宗教を抜きにした道徳観の存在が信じられない彼らには、日本人は奇異に見えるらしい。神のいない宗教が考えられない欧米人的論理では日本人は理解出来ないだろう。日本人自身も欧米人から理解されていない事に苛立つが、自分で自分の宗教観を説明できない。しかし確固たる道徳観があるのは確実である。

日本人は彼岸には墓参りをし、年末には神社に参拝し除夜の鐘の音をありがたく聞く。有名神社の賽銭箱には小銭が詰っているし、御神籤、お札、破魔矢も良く売れる。決してこの世に神など居ないとは思っていない。そこでしたり顔の社会科学者と自称する人は、日本人の宗教はアニミズムで原始的多神教の世界から進化していない状況などと、おかしな解釈をし、日本人を納得させようとするが、これほど高度に文明化された民族が原始的宗教の状態である筈もない。

それでは日本人は如何なる宗教観を持っているのであろうか。日本人は、神は存在したとしても人間と直接関わるものではないと考えている。神が居るのかいないのか、人間が知覚する事など出来ないということを十分に認識している。それは正しい認識である。むしろキリスト教の、神と人間との関わりの方が、まやかしめいている。キリスト教では、人間は、というかキリスト教徒は、神の存在を信じ、神との契約を守る、つまり聖書に書かれた事を無前提に守る。神が存在したとしても、この道程には少なくとも二つの怪しげな状況が存在する。キリスト教徒になる、つまり神の存在を信じるという行為は、キリスト教徒本人側がそうであったとして、神はその人間をキリスト教徒と認めたのかどうか、その証拠はない。神は全能だからその時しっかり認識すると、聖書に書いてあると言うかもしれないが、聖書は神の言葉だという証拠はどこにあるのだろうか。日本人から見れば、単なる言い伝えではないのかと思える。

神が居るかもしれないとして、神が人間に、特にキリスト教徒にだけ接する態度を変えるという発想は、合理性を欠いている。日本人の考え方の方が合理的に見える。つまり、「神は居るかもしれない。その神は高い能力で我々個人を監視しているかもしれない。若し神が人の様な心を持っていれば、邪悪を憎み、善行を賞し、良い人生には褒美を与え、悪い人生には罰を与えるかもしれない。しかしいずれにしても人間には神の存在など知覚できない。」これを100人の日本人に言えば、90人以上は、「そう言っても間違いではない。」と答えるだろう。日本人は間違いではない事しか信じないだけなのだ。

日本人は神はいるかもしれないと秘かに恐れている。だから、神はいるのだと高らかに謳う宗教に出会うと、その教義に関心を示し、人間として生きるべき道を記した箇所には殊更感銘する。元々高レベルの宗教は、道徳とか、更に高度な人の生きる道とかについて詳しく解説しているから、教典には所謂「良い事」が沢山書かれている。それを理解するに十分な知性を備えていれば、その宗教が望ましく見えるが、やはり日本人は前掲の信念を捨てないから、真の信徒にはなれない。新しい宗教が紹介されるとそちらにも興味を持ってしまう。日本人にも神官、僧侶、神父などになって、その道を極めようとしたり、聖職者であることを職業としたりする人がいる。「その道で飯を食う」人になれば、色々言うだろうが、絶対的に信頼される人とは看做されない。日本でも聖職者は沢山居るが、あまり尊重されてはいないし、難しい話をされても興味を感じない。日本の思想史などと称して宗派対立を歴史的に解説する本が多数あるが、宗教者と一般人は違うと考えた方が良いと思う。西欧の様に強固な宗教が民衆の中に根付いていたわけではない。

日本人がこのように考え始めたのは何時からだろうか。「古事記」を読むと既にこの考え方が見える。古事記は「序」から書き始められ、「天地(あめつち)の初め」つまり聖書の「天地創造」の事は、「神代からの古伝承によって、神が国土を生み島々を生んだときのことを知り、天地の別れる前の元始のころのことは、はるかに遠い太古のことであるが、古代の賢人のおかげで、神々を生み人間を生み出したころのことを知ることができる。」(次田真幸訳 講談社)となっている。旧約聖書では序文はなく、序文的第1章の後、第2章の冒頭部分で「これが天地創造の由来である。」と断定しているのとは大違いである。古事記では聖書の様に一通りの話だけを記述しているが、日本書紀では、創世記部分の冒頭でさえ、一通りの話の後に、「一書に曰く」が6通りもあり、「古伝承」や「古代の賢人」が如何に信用できないかを暴露している。これを現代風に言い換えれば、「天地創造によって神が生まれ地上の動植物が生じたと言い伝えられているが、詳細は諸説あって本当のところは分からない。誰も見たわけではないから、伝承に頼るしかないのだが。」ということになる。

古事記や日本書紀は元来皇室の権威付けのために書かれた捏造物だから信じてはいけないとはよく言われる事であって、そうかもしれないが、少なくとも当時の日本の知識人は、これを読んで異論を唱えず、学習しながら伝承し続けたのだから、それに近い考えを持っていたとは言える。

そうであれば、奈良時代の昔から日本人は、「神とは、必ずしも確かではない伝承で聞くが、見た者は居ないからどの様なものかは分からない。しかし居るとすれば超人的で恐ろしい存在だ。」と考えていた。仏教もキリスト教も、教義は立派な事が書いてあるから大いに参考にしたが、神と交渉があったという事は受け入れない。中国では皇帝が天(という神)から天命として統治を付託されたとしたが、その思想も受け入れなかった。

それでは天皇はどんな存在なのだろうか。「現人神」という印象があるが、この神は所謂西欧的神ではない。天皇の最大の仕事は真の神を祭る事なのだ。今日でも天皇は宮中で八百万の神を祭っている。これは日本人の混乱でもある。神が神を祭る事に合理性はあるのだろうか。既に古事記でこの混乱は生じている。天照大御神が弟スサノオノミコトの乱暴に怒って天の石屋戸に籠もる話は有名であるが、この時のスサノオノミコトの究極の乱暴は、「天照大御神が忌服屋で神御衣を織らせていた時、天井から皮を剥いだ馬を投げ入れ、織女が驚いて道具で女陰を突いて死んでしまった。」というものであるが、「忌服屋で織る神御衣」とは神に捧げる衣を織る巫女を連想させる情景だとの指摘が学際よりなされている。日本書紀では例によって「一書に曰く」が多数あり、そのひとつなどでは「スサノオノミコトが、天照大御神が新嘗をする新宮の席の下にこっそり糞をしておいたので、知らない天照大御神がそこに座ってしまい、全身怒り露に天の石屋戸に籠もってしまった。」というものすらある。これは天地を創造する神と同列の神ではない。

古代日本には、人間の形を持っているとは言えない崇高な神と、それらの神を祭っている人間の形をした神の2種類がいる。人は後者を崇め、神社に祭る。そういう意味で、僧侶や神官に敬意を払い、天皇をその最高峰の人とし、得体の知れない恐ろしい神を祭り鎮めてくれる存在に安心感を委ねるという精神構造だったが、今日それが揺らいでいる状態、ということではないだろうか。祭られる神については何の知識も無いのだから、その神と契約することなどあり得ない。人間から一方的に神に働きかけるの、はひたすら祭る事意外にないというのは、恐ろしいほどに合理的発想である。日本人はローマ法王も天皇と同じ人だと感じているのではなかろうか。

それでは、日本人の高度な道徳観はどこから来るのか。「お天道様はお見通し。」という言葉がすべてを表している様に見える。「恥をかく」のも同じ発想である。人間界の事は人間が決めるしかないという開き直りの発想の様な気がする。だから外来の宗教には大変興味があり、良いところはすべて取り入れる。神以外は。だから仏教と神道が混在しても構わない。むしろ良いとこ取りするためには混在した方が良い。商売繁盛のためには神社にお賽銭を投げて御神籤に一喜一憂し、死ねば仏式で葬式をあげて戒名を貰い、楽しいクリスマスパーティーで賛美歌を歌っても何も問題は無い。傍から見た問題点は、宗教に主体性がないから自ら高尚な教義を創り出せず、人真似ばかりしている事であろう。しかし、傍目にも羨ましい高レベルな道徳感を持った合理性溢れる国民国家を作っている。

日本人同士なら、「話せば分かる」ということになるだろうが、日本人以外の文明人には「幾ら話しても分って貰えない」ことになりそうだ。

科学が進化し既存宗教の教義は否定されつつあり、それで倫理感が崩壊してしまう民族が世界の多数派になりつつあるのかもしれない今日、日本人について少し説明をしても良いのではないだろうか。日本人にとって、神は未だ存在し続けていることを強調しながら。そしてその神は人間を監視している可能性があるのだと言い添えて。人間界の事は人間が埒を開けるしかないのだということは、日本人にとっては水が低い方に流れるのと同程度に自明の理である。日本人の様に、神から離れ人間として生きるには何が望ましいのかを考える事は今後の文明人の生き方の有力な選択肢ではないだろうかとまで言えるかどうかは別にして。

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