論評

2013年10月27日 (日)

良識と正義

 良識は長い経験の中で培われた共通認識で、正義は複雑化した社会を維持矯正する大義になる。良識は個別民族が土俗的に持っている、望ましいと感じる秩序感だが、正義は一部の秀才が机上で作った理想という感覚がある。参加者が多い世界の事だから、皆が深く関与して決める類の事ではない。

良識は発展途上の社会を形成している民族も持っている。過去何千年も、その民族を存続させてきた理由でもあるから、発展途上の民族の良識にも、聞くべきものがあるはずだ。しかし社会の発展が途上であれば、正義については議論の余地がある。西欧化が進みやすい領域になる。

 常識的に考えれば、正義と良識は共存するのが好ましいが、先進国であっても一部に齟齬がある。それは常の事であるが、極端な考え方の持ち主の中には、共存を否定する人達が多い。典型例が共産主義だろう。世界国家を目指す故に、各民族の良識を否定する。しかし共産主義者にあるのは正義だけで、良識という概念が希薄だ。必要ないと考えている節が見える。社会主義者も同様の傾向がある。

 人間は感情の動物だから、それと社会秩序を調和させる事は、結構難しい。良識はそれに対して大きな役割を果たしてきた。良識の存在理由はそれであると言っても過言ではないだろう。従って、正義のない良識は世界各地にあるだろうが、良識のない正義が通用する世界はあり得ない。それを無理に強行すると、不都合が生じる。その好例が、文化大革命であり、カンボジアのキリングフィールドだった。正義が暴走し、良識がそれを止められなかった。

 西欧の良識は、世界で最も完成度が高い。それ故に高度な文明を育んできたが、2度も世界大戦を行なうほどに不完全なものでもある。その他の国々の良識は更に劣っているのだろう。良識は多分に土俗的なもので、容易に比較はできないから、個別の比較論は難しい。各国の世論には、欧米化と土俗回帰のせめぎ合いがあるだろう。日本も例外ではない。内容の良し悪しより、拠って立つ人の政治的・経済的利害関係で論争が進むから、見えにくいのも各国共通の事情だろう。

 いずれにしても、良識のない正義は危険極まりないから、極力避けねばならない。民族文化をおろそかにしてはいけないということである。社会が複雑化すると、社会派が実権を握り、民族派は旗色が悪くなりやすい。発展途上国ではその傾向が顕著だ。特に大国化して正義と良識を共に発展させて来たと言う自負があると、話がややこしくなる。共産中国と台湾にその顕著な実例がある。台湾には元々社会的正義は希薄だったから、日本の正義を受け入れた人達が、一時蒋介石政権の中華に戻そうとされながら、また日本の正義に戻って自信を深めている。中国は大国のプライドとしてのブレーキと、正義を推進する共産党のアクセルで、文化大革命を経てもまだ良識も正義も方向性が見えない。今後も当分混乱が続きそうで、国民の良識は劣化し続けている。中国韓国の移民や旅行者の良識のなさには世界が唖然としているが、それでも何とも出来ない。

 アメリカでも、民族的良識を持っているのか分からないオバマが大統領になった。民主党はアメリカの社会主義者だから、正義さえあれば支持される様だ。危険な方向に行かなければ良いがと危惧せざるを得ない。

 日本では、社会党や共産党の、正義だけで良識のない見解は、支持されていない。民主党程度なら良いかもしれないという期待も大きく裏切られた。やはり良識のない人々には何も任せられないという考えが戻っている。あくまでも正義にこだわる人達は、共産党支持に回った様だ。共産党という組織の実態を知らないからだろう。組織の幹部になるためには、良識を捨てて彼らの独善的な正義を崇拝しなければ、草の根的な末端でも、幹部になれない組織である。暴走すればカンボジアの大虐殺になるリスクがある組織だ。言葉だけで判断する危険を承知する必要がある。

 良識は学校教育では育たない。個人的人間関係から育まれる。それは必ずしも親子ではないが、親が良識を大切にする姿勢を示さなければ、大人になってからでは矯正されにくいのは確かだろう。発展途上の国であっても、親が良識という概念を教えさえすれば、子供は必要に応じて考えを変えることが出来る。先進国でも、親や教師が良識を否定する教育を行なえば、社会が荒んでくる。戦後の教育を受けた第一世代は、社会に良識があったから矯正されたが、第2世代になると良識の意識が薄れてきた。日本の社会の本格的な変質は、第3世代に持ち込まれた。現在若手と言われる人達になる。彼らは保守回帰の傾向を見せている。日本の良識は健全だった様だ。

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2013年8月15日 (木)

中華思想、 公徳心のない中国人の基底的思考

中華思想と、孔子や老子の思想を、同一視してはならない。一つの切り口でしかない。中国の史書を読めば、彼らの歴史観が浮かび上がる。彼らの歴史観は、老荘思想とは関係がない。

漢の司馬遷の歴史観と、隋以降の史官の歴史観は、大きく異なっている。現代中国人は、隋唐時代以降の歴史観を持っている。北の鮮卑族という蛮族に征服されて、考え方が変わったのだ。それ以降、1500年間、殆ど変わっていない。

中華思想の根源は、望ましい社会を形成する為の、秩序感を反映している。

中華世界で最優先の秩序とは、平和である。多民族が雑居する中華世界では、平和な状態を実現する事が、総てに優先する。分かりやすく、当たり前の事である。この中華世界で選択された秩序システムは、「絶対権力を持つ皇帝が、中華世界を畏れさせ、平和を実現する」ことを基盤にしている。中国人には、これ以外の平和な状況は、想像できない。民主主義が、中国全土に行き渡ることは、近い将来には、あり得ない。近い将来というのは、百年単位で数える長さになる。

皇帝が平和を実現する世界では、皇帝権力は強い方が良い。その力が、多民族を統治する中華世界の隅々まで浸透すれば、中華世界の平和が実現される。中華世界の暗黙の了解は、ここにある。中華世界では、余りにも当たり前の事だから、中国人にも意識されていないが、他民族から見れば、中国人の異常性の原因が、ここにあることが分かる。皇帝権力の、絶対性を認める意識は、中国人の心の中に、牢固として存在する。それ故に、共産党独裁政権は、倒れない。

皇帝の絶対的な権力は、当初は統率力を背景に実現される。初代にそれがあっても、2代目、3代目には、統率力を欠く事が多い。それでも、強力な皇帝であり続けさせるために、「歴史の創造」が、周囲によって為される。皇帝権力の正当性が、捏造された歴史によって担保される様になったのは、隋以降である。それ以来、歴史は事実の集積だと考える思想が、後退した。

中国人にとって、政権の正当性を強めるのであれば、歴史を捏造する事は正義である。この思想は、現在も牢固として健在である。彼らに、事実を突きつけても、それが政権の弱体化を導くものであれば、感情的に拒絶する。それが、中華の歴史観である。理論家が机上で考えたものではなく、千年単位の歴史に裏打ちされた、極めて土俗的感覚である。

絶対権力の統制に対し、理不尽なものでも受け入れる事は、大きなストレスを生む。そのストレスを処理する方法も、文化である。中国人は、日本人以上に、空気を読むと言う人が居る。日本人は、世間に対して空気を読むが、中国人は、権力に対して空気を読む。それも、大きなストレスだ。人間が耐えられるストレスには、限度がある。それ故に、中国人には、人間社会に対しては、気配りしない自由が認められている。公徳心がなくても良いということだ。これも、土俗的思考に取り込まれている。皆がそれを認め、社会的コンセンサスになれば、文化になる。無理な見栄を張ることや、嘘を言う事にも、寛容になる。絶対的な権力が、嘘で塗り固められている事を、積極的に容認するのだから、当然だろう。

日本は、島国だったから、小さな共同体社会を発展させてきた。これも2千年以上の歴史がある。日本史上、中央集権制を敷いたのは、奈良時代と、明治維新以後しかない。日本人には合わないから、長続きしない。小さな共同体では、秩序は、共通化された公徳心によって形成される。和を尊び、全員一致型の議決で、物事を決めるのは、この小さな共同体の遺習である。

日本人は、2000年以上の間、巨大な中華の隣に位置しながら、皇帝専制という秩序感を、拒絶してきた。西欧的民主主義は、日本型の社会への適合性が高い。中華世界への適用は、無謀に見える。西欧は、小さな民族、更に小さな共同体が発展して出来た、文明なのだから。

日本人と中国人・韓国人が、事績としての歴史認識を、すり合わせる行為は、無駄であるから、止めた方が良い。思考の根底が違う事を、認め合った方が、建設的である。日本の一部の知識人に、中華思想の影響が色濃く現れているのを、奇異に感じる。歴史的な関係の重さだろうか。

この中華的思想を捨てない限り、中国の発展はあり得ないだろう。

中華世界の平和を重視する中華的発想のもう一つの特徴は、中華世界の無限の膨張を推奨する事である。国境が遠方にあるほど、中華世界が安定するのは、当然である。海に囲まれ、領土に限りがある日本では、実感として分からない。尖閣問題で、中国人の発想法が明らかになった。そこの土地に、利用価値があるかどうかに拘らず、国境は遠方にあることが望ましい。それが平和の条件であるから、政権のその行為は、無条件で国民に支持される。公徳心=社会的ルールを持たない中国人が、これを始めたら、際限のないことになる。島国の日本人には、理解出来ない発想だろう。中国のエゴに屈して、恣意的に利用されたくなければ、力で対決する以外に、手段はない。

中華世界の、平和を維持する更に別の手段には、権威や価値観の固定化がある。中華世界では、社会の流動性は、社会不安と同義である。これが中華的歴史観と合体すると、民族の序列観は、歴史が規定し、未来永劫続かねばならないことになる。敗戦国である日本が、劣等民族であるという歴史観は、未来永劫続く。彼らは、侵略された被害者感情の発露だと言うが、それは嘘である。もっと根底的にある、価値観に立脚している。これも、中国人自身が、理解していない可能性のある、彼等にとって当たり前の感覚である。

中国世界では、皇帝の専制を絶対視したから、共同体は、組織的には成長しなかった。専制と共同体は、対立する思考だから、当然である。靖国神社問題は、共同体意識に関する、見解の相違である。中国には靖国神社など、存在できない。これは、高度に組織化された共同体意識の、象徴であるからだ。共同体意識のメリットは、明治維新から第2次世界大戦まで、強国日本の要素として働いた。手本の西欧文明が、小集団の共同体社会的規範に基づいているから、当然である。西欧化に成功したのだ。中華世界では、これが出来ない。それに関する嫉妬心と、恐怖感に、朝日新聞が火を付けてしまった。日本では、知識人であるほど、前時代的な中華思想の影響が濃い。中でも、朝日新聞は異色である。一般の日本人は、彼等を理解出来ないが、朝日新聞社は、日本の常識をリードする積りで居る。滑稽なことである。

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2013年6月13日 (木)

ノンフィクションの嘘

誰も公の場では本音を話さない。それを纏めて解説しても本当の話にはならない。それは誰にも分かっている。しかしこのジャンルが生き残る為には何らかの方策が必要だ。一つの方策にイデオロギー傾斜がある。イデオロギーは政治用語だが、応用分野は他にも沢山ある。特段の根拠も無く人々の情感を煽って賛同が得られ、集団的情宣活動が軌道に乗れば、それはイデオロギーになる。イデオロギーとは机上の空論の事で、英語でアイデアと言えば、知的であろうと愚劣であろうと、頭脳のひらめきから創出される概念の総称であり、そのアイデアの集成がアイデア・オロジー即ちイデオロギーである。

誰かが何かを発言した場合、イデオロギーのフィルターを通して解釈する事が許されている。考えてみれば不思議な現象だが、マスコミが記事を売るために必要な行為とされて多用し、批判には徹底的に噛み付いて守る。元々人間は自分が持っている常識のフィルターを通して物事を判断するが、本来それは個人の所作で、情報を販売するべきマスコミがそれを行なった後で販売するのは好ましくないが、科学技術情報でもない限り、マスコミには生の情報を扱う能力がない。世の中はそんなものだと言ってしまえばその通りで、ノンフィクションもそんなものになる。

人々の常識感が高まると、ノンフィクションの嘘が鼻に付く様になる。フィクションの方が分かりやすいのではないかと感じる事になる。フィクションはあくまでも創作だから、誰かが本当に話したものではないが、本音というジャンルに切り込む事ができる。それ故別の意味で傷つく人も現れるが、ノンフィクションより酷いとも言えない。

本音フィクションにも色々ある。「人の不満は物質では埋まらない。」「社会が豊かになるほど落ちこぼれは増える。」「格差社会は豊かな社会である証拠。」「貧しい国に人権は要らず、豊かな国に平等はない。」とかは、フィクションの方が説明しやすい。難しい統計を多用しても一般人には分かりにくいからだ。現代人は自分の知性を過信している様に見える。

最近の情勢をフィクションで解説してみたい。フィクションだから何を題材にしているのかは言えない。

先ず、場面設定から始める。

丘の上に住宅街があり、取り巻く川が蛇行して突き出す場所に2軒の住宅がある。北側に北島さんが、南側に南部さんが暮している。河の対岸の海に挟まれた土地に日野さんが暮している。北島さんは左翼政党の活動員で、南部さんは海外の会社の販売代理店を個人で行ないながら、その会社の依頼で北島さんの活動を牽制している。日野さんは漁民だが、漁船を作ったりその船で行商したりして小金を持っているので、立派な家に住み息子はささやかな事業を営んでいる。南部さんと日野さんの家の間の川には粗末な橋が掛けられている。南部さんは日野さんの家の出入りは、昔からすべて掴んでいると思っている。日野さんの家の家具は、この橋の上を運んだものに限られている筈だと信じている。だから日野さんの家にはTVがなく、ラジオだけで暮していると確信している。本当は、日野さんの家の居間は豪華な家具と電化製品で溢れかえっている。これは日野さんが河口の対岸にある街の百貨店で買って船で運んできたものだが、うかつにも南部さんは船の運送力を全く評価していないから、丘の上のスーパーに並べられている安物の家具や電化製品を使いながら、優越感に浸っている。

以上は過去1万年の歴史をフィクションで簡単に描いたものだが、歴史論争しながらあれこれ議論しなくとも、場面は容易に設定できる。フィクションなのだから事実誤認の疑いがあるとかの言い掛かりを付けられる心配も無い。歴史学者もこの様な例えで歴史を議論すれば良いのにと思う。これができるほどに良く分かっていないらしい振りをしているが、実は発禁圧力があるらしい。

この場面設定で「嫉妬と妄想は身を滅ぼす」とか「操作される虚飾的家族」とかのタイトルで長編小説も短編小説も書けるのであるが、誰かが始めると、対抗心むき出しで下らない本を書く人も出るだろう。それで良いのではないかと思われる。日本人は尤もらしい内容を嗅ぎ分ける文学的センスを持っている。それを持たない民族は自滅を早めるだろう。現代小説はその様な事態を避けるために、悲劇の主人公かファンタジーしか追い求めないことにしている様に見える。小説家が小説を貶めているかの様だ。

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2013年5月 1日 (水)

観念的な戦略で動く米中

 米中両国は極めてイデオロギー的な国家と考える必要がある。イデオロギーは頭だけで考えて結論を出した産物で、情感とは異質な結論を出す。中国は中華思想というイデオロギーで行動している。中華の辞書には国際協調という言葉がなく、国際関係は力によって支配されるという発想しかない。これは中国3千年の歴史そのものだから、容易に変わらない。中国では帝国主義権力が全土を統治するか、天下が乱れているかのいずれしかなかったからだ。日本も中華思想の影響から列島の統一は安定をもたらすと、頭で考える人が多いが、奈良時代と明治維新後を除けば、実態は藩などの地方政権を主軸とする分権制が主体だった。中央集権制は安全保障上では有利だが、統治機構として効率的ではないことを実感していた人達が多かったからだろう。地方の実態を無視する画一的な統治なのだから。

 中国では安全保障が総てに優先する殺伐とした大陸社会の実態に即した制度を支える中華思想が発展した。これは土俗的なコンセンサスだから文献に銘記されているわけではない。中華の安全のためには辺境は極力遠方にあることが望ましい。それは政権自体の利害と一致し、強固な思想となって今日まで伝承されてきた。中華帝国に力があれば、周辺を侵略・征服して国境を拡張することは国家的正義になる。チベット・西域、尖閣や南シナ海の領土問題はこの文脈で読み解く必要がある。中国は伝統的に陸軍国家だったが、近年海洋戦略を重視しているのは海洋も重要な辺境だと認識を転換したからに他ならない。これは中国人の生活実感ではなく、あるべき国の形であるから、イデオロギーの範疇になる。西欧思想だけをイデオロギーと規定していては実態が見えない。中国が容易に共産国家を建設したのは、中華思想と共産主義思想が類似性の高いイデオロギーだからと思われる。共産主義も帝国主義、中央集権、武力侵略を肯定する。

 アメリカは合衆国だから中華的ではない。安全保障を連邦政府に任せ、民治は各州に委ねる制度は合理的だ。しかしアメリカには歴史が無いという致命的欠陥がある。歴史は民衆のコンセンサスの履歴で、民衆の価値観共有のバロメーターだが、これがない状況で高度の統治を実現しようとすれば、土俗的情感に依存しない方向を求めるしかなく、イデオロギーに走りやすい。民主主義を守る世界の警察国家を任じているのも、一種のイデオロギー活動と言えるだろう。イデオロギーの怖さは暴走に歯止めがかかりにくいことで、これはソ連・中国・カンボジアで実験済みの事である。これに歯止めをかけるのは情感であり、情感は極めて土俗的な存在である。従って、米国民に土俗的感情である信義や正義感を望んでも裏切られる可能性が高い。イデオロギー国家にもその国民にもその様なものは希薄であると考える必要がある。アメリカ人がキリスト教に敬虔な思いを馳せる事に批判的な人が多い。彼らの信じるキリスト教が未だに進化論を否定し、神が天地を創造したと信じているからだが、彼らがそこに土俗的情感を依拠し続けている事を考えれば、彼らの活動はもっと肯定的に判断する見解はあり得る様に見える。しかし米国全体を見れば、多民族を統合する思想はやはりイデオロギー的にならざるを得ないだろう。

 イデオロギーに支配される国は極めてドライで功利的になる傾向があることは止むを得ない事になる。

 アメリカが国力を減じ、中国と取引する日が来るのは時間の問題かもしれない。昨今の中国の異質なイデオロギーに危機感を持ち、隠然とした経済制裁に走りつつある米国だが、それが成功する保証は無い。米国ではその先の戦略も検討されているだろう。中国にとって民主主義は受け入れ不可能なイデオロギーだと認めつつあり、中国と取引する場面を想定する段階にあると推測される。中間線を何処に引くかはその時の情勢次第だが、日本も韓国も中国側に置かれる可能性が高い。現代の科学技術を使えば、海洋は既に自然の障壁とは言えないから、日本に中国軍が侵攻する事もあり得る。その時日本はどの様に対応するか、今から考えておく必要があるだろう。米国は将来の中国との円滑な取引の条件として、日本を非武装状態に留めておきたいと考えている。それが今後の中国との関係維持に重要な要件になるからだ。中国は米国がその政策を維持していれば、当面は目立った敵対行為はしないだろう。将来の交渉のテーブルでの議題を双方が想定しているからだ。日本が重武装していると交渉は全く違ったものになるから、双方がその状態を避けようとしている。その日が来た時、日本から見れば、アメリカは日本を中国に売ったことになる。アメリカからすればそれは世界秩序の安定のための選択として自国民を納得させることになる。

中国の州になるか、李氏朝鮮の様な朝貢国になるかはその時の情勢に依存する。韓国は既にその覚悟を決めている様に振舞い始めた。長年の歴史が韓国民の行動を自律的に決めている様に見える。韓国は今後中国以上に日本に対して敵対的になるだろう。中国もそれを見越して日本に強圧的になり、更に韓国を抱き込もうとする。日本の左翼・リベラリストもその同類だろうか。日本国民である事より個人である事を優先すれば、率先して親中韓的になることは功利的判断かもしれない。

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2013年4月10日 (水)

経済学は未来を予測できない

 経済学が未来を予測できると考えるのは幻想だが、そう考える人が未だに多いのは、共産主義の残渣が未だに人々の心に投影しているからだろう。共産主義者は経済は予測可能だと主張し続けて来た。それが破綻した20世紀末に経済は学問ではないと言われ、大学の経済学部の競争率は低下したが、未だにその事実を認めない人が多い。経済学者に未来を予測させるマスコミ企画は未だに健在で、臆面も無くそこに出演する経済学者も跡を絶たない。

 経済学という学科が大学に存在するから、高尚な学問が研究されていると考えている人が居る。その疑問を考えたいが、経済学単独で考えると思考の迷路に入り込む。先進国経済は物の交換で発展しているのではないことは周知であるが、これは人間の創造性による商品の創出が重要な経済要素になっているという事である。人間の創造性が発揮される分野は色々あるが、経済学と並べて見て分かりやすいのは工学ではなかろうか。工学を考える時、自然科学を視野に置かねばならないが、その違いを明らかにする事が、経済学の位置付けを理解するのに役立つ。

自然科学は自然界に存在する法則を追求する。手段として工学的手法を使うとしても、目的はあくまでも自然界に存在する法則である。それに対して工学は、自然界に存在しない人工物を創造する事が目的で、自然科学とは対極的である。この科学と工学の関係を経済学に適用して検証すると、自然の法則と人工物の創造は、目的としては未分離の状況で存在できる筈がないのに、存在できると誤解されていることが分かる。現実の経済学では科学に相当する部分は非常に小さい。嘗ては原始的な交換経済での原則が直感的に議論されたが、原論というには程遠い。共産主義者はこの一見科学的な分野に固執して経済学の未来予測を唱えてきたから、現実の経済活動を説明できない。

科学者や工学者で、特定の専門分野についてではない包括的な発展方向を解説できる専門家は居ない。出来ないからだ。人々もそれを知っている。未来予測はSFの世界でしかない。しかし経済学者と称する一部の人は、未だに左翼思想の惰性として、将来を予測する人がいる。彼らが経済原則を新たに理論化するとか、人為的な新しい操作がもたらす変化法則を発見している様な痕跡は見えない。理解不能な理由付けで主張する大学教授や専門家がいるのは、それが出来ないことだということが分かっていないという点で、一般人以下のレベルに堕落しているという自覚がないからだろう。

経済学には有効な側面もある。理解を助けるために、科学と工学の関係について例示したい。治水に関する土木工学と科学の関係が分かりやすい。氾濫を繰り返す河を抱える平野の治水をモデルとして考えれば、有用な経済学はこの場合の工学の様に働く。アベノミクスはその様なものだと捉えられる。

 先ず、工事を始める環境を考える。他に有用な土地が豊富にあれば、敢えて大金を投じて工事をする必要はないが、隣接する平地の地価が高騰しているのであれば、挑戦する価値はある。先端の土木工学を使えば治水が可能なのか判断するためには、工学に関する知識が必要だ。判断する組織には土木工学に関する有能なブレーンが居なければならない。素人集団では徒に議論を繰り返し、出来ない言い訳に終始するだろう。嘗ての民主党政権はその様な集団だった様だ。環境への影響も重視される。オオサンショウウオが生息する川なら、自然保護を叫ぶ人が現れる。オオサンショウウオの研究者が先頭に立って開発反対運動を展開するかもしれない。彼らは科学者であるが、土木工学をサポートする科学者とは別種の人である。科学者を同列に扱ってはならないのと同様に、経済を活性化させる経済学者と、わが道を歩いているだけの経済学者も区別する必要がある。この研究者にオオサンショウウオの生態調査を依頼すれば、不必要に時間をかけ悲惨的データを積み上げる可能性が高い。担当する科学官僚もそれを後押しする可能性がある。経済問題での押し問答はもっと複雑怪奇に見える。

 土木工事で何が出来るか考える必要がある。宅地が欲しいのに農地を開発する手法を使ってしまうかもしれない。しかしそれは土木工学の責任ではない。土木工事が単に治水を目的とするだけならば、やり方は幾通りもあるかもしれない。使い方を間違えれば大金をドブに捨てる行為になる。このレベルを経済と対比すれば、流通貨幣の流れ制御だろうか。経済の活性化などという大それたテーマにはなり得ない。

宅地にするには交通インフラが要る。隣接地が通勤に不便なほど遠ければ、事業所用地も要るし、港湾の整備も必要かもしれない。徐々に開発しながら地域発展の方向を見定める必要がある。交通インフラも港湾も別の工学の出番で、徒に着手しては無駄が出るし、成果が出るとも限らない。経済の発展を阻害している要因は徐々に解きほぐす必要がある。個々の工学的手法と経済政策も同じで、遠い将来を見通す事は難しいが、逐次有効性を見出しながらプロセスを始める必要がある。何かしなければ何も生まれない。人工物を創造する工学は間違いなくそうである。

 商業や金融は経済の重要な要素だが、個々の企業の活動に委ねられている。企業活動の道筋を立てるのに、エコノミストと呼ぶ技能者が居るが、彼らはビジネスマンであって学者ではないとされている。工学分野でも研究者と呼ばれる人達が新しい技術の創出のために働いている。その数はエコノミストの数百倍も居る。工学研究者は専門分野で活動している。流通業や金融業で業態を開発するビジネスマンの、学際としての格が低いのは、科学をバックグラウンドに持たないからだと思われる。人間活動は創造的だから、ビジネス手法も創造的にならざるを得ず、創造される手法は無限の数存在し、唯一の真理を探究する科学とは全く相容れない。

 創造的世界ではあっても、根源的な部分では共通認識と共同目的が必要になる場合があり、そこには将来像のコンセンサスが必要になる。工学的将来像を議論すべきはエネルギー政策とか、全国的・国際的交通インフラ程度である。経済的な将来像を同列に考えれば、国債・金融政策、日銀の役割、規正・関税法などの要素分野だろう。それを使って実施される経済活動の帰趨は誰にも予測できない。出来ると言い張る方に無理がある。しかし何らかの決断と施策は必要不可欠だから、それはばら色の夢を宣伝しながら行なうことになる。要素分野の有効性を個別の技術レベルで議論するべきで、そのばら色の夢を批判しても仕方ないが、マスコミのコメンテータはそれを主張して視聴率を上げたいマスコミにおもねるから、世間の議論はややこしくなる。経済学が市場操作を目的とする学際であるなら、工学の様に学科レベルの専門性が求められ、専門領域での発言となる筈であるが、それも怪しい。

 工学分野でマスコミに登場して解説する人は稀であるのに、未発達な経済学分野関係の人が分かっている様な発言をするのは滑稽である。

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2013年4月 7日 (日)

中華経済の発展は世界の危機を生む

 中華経済の特徴は、コピー商品を低賃金で大量生産することにある。問題は模倣を悪としない理由は、発展途上国も豊かになる権利があるという事だろうか。小国が発展途上の一時期にこれを実施するのは仕方がないが、経済力のある大国がこれをやり続けると世界経済は破壊される。先進国の高失業率問題と、振れの大きい景気循環はこれが原因になっている。裏を返して言えば、先進国はこれらの諸問題を解決する為の一つの有力な手段として、知的財産権保護という制度を堅持している。

 現代社会は恒常的に生産過剰になる宿命を負っている。科学技術の進展がこれを可能にしてしまったから、今更元には戻れないし、産業革命以前の世界に戻りたいとはだれも考えない。その時々の社会の問題点を取り繕う様に継ぎはぎしながら、より繁栄する社会に移行してきた経緯を踏まえ、今後もこの制度を継続するしかないだろう。

 生産力が過剰な状況を緩和する為には、新しい商品を開発する事が最も有効であり、現在それは進行中である。商品は形あるものとは限らない。有用なサービスも、需要の喚起に役立つだけでなく、サービスとして完結する商品や業態も多数ある。それらの開発は民間企業に委ねられ、民間企業は資源を投入して開発に励む。それを後押しする制度が知的財産権の保護制度である。この制度の規制が厳しいほど創業者利益が得やすくなるから、開発インセンティブが高まり、商品の過剰生産や失業問題は緩和される。何故なら、企業は開発業務という利益に直結しない部署に多数の人件費を払い、必要な建物、必要な機材を購入し、消費に貢献するからである。それに必要な原資は、既に開発した商品が知的財産権により保護されていれば、そこから産まれる高収益によって賄うことが出来る様になる。知的財産権保護制度により保証される新商品の利潤が高ければ、商品開発部門に従事するエキスパートの賃金は高騰し、人々はその業種に従事する事を望む度合いが高まる。そうなれば教育産業なども活性化され、新たな業種も形成され既存の商品・サービスの消費者となる。現在の日本企業では、直接生産・流通に従事せず、商品サービスの開発に従事している人の割合はかなり高い。

 現在中華企業のしていることは、この開発業務を他国からの技術導入に依存し、生産コストだけで価格競争力を付けて商品を世界にばら撒こうとすることである。小国がするのであればまだしも、世界一の人口を誇る中国がこれに邁進すれば、特に国境を越えて取引される商品は、中華ペースの経済競争に晒される。この世界では、生産規模が大きいほど製造原価が低いのは法則に近い現実であり、販売価格と市場シェアが最重要視される。その獲得のためにする事は、あらゆる手段を講じて製造・物流コストを低減することであるが、これは生産力が過剰な状況を増幅してしまう。物が溢れているのに失業が増大し、賃金が低下するという悪循環に陥るからだ。それでも現代の製造業では生産コスト低減努力が最優先課題の様に叫ばれ、益々事態を悪化させている。僅かでも生産コストを低減するために、製造工場はどんどん海外に流出している。

 この状況を改善するために先進国が採用しようとしているのが、規制緩和である。国内の規制緩和のみならず、貿易障壁を低くする規制緩和である自由貿易協定の締結も盛んに検討されている。これは従来保護されてきた産業を破壊する恐れがあるから、社会制度に大きな摩擦を産むが、過剰生産と高失業率問題はそれに敢えて挑戦しなければならないと先進国に思わせるほどに深刻になりつつある。

 中国ではそれにどう対応しようとしているのかを概観すると、相変わらずコスト競争を継続しながら、官営的製造業に過剰生産を許し続けている。現在の中国の体制では、先進国的対策が実施できないからである。独裁政権には規制緩和はしにくい。そもそも先進国の規制は消費者保護の名目が多いが、中国にはそれは元々殆ど存在していない。その上既得権益者が権力と密接に結びついているから、痛みを伴う構造改革には抵抗勢力が強すぎる。中華世界には自由経済を制度的にコントロールする仕組みも乏しいし、共産党政権にはそれを作り出す意欲も乏しい。かなり崩れているとはいえ共産主義を標榜する政権に、自由経済社会を創造して国民を豊かにするという考え方は存在しない。共産主義の教科書には、生産力が増大すれば国民は豊かになれるとしか書かれていないことによる。

 共産主義中華が採用する一番大きな努力目標は、相変わらずより先進的な工業製品を開発コストなしに生産できる状況を作ることになる。これは中国人の善悪の判断の問題ではなく、中華国家の必然になる。中華人民の豊かさの追求にはこれしかないと正義感を以って語られる状況にすらなるだろう。世界経済がどうなろうと、中国1国の経済発展が優先するという意識は今まで見せ付けられて来たのだから、一朝一夕には変わらないだろう。中国がこの状況で邁進すれば、世界経済は破壊され、欧州危機は一層深刻になり、日本も同様な危機を抱える恐れがある。日本にはギリシャは存在しないという人がいるかもしれないが、同様の地方を国内に多数抱えているから、一旦問題が噴出すれば、欧州以上の混乱も予測される。

今まで寛容だった欧米諸国も日本も既に先進技術の中国流出には神経質になっている。今までの中国発展モデルは行き詰ってきているのだが、発展モデルを変更できなければ従来路線を完遂する努力をしなければならない。中国がネット技術を駆使して欧米・日本の先進企業の企業秘密を盗もうとする行為は、国家的戦略にならざるを得ない状況になってきている。その他のあらゆる手段を駆使して先進技術を盗作する努力を続けるだろう。中国が知的財産権を真剣に保護しようとするとは到底考えられない。悪い事に、既に破綻している共産主義思想とはいえ、共産主義政権は基本的に知的財産権を保護しない。これは見かけ上不労所得によって貧富の格差を産む仕組みなのだ。

 何処の国でも公式見解として中国のこの戦術をアカラサマに批判する事はしていない。それをすれば中国は猛烈に言い返し、懲罰としての経済制裁も躊躇しないだろう。言い勝てばそれで良いとする国民文化もそれを後押しする。この国民文化は優良な資本主義国となるための大きな障壁なのだが、この場合には有効に働く。マスコミも同様の恐れを抱いているから、誰も公式発表していない事実を公表する勇気も知的バックグラウンドもない。こうして先進国の政界の中の有志だけが、これ以上の中国経済の発展は阻止しなければならないと言い合うが、その言葉が外部に漏れる事はない。それでも米国は超大国の責任と面目の中で、一歩を踏み出し始めている様に見える。

 最近の日本の新聞の論調もその傾向を匂わせ始めているが、尖閣問題に端を発した国家間の摩擦が原因であるかのように装っている。中国経済を没落させるキャンペーンを張る事はできないだろう。特派員の生命に関わるかもしれないし、民間企業たるマスコミに正義を求めることも難しい。

  資本主義国である筈の韓国も類似の問題を抱えている。これは韓国民独特の民族性に起因している。当然中華的道徳感に由来する部分もあるが、目的のために手段を選ばない上に、手段の中に恫喝を含むことに後ろめたさを感じないという更に特殊な民族性がある様に見える。全く体制が異なる南北朝鮮でありながら、この特徴を斯くも顕著に発揮しているから、この視点は間違いが無い様に感じる。中華思想では、世界の中心似位置する中国は意に沿わない国を懲罰する権利を有していることになっており、中国がそれを濫発して世界の顰蹙を買ったが、朝鮮半島民族の状況は尋常では無い。

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2012年11月29日 (木)

累進課税強化による所得の再分配は先進国の失業率を高め経済を劣化させる

 ある程度の累進課税による所得の再分配機能は必要かもしれないが、先進国では過度にしてはならない。古典的経済学や、唯物論的経済学を信奉している経済学者が未だに多数派だからこの説は公知にならない様だ。旧来の説では、貧富の差が大きければ低賃金労働者の購買力が抑えられるため需要が盛上らず、不況が長期化すると説くが、GDPとして生まれた富は低賃金労働者であろうと、高賃金労働者であろうと、また資本への配当であろうと、誰かに配分され消費か再投資に回る。だから総需要の不足は配分の問題ではない。大衆消費財産業が活況を呈するか、奢侈品の生産規模が膨張するかの違いはあるが。

 貨幣が金本位であった時代には、資本家に集中した富は、金に替え蔵に入れられてしまった。この金は死蔵されることになるから、国富はあるが巷は不況という構図になりやすかった。この様な時代なら、富者に金を蓄積させない事が景気を好転させ、GDPを高める手段になり、所得の再分配は経済を浮揚させる施策となる可能性はある。但しそれで分配した小金持ちは金を死蔵させないというのは真実かどうかは分からない。

現代社会で金の代用を果たしているのは、国債や社債、又は企業や個人の借用証文などの紙切れで、それと等価の現金は需要として開放されるから、19世紀的な経済とは異なる。金は投資の対象でしかなく、国富に占める割合は僅かである。個人の余剰資金も金融機関に預ければ、金融機関は死蔵することなく運用する。つまり資産家に富を集中したからと言って、資産家が富を死蔵する事はない時代なのだ。金持ちにGDPを多く配分しようが、貧乏人に手厚く配分しようが、その金は需要か投資の何れかの用途に使われることになる。これは金融資本主義の一つの側面である。

 貧乏人は生活を切り詰めようとするから、なるべく安い大量生産品を消費しようとする。金持ちは自分の趣味にこだわり、他人と差別化したがるから、特注品や高付加価値品をより多く消費する。商品が国内で生産されればどちらもGDPの増加に寄与し、経済は活性化する。経済がグローバル化していると、安い大量生産品は発展途上国で生産することになり、その分GDPは低下するが、その低下分を補う別の需要を創造できれば、発展途上国の低賃金労働者が生産する安価な大量生産品を購入できる分、豊かな消費を楽しむ事が出来る。

 先進国が失業に苦しむ事なく豊かな消費を享受できれば問題ないが、大量生産品の過半の生産を途上国に依存すると失業問題が発生する。先進国は概ねこの状況に起因するGDPの低下に苦しんでいる。恒常的に新しい需要を創造し続け、その欠陥を補おうとするが、十分な新しい需要量が創造できない状況になっていることを意味する。新しい需要というのは、新しい文化的需要で、エンターテイメントからマンガやスマートフォン、果てはファッションに至るまで各種ある。

 先進国では所得の再分配機能を強化せよという圧力が常にかかっている。左翼政党や頑迷な経済学者だけでなく、彼らに教唆・扇動された多くの市民がそれを主張している。産業界に長く従事した人々はそれに疑念を抱いているが、公正は正義だという主張に逆らうのは並大抵の理論武装では叶わない。

 事を単純に述べれば、先進国の平均的な収入の市民は、それ以下の市民を含め、安価な大量生産品を消費する傾向が高い人だから、発展途上国のGDPを増加させるが、自国のGDPの増加にはあまり貢献しない人達だということになる。それでも流通業者のGDPには貢献しているし、彼らの支払う金銭のかなりの部分が流通業者のGDPになっているのは事実であるが、高額所得者と比べると国内サービスに落とす金銭比率はかなり低いのは間違いないだろう。海外で大量生産し、国内の合理的な集中サービスで廉価な買い物が出来るという状況は、物価が安くなって平均的所得の人の消費を豊かにしてくれるが、失業を発生しやすい仕組みを増加させる。

 失業などの社会不安は、それをチャンスと考える新しいビジネスの勃興を促すから、ある程度は必要悪で、存在する事を憂う必要はないという考え方もありバランスの問題になる。もし望ましくない高失業状態に傾いているのなら、高給取りを増やす事が望ましいことになる。高額所得者は国内のサービス業や特注業界の需要を増やすことになる。その分平均的賃金を得ている人達の所得が減り、彼らの購買力が下がれば、発展途上国で生産される大量生産品の需要は減る。それは発展途上国の輸出量や輸出金額が伸びない事を意味するが、先進国の失業率と貿易収支の赤字額は減少する。

 具体的に言えば、低賃金労働者は殆どの消費財を量販店で購入する。そこで扱われている商品の大半は輸入品である。量販店はより多くの商品を購入してもらいたいから、店員を少なくし、より少ないサービスコストを実現し、客が支払う金銭の輸入コスト比率即ち、海外GDP比率を高めようとする。一方高賃金労働者やその家族は、店員のサービスがより行き届いた店に出掛ける。また、趣味と称して人件費の高い各種のサービスを受けようとする。これらのサービスは概ね国内GDPになる。

 この様な大量生産品の生産抑制は先進国の素材産業の生産量を抑制するが、そもそも先進国で生産する素材、特に発展途上国に輸出する付加価値の低い素材の生産は大したGDP比率ではない。国内需要の総体が高級品志向に少しシフトすれば、その方がサービスコストが掛かり、労働需要は増加する。いずれにしても循環する金銭の総量は変わらないという状況は作れる。但し高額所得者は所得に見合った豊かな国内生活をするという文化風土は必要であるが。

 労働集約的な組み立て加工産業を発展途上国に移転する事は世界経済の底上げとなって皆を豊かにするから、その方向を否定する必要はない。進行速度が過度になると先進国が失業問題で苦しむ事になるから、その調整を如何なる手段でするかという議論をしている。

 貿易収支が悪化し、国内に失業者が溢れている状況では、過度な所得の再分配は好ましくない。アメリカ合衆国の様に、貿易収支の赤字に苦しんでいる国で、しかも失業率が高止まりしている状況で、所得の再分配を強化するのは、愚かな政策だ。イデオロギーに染まった人達に実態が見えないのは古今東西の常態だから、仕方がないのかもしれない。流石の米国でもこの論理を広言するのには抵抗があるのだろうか。それとも適性ではない失業率の増加は一時的だから、基本構造を変える必要はないと考えているのだろうか。

日本も貿易赤字が恒常化し、失業率が高止まりするような事態が長引くのなら、累進課税は緩めなければならない。この平易な論理を展開する学者は何人いるだろうか。言えば左翼や労組、市民団体から感情的に袋叩きに遭うだろうが、それを押して言うのが学者と言われる資格のある人だと思うのだが。

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2012年11月17日 (土)

歴史認識

 韓国人や中国人が「歴史認識」を連発している。元々この言葉は日本語になかったから理解しにくい。同類の言葉に「歴史問題」があるが、これを20年前に言えば、高校生の期末テストの話題だとしか思わなかった。中国や韓国にも昔からあった言葉には見えないが、近年他文明の発想に違和感を持つ中華文明が、自己主張する為に使う言葉らしい。1世紀以上前の中華文化圏では、中華は世界唯一の文明という意識だったから、自分達を特徴付ける言葉は必要なかったからだろう。歴史を科学だと考える人に違和感を持つ人達の思想で、単純な合成語ではないから意味が分かりにくい。中華文明にとって歴史とは族譜の由緒であり、社会秩序の基礎であった長い歴史を持っている事から理解しなければならない。

中華文明圏の人達が男系族譜に強い関心を持つのは、司馬遷の時代以前から引き摺っている習慣である。史記が書かれたのは紀元前100年頃の漢の時代であるが、そこから千五百年以上も遡る殷王朝時代の王族の系譜と事績の伝承を伝えている。司馬遷自身も自分の一族の系譜が1000年近く遡る周の時代の官吏一族から続いていた事を認識していた。中華文明圏の人はそこまですることの異常さを感じないだろう。史記本紀には王族の系譜と事跡がくどいほどに延々と羅列されている。各有力家には王族の系譜と共にその一族の系譜が誇らしく伝承されたであろう。地縁や職縁より血縁を重視する社会の伝統である。日本にもそれにこだわる人が少なからずいるが、社会的コンセンサスは得ていない様に見える。

中国人や韓国人は今日でも族系譜を重視し、族集団単位で共同体意識を持ち、経済活動をし、同族支配企業も多い。一族の誰かが出世すれば、親族がその権力に群がる習性は華人社会の特徴と言われる。その文脈上で歴代韓国大統領の親族の利権犯罪は跡を絶たないし、中国共産党幹部の一族の海外不正蓄財も相当あるらしい。

男系族譜に執着する人達の一族の系譜は他族との関りや政権との関係を事績として織り込み、国家の歴史との間で複雑に絡み合う。それを中華文明では歴史と呼ぶが、西欧的な意味の歴史ではなく、むしろ「由緒」の類縁になる。由緒は権力や秩序に随伴する認識で、登場する人は歴史の内側に居るから、個人の尊厳に関わるもので、客観的に評価するものではない。

由緒は一方的に主張するものであって科学的に解明するものではないから、学術論争は必要なく、むしろしてはならない。日本人でも、由緒と聞けば多少眉唾ものでも一応聞き入れる。有名寺社の由緒とか、徳川氏は源氏の流れだとか、その内側にいる人が主張すれば、根拠が曖昧でも一応認識する。韓国人が、これが韓国の由緒だと主張することを明確な根拠なく否定するのは礼儀知らずになる。由緒は大概不確かで、先に言った者勝ちで、論争になったら言い勝つに限る。韓国起源神話は皆この類に見える。韓国人は歴史と由緒を混同していることは間違いないだろう。中華文明にとって「歴史」と「由緒」は元来同じ意味だった様だ。

韓国人は、自国の美しい由緒を書き上げ、若い韓国人はそれで教育される。日本人と関係ない部分は、日本人は黙っているだろうが、日本を貶めて自国を賞賛している部分には多くの捏造が含まれているから、それを書いた人達は、日本人がそれは嘘だと攻撃するのではないかと恐れている。韓国の知識人は、日本からのクレームを防ぐ手段は、日本人を攻撃して黙らせるのが最も得策である事を知っている。何故なら、米国がそれを占領政策で日本に強制し、協力した日本人学際も韓国人に味方し続けてきたからだ。米国が強制したのは、彼らにとっての悪夢であった太平洋戦争を再現させない為で、そのためには日本の民族主義は徹底的に弾圧しなければならないという認識であり、その手段として日本の民族性を貶める検閲と宣伝を展開したからだ。

「由緒」は部分訂正ができない。訂正があるということは「偽書」ということになる。だから蟻の一穴さえ許してはならない。必然として、防衛意識は鮮烈になり、日本叩きは苛烈にならざるを得ない。知識が豊富な韓国人にとっても、真実の歴史と「由緒」は別物らしい。由緒を否定する歴史には蓋をする必要があると考えている様だ。今日の韓国の歴史教科書を見ればその発想は歴然としている。

現代中国人も由緒と歴史の区分がついていない様に見える。一部の中国人は昔から知的レベルが高いから、由緒を克明に記述伝承していた。それは一見歴史学的記述とも見える。それ故に、中国人はこれが歴史だと現在でも考えているのではなかろうか。殷墟で発掘された甲骨に記述された文が、1500年後に史記に書かれた殷代の王の系譜と部分的に符合していた事は、彼らの確信を強めている筈だ。しかしそれだからと言って、史記に書かれた内容がすべて現代感覚で事実だというわけでもない。徳をもって治めていた王の墓には斬首された多数の死体が殉葬され、かなり血生臭い人狩が実施されていたらしい。族譜には一族の名誉を貶める事は書きにくい。それ故中華文明圏では、歴史の正確さを期すために、歴史は前王朝を滅ぼした王朝が書くことになっていた。中華文明圏の人達は、そこまでして歴史の偏向を抑えようとした事は評価できる。それ故現代の中国人も歴史に関しては西欧人に引けはとらないという自負があるのだろう。現代の西欧的歴史学はその自負を否定できるほどには科学的な学科ではない様だ。

歴史が由緒であり秩序観の根拠だと考える人達にとって、由緒(歴史)は永久不滅のものだから、終わりはない。戦後秩序という由緒(歴史)は未来永劫続くことになるのは、彼らの価値観では当然なのだろう。情緒的な日本人は彼らが過去の日本人を感情的に恨んでいると誤解している。「由緒(歴史)認識」は情緒ではなく権力の認識だから、今の政権が持続する限り永久不滅認識となる。「由緒(歴史)認識」が変わる為には、新しい由緒が書かれなければならない。日韓関係の為に歴史を修正するのであれば、日本が勝者になった後でなければならない。中華文明圏では「敗者に歴史を書く資格はない」というのは今日でも事実であって文学的表現ではない。世界大戦の敗者である日本が、勝者である中国が書いた歴史にクレームを付ける事は中華文明的秩序観に対する挑戦になる。この感覚は西欧でも変わらないが、西欧人は知識の正確さを重んじるから、問答無用と切り捨てるには抵抗があるという程度の違いだろうか。

 「歴史認識」を持ち出す思想は現状を固定する力であり未来への発展を強く束縛するものであることは間違いない。韓国人も骨の髄まで中華文明圏の人であるらしい。キリスト教徒も結構多いと聞くが、キリストの教えは土俗的思想に太刀打ちできないという見本だろうか。

 日本人は昔から中華文明人とは違っていた。中世は中華文明の影響を随分受けていたが、古代日本人は異質な人達だった様だ。日本書紀を始めとする歴史書を、真似事として記述してみたが長続きせず、平安時代中期には止めてしまった。日本書紀を通読してみれば分かるが、到底歴史書とは言えないおそまつな書物である。数世代以前の事績を意識して伝承しないから、結果として忘れてしまうという事態になっていた疑いが濃厚だ。だから基礎データとしての伝承が曖昧で、多数の異説を短期間に作り出していたのだろう。天皇に関する重要な事績でも因果関係が全くたどれない。中華文明圏の人達は侮蔑の心でこれを読んだと思う。中華的史観の何たるかを理解していないのだから。長らく日本の知識人には劣等感があっただろうと思う。文学的に優れた源氏物語や枕草子があっても、漢学者には何の足しにもならない。明治維新後突如として、日本人は未来志向の民族だから、中華的史観に興味がなかっただけだということが証明された。現代日本人も、自分の先祖の事績や系譜を綿々と書き連ね、読み伝える事に意味を感じない。むしろ歴史は専門家の大局的解釈を待ちたいとさえ思う。それが西欧的な科学的歴史学だと信じている。

 世界には、「希望がなければ生きられない」人達と、「自分が何者か分からないと不安」な人達がいる。日本人には「希望がなければ生きられない」と感じる人が多いから、「未来に希望を」、「子供達に何を残すか」、「夢を持てる社会」などの言葉に敏感に反応する。現代日本人は自分の帰属を日本国に求めることが出来るから、それ以上のアイデンティティーは必要としていない。それを持てない中国や韓国の人々が、日本人の残虐性を強調した歴史ドラマを必要とするのは、彼らが世界で活躍した歴史を持たないからであり、惨めな世界史での履歴しか持たない民族である事の証明なのだ。

 日本人が違和感なく取り入れた西欧思想では、発展性を持つ社会が重視され、明日を生き抜く知恵に最大の関心を払う。世界に賞賛される震災時の秩序観も、この未来志向で解くこともできる。恥辱的行為には未来の不評が待っている事を知っているからだ。この価値観は今でも中華文明圏の人には受け入れられないのだろう。だから彼らは、日本人には「歴史認識」がないと断じる。日本人が韓国人に歴史を説いても、彼らは受け入れないだろう。国家の由緒は戦勝国が造るものであり、既に戦勝国気取りで書かれて現存する由緒は韓国人や中国人の内輪で捏造したアイデンティティーなのだから。

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2012年9月29日 (土)

日本、中国、韓国 異なる秩序観と倫理観

 中国、韓国の政府要人やマスコミの言動を聞きWeb情報を見ると日本人の思惑との余りの差に驚く。日本人は自分の価値観が欧米的で世界標準に準じると自認しているから、中国人や韓国人の発言はおかしいと感じる。しかし彼らも自分の価値観で話をしている様に見える。価値観の違いは容易に理解し合えないが、彼我の違いは認識して置く必要がある。

今の中国では伝統的価値観と共産主義的価値観と西欧的合理主義が混在している。個人差があり、激しい移行期でもあり、全体像を覗う事はできないが、多少の理解を得るためには、先ず現代日本人には最も疎遠な古典的中華価値観を考察する事が望ましいと思う。

 現代社会への適性議論は別にして、中華的価値観は長い歴史の中で形成された自己整合性がある。社会秩序に従って人間の外面的な言動が実行される事を重視しそれを礼と呼んだ。多くの民族が混住する中国大陸では、民族間の心的内面の整合性に配慮しても解決は望みにくいから、外面の形式を重視する考え方は一つの完成された価値観になる。それを基本にして哲学や文学が人間の多種の、立場や人格に応じた理想的な類型を追求してきた。
 中華的価値観では人間を細かく類型化し、類型に特徴的で望ましい言動を推奨し、その佳麗さを評価する。心情や思いを重視する日本人には理解しにくいが、価値観の異なる多くの民族が共有できる価値観を創造しなければ帝国の秩序は維持できない。唯物論者が非難する様な力による強制や搾取を忌避する為の一つの合理的な考え方である。言動の外から見える形に基準を設け、特に儀礼での言動を重んじ、日常生活にそれを敷衍すれば、行動の背面にある心情にまでは共通性を求めなくとも、形のある倫理観が創造できる筈である。その為には人間の言動パターンを研究する必要があり、中国人はそれに長けていた様に見える。日本人に親しまれている三国志演義や水滸伝の訳本を読めばそれが分かる。類型化された人物にはそれにふさわしい人格が付与されているが、それは日本人の感覚に近く、中国文化が過去如何に多くの影響を日本に及ぼしたかを実感する。多分日本に伝わった類型化とその人格化は中国では望ましいとされた理想で、現実にはなかなかそれに至れない状況だったと思うが、日本人はそれを受け入れ、人格の意味付けに対する個人の内面的葛藤とか、類型化に反発する個人的心情などに興味が流れ、それを個人の心として表現するのが日本文化ではないかとも思う。基本的倫理観のレベルが高かったからその様になったのだろう。
 日本人がこの中華思想を倫理体系にまで取り入れた典型的な具体例は武士道ではないかと思う。武士道は日本独特のもので中国にはなく、日本的に心的内面に傾斜しているが、武士という人格的類型を作り、その外見的行動様式を規定する発想は中華的ではないかと思う。基礎になった陽明学は知識と行動の統一などを説く哲学であったとしても、それを実践した武士は自らが類型化された武士身分にある者であることを認識し、何を意識しどの様な行動をしなければならないのか、かなり具体的で特徴的な行動形式を決めていた。日頃の行動原理から付き合いの作法、切腹とか殉死とかに至るまで、どのような心構えと立場でどの様な作法(礼法)でするのか、また武士の妻はどの様な人でなければならないか、外見的に規定し、そこから必然的にあるべき精神も規定した。しかし武士以外の人間がその行動様式や精神を持つ事は期待されない。彼らはそれによって江戸時代後期の文化的経済的繁栄を支える平和秩序を形成し、明治維新を実践し、その後庶民の崇敬を集め、新渡戸稲造はその精神を誇らしげに欧米に紹介した。しかし今の日本人には馴染めない感覚で、社会の停滞を招く発想である事も理解している。
 武士は支配階級であったが、明治時代にはその倫理観は庶民に大きな影響を与えた。何処の国でも庶民の倫理観は成文化されず、識字率が上がれば支配階級の倫理観を読み、多くを受け入れるのはありふれた歴史事実だと思うから、革命後庶民の識字率が向上した時点で中華的倫理観も共産主義的倫理観と共に下達されただろう。共産党の指導者には中国の古典に精通した人が多かっただろうし、それを排斥する運動も繰り返されただろうが、唯物論は政治体制の組織化しか述べないから、個人の感情や意欲は伝統的発想で解釈するしかなかった筈である。
 中華的世界では外見的言動の規範意識が強固だから、事情の如何に関わらず、それを乱す事は反社会的行為になる。文明社会の人間関係は階層的な部分を必ず含むから、階層の定義とその根拠の説明は極めて重要な文化要素になる。古い日本的に言えば、自分の役職以外に先祖の血筋と主君の身分を重視することになる。中華帝国では階層の頂点に皇帝が、皇帝の権威の下に身分が生じた。それを共産主義革命思想がどこまで否定したのか、外国人には分からない。所詮は成り上がり者である皇帝の権威は歴史解釈のみから生じるのであるから、歴史は社会秩序の根源になる。当然歴史は科学ではなく、学術論争などしてはならないものである。権力者が決めた歴史に論争を挑むことは社会の秩序に対する挑戦で、反乱行為になった。
 
 もし中国人が「中華民族の偉大な復活」が成し遂げられつつあると考えているのであれば、日本が中国に刃向うことは秩序を乱す原因だから、言い訳など聞く必要はないし、日本を咎める言葉に逆らうのはもっての外と考えることになる。これがどこまで現代風に焼き直されているのか、誰にも分からないのではなかろうか。庶民が政府を突き上げる場合、判断基準は更に曖昧になる。国民的議論が許されないのだから、すり合わせも出来ない。過激なネット右翼の見解を集約しても庶民感覚は算出できないだろう。ただし中華的価値観が濃厚に残っていれば、国家の類型としての大国化を希求し、大国の国民という類型化の中での行動が出来る日を期待する心象は多分に共有しているだろう。

 中華思想は日本的心情主義より西欧的合理主義に近いのではなかろうか。しかし中華思想が外見を重視し、外形の固定的整形に意欲を持つ故に保守的で旧守的であるのに対し、西欧的合理主義は外形も重視するがそれは多分に個人的であり、アイデアや論理的整合性を発展させることに意識が向かう改良主義的である様に見える。いずれも外形を重視することには共通性があるから、これを普遍性と言えば、日本的な内面を重視する考え方は仏教徒だけが味方の少数派になる。世間を重視する日本教徒は悟りを重視する仏教徒とも違うから、心情主義は日本古来の価値観だろうとは思うが。

 中華と西欧は根幹が類似で体系が異なるから水と油の関係だろう。思想は近親憎悪が最も激しく、その例は枚挙に暇が無いほどだ。中華思想は社会の停滞をもたらす点で西欧人から蔑視される。社会は進化すべきか停滞を良しとするかは哲学的な難問であるが、生存競争の観点からは中国人も科学技術は進化を善としている。社会の進化無しに科学技術だけ進化する事は本来あり得ない。発展途上の社会でも科学技術が醜く共存するのは模倣しながら他文明に寄生しているだけで、進化に貢献しているわけではない。進化を善とする前提に立てば、中華思想は西欧的なものに出来るだけ近付くしかないと思われる。中国人は本当に「中華民族の偉大な復興」を望んでいるのだろうか。中国人自身が嘗てそれを憎み、共産革命に未来を託したのだから、西欧化する前の一つの段階と見ていると思いたい。

 日本の明治政府も、四民平等を謳って外形的身分秩序を否定したが、逆に神話教育という歴史教育を行い、不徹底ながらこの事に対して中国的になった。日本にとって幸いな事に、皇室の正当性は2千年も前の歴史だから、中世や近世に関して科学的になることに寛容であった。この点で日本の有利さは大きい。日本の権力が現在も投票と天皇任命という二つの根源形式を持っているのは権力の安定にとって望ましい。他方依然として歴史を政権の正当性に使わざるを得ない共産帝国は未だに日本の明治維新の状況に至れていない。天皇の様な天賦の権威を持たない国民の不幸であろうか。投票製民主主義に移行すればこの問題は解決するが、多民族が混住する中国で、民主主義が民族的対立を調整できるのか疑問である。内乱の危険があるとする主張にも耳を傾けざるを得ないだろう。

 韓国人の価値観は形式的には中国的である。しかし朝鮮半島の住民は新羅の統一以降意図的に中国とは一線を画し続けたから、それには理由があったのだろう。魏志東夷伝に登場する、鮮卑、烏丸、扶余などの民族は中華民族に飲み込まれて消滅してしまった。半島民族が飲み込まれる事を拒んだ理由は不明であるが、拒むための民族性は進化しただろう。今日の韓国や北朝鮮の人々を概観すれば、強力な武力を持たずに中華や周囲の有力民族から独立し続けて来られた民族性を見る事が出来るのではないだろうか。
 恨みを忘れない民族性は、独立を保つために有効であったと推測される。手を出せば子々孫々まで報復され続けるという恐怖は、周囲の異民族に安易な手出しを自重させる最も有効な手段で、日本でも江戸時代まで仇討ちという類似の法体系があった。文化的な微笑の裏にその心を隠す事は有効な平和維持手段だと考えられる。更に言えば、強い相手には這いつくばっても機嫌を取り、相手が弱ったら容赦なく叩くとか、下手な道徳感には惑わされないとかは弱小民族の生き残りには重要な戦術だろう。大陸世界は甘くないのだから権謀術数は道徳よりも先行するという認識があっても不思議に思う必要はないだろう。日本人が容易に価値観を西欧化できないのと同様に韓国人もこの民族性を捨てる事は容易ではないだろうし、もし一旦捨ててしまった後にまた必要になったとしてももう戻らないとすれば、民族の滅亡を招くかもしれない。そんな韓国人は西欧的な強者の倫理観を身に着けようとは思わないのではないだろうか。日本人がその様な忠告をするのは要らぬお節介かもしれない。恨みを日本人に向けてナショナリズムを高めるのは彼らの1500年の伝統精神だと割り切るしかない。願わくばそれは民族内に限定して実施して欲しいと思うが、隣人である以上無傷とはいかないだろう。元来標的なのだから。日本人は毅然とした態度で臨むしかない。清帝国の朝鮮王朝に対する蔑視観もその辺に根拠があるのかもしれない。
 冷静に考えた場合、元々の民族自立の理由が不明になり、民族が独立し続けることが目的になった場合、その目的のために自ら改造した民族的特徴がいかに息苦しくても自立し続ける事を求めるというのは何か宿命的原罪を負って生きているかの様である。

 日本人は長らく島国に隔離されて単一民族の自決の世界で生きてきたから、正義に関して異常な国民的執着があると考えた方が良い様に思う。それは同一の日本人的価値観を共有する人達の内々の正義であって、普遍的なものではないものも含むはずである。特に内面にこだわる感性は日本人独特だと思われる。内面にこだわるとされるキリスト教徒でも日本人には及ばない感じがする。日本人の小説は心の内面に深く切り込む傾向があり、私小説という独特のジャンルまで作り出したが、他人にとっては外見的言辞しか意味を成さない事が多いから、心の状況を以って言い訳にする姿勢は改めた方が良いかも知れない。しかし、誠意とか真心とかを確かめ合って刹那的な行動の逸脱を許し合うのは、理解し合える日本人同志では非常に合理性があり、外形的言辞の合理性を求める考え方より簡便で広い範囲をカバーできる優れた発想だから、多分捨てられないだろう。外形的に現れる言辞は中国人や韓国人よりも柔軟性が高く、容易に西欧的になれるのも事実である。

 以上の議論から、秩序観と倫理観には、少なくとも論理性、外見性、心情性の三つの要素が存在することが認識される。それは西欧的、中華的、日本的と言い替えることが出来る。望むらくはこれらがバランス良く一体化される事だろう。日本人はそれを目指している様に見えるが、どこがバランス点かは明らかではない。脱原発議論を見ていると未だに心情性が強すぎる感がある。しかしバランスを求める運動を阻害する特段の要因は見当らないから、民族自決心を今後も高めていけば良いのだと思われる。
 中国人は未だに外見性の呪縛の中にある。歴史認識を異常に重視する視点からもそれは明らかで、共産党王朝の正当性を主張せねばならない立場が大きな足枷となってそこからの脱却を阻んでいる。
 韓国は既にその足枷が外れているにも拘らず、単なる陋習でしかなくなったその価値観から脱却できない様に見えるが、実はもっと奥底にあるサバイバル志向の民族性が横たわっている様に見える。これは韓国民の自決の中で処理すべきもので、他民族がとやかくいう事ではないだろうが、先ずその自覚を促がす必要はある様に思う。
 西欧人は論理性に格段に優れている。それに劣る日本人が批評するのは難しい。しかし人格障害者が多発し、過度の権利意識から経済危機を招いている今日、彼らなりに見直す必要はあると思われ、外見性や心情性のモラルを高める事で解決方向に向かえる様に見える。人格障害の問題は心情性を重視した個人の役割の道徳化によって個人の日頃の行動の社会貢献性を認知させる必要がありそうだし、ユーロ危機は労働者の外見性即ち分相応に働くという意識が高まって相対的に権利意識が弱まれば、解決方向に向かう気がする。論理性は白人優越意識の支えがあっての様に見える部分も大きく、今後のアジアの成長に対してどの様に対処して行くのかも問われる様な気がする。

 

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2012年9月23日 (日)

訳の分からない国 中国

 共産党の看板が降ろせない中国指導者は「中華民族の偉大な復興」という言葉を使って共産主義の放棄を宣言し、昔の中華帝国に回帰しようとしている様に見える。共産主義と帝国主義は相容れないが、皇帝専制による多民族支配と、一党独裁による民衆の指導は外観が似ている。そこからの中国的帰結が、中国を混乱から統一に導いたのが共産党であるから、共産党政権は中国の正統な政権だと主張する流れの様に見える。
 日本人には違和感がある理屈だが、中国には政権の正当性は歴史的正当性が決めるとする思想が百年前まであった。国内が混乱し政権が正当性を失った場合は天命が尽きたと看做し、新しい指導者が現れ新しい秩序をもたらし、その血筋が国家権力を握り続ける事に正当性があるとする思想で、革命思想と呼ばれる。共産主義革命にその革命という漢字を使う事を規定したのは日本人だろうが、ともかく、革命という現象も共通する。
 王朝の交替は世界中どこでもあるが、極端にそれに拘泥するのが中華的伝統である。それでなければ異民族の征服王朝や匪賊上がりの成り上り者を中華民族の皇帝として頂く事は出来なかっただろう。それ故現政権成立の過程は麗々しく在らねばならないし、民衆の支持を得ている事が重要になる。逆に皇帝として認知されれば世界に類を見ない絶対的専制権力を持つ政権の頂点に立てる。周辺異民族を含む中国全土を統治するには強い専制権力が必要だった事は理解できる。権力が強力であらねばならないという認識に立てば立つほど、権力の由縁に関する疑義は排除されねばならず、虚飾された外形を持つ緻密な論理が必要になるだろう。中国の政権の成立に関する歴史認識はこの文脈で読み解く必要がある。
 日本人は、政権政党は将来展望を競うべきだと考える未来志向だから、この思想は理解しにくいと感じる。江戸時代までの日本人なら理解できる人もいたかもしれないが、遅くとも幕末には幕藩体制では西欧列強に太刀打ちできないと考える人達が主導権を握り、彼らにによって明治維新は実現されたのだから、幕末の日本人も明確に未来志向だった。もっと遡っても、天皇家を滅ぼさずに役職として権力を握った幕府政権には既に未来志向の萌芽があったことになるかもしれない。
 中国人が今でもこの革命思想を持っているのなら、指導的中国人の価値観に投影されている可能性がある。この場合彼らの倫理観は、自分がどの様な姿で歴史に登場し、後世の歴史家に如何に評価されるかということで規定される。この場合私生活への影響は弱いから、共産党幹部の私生活が腐敗に満ちている事と矛盾しない。中国人は人を外面的類型で評価し、個人の内面には深く立ち至らない事もこの傾向を助長する。中国人が面子にこだわるのも、類型的人間として分類された個人の外形的倫理観が毀損する事を嫌う心情に見える。彼らは欧米的な論理的倫理観も日本的な内省的倫理観も持っていないと考えるべきであろう。この流れでは、歴史を改ざんしてまでも共産党を美化することは自分の倫理観を高めることになる。出来るだけ誇大に主張し、目一杯の正当性を主張して言い勝つ事が正義であり倫理の高揚だと考えるからだ。弱小であるにも拘らず小賢しい事を言えば力で正義を示すという姿勢は此処から出てくる。
 日本人は未来をばら色に描いてくれさえすれば、政党結党の経緯に不可思議な離合集散があってもさほど問題にはしないから、共産党政権の成立の歴史にこだわる中国人の考え方は更に理解しにくいと感じる。明治の初め、貧窮に苦しんでいた下級武士が高級官僚になり、彼に威厳がないと指摘する人に某人が、邸宅に住まわせ高級馬車で出迎えて威儀を正せば、威厳など自然に出てくるものだと喝破した人の言が伝えられているが、その様に威厳が備われば徳も生まれ、自然に倫理に敏感になるとする感覚に近いと考えたい。
 共産党が殊更に反日教育をして共産党政権を正当化しているのだから、程度の差はあれ中国人の民族文化なのだろう。しかしこれは統治者の論理であって民衆の文化ではない筈だが、明治時代の日本人が武士の文化に憧れた様に、中国の大衆は昔の支配層の思想を追求しているのかもしれない。思想統制されている今の中国で統一的価値観を探せば、共産主義思想とそれしかないのだろう。共産主義思想には複雑な人間関係を個人的に律する倫理観が存在しないから、伝統的な価値観を復活させるのは仕方のないことであろう。表面的な日常生活では特段の非常識が見えなくとも、人は得体の知れない欲望を抱えているから、影の部分やプライベートな場で、特に非常事態に遭遇して如何なる言辞を弄するかは日本人の想像の外であっても驚くにはあたらない。
 「中華民族の偉大な復興」が共産主義国家としてではないのなら、その辺を中国人はどう考えているのかが不明である。暗黙裡に中華帝国を指していると見える。中華帝国皇帝は革命者の男系血脈で継承された。現在の共産党政権は指導者が定期的に交代するからそれとは異質だが、古いほど尊いと考える伝統的な中国人の理想的な古代の五人の聖帝は有能な者に権力を委譲したから、中国人には違和感がないだろう。政権中枢内部で如何に激しい権力闘争があっても、結論が出たところで中国式の礼に叶った儀式で委譲すれば、正統な政権継承になる。
 政権に正当性があれば「中華民族の偉大な復興」は実現するのだろうか。問題点が多すぎる気がする。ユーラシア大陸の東の果てで崩壊した中華帝国が再生可能とは思えない。中華帝国に戻るのは、心情的には日本が明治維新前に戻るのと一緒である。今の日本人には維新前について想像も出来ないが、幸田露伴や田山花袋の小説を読めば少しは当時の心情が理解できるかもしれない。薄暗い世界を感じるだろう。米大華や日小華の奥に霞んだ街に雑貨が溢れる景色にしか見えない。文化の香りは匂わず、覇権の悪臭が漂う。相変わらず周辺民族を懲罰で懲らしめて従わせるという発想から抜け出ない。
 中国語は情報伝達を目的とした生活臭の無い共通語だと指摘する人が居る。多民族の共通文章語として発達してきたからだ。中華民族と呼ばれる人達は中国語を文語として使う人達で、情報は伝達できても感情は伝えにくいことになる。共産主義には都合の良い言語だろうが、文化を開花させるには不便だろう。日本語は抒情や叙景に優れているから日本人には殊更そう見えるのかもしれない。日本語は論理思考に不向きだから、西欧的論理世界の価値観は日本人より早く西欧語で習得できるかもしれない。しかしそれを中国語で表現出来るかが問題で、言論の自由がない中国でその進化のプロセスを開始しているのかも分からない。

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