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2013年10月11日 (金)

古代的中華 中世的イスラム

  古代とか中世とか言う場合、それがどんな背景で定義されるのかを明らかにしなければならない。どちらも背景があって成立した政治システムであり、思想である。

 古代とは、文字があっても表現力が乏しく、教育制度が未発達で、多くの人民が父祖から生活技術を伝授されていた社会である。そんな古代でも、生活技術も社会制度も進化して行く。進化の末にローマ帝国や漢帝国があり、どちらも空前の発展を遂げた。ある意味優れた制度でもあった。進化の程度に応じて、それを牽引する家系と、進化に取り残される膨大な家系が出る。教育システムが家系に依存する以上、家系の優劣が強調される結果となる。優れた家系が、取り残されつつある家系を指導するのは、社会的正義になる。指導する家系が公徳心を持って、劣る家系を糾合し、全体の優位性を実現できれば、全体が比較としての幸福になる。古代では、指導的家系を貴族と呼んだ。貴族が集まって社会や生産技術の改革に取り組めば、それが貴族制国家になり一層の発展が望まれる。それでも教育は家族単位で実施される。貴族は自分が選ばれた人間である事を自覚し、生産労働から解放された自由時間を使い、自分達が守るべき思想を進化させる。古代の思想が優れている面を持つのは、その様な誇り高い人達が編み出した思想だからである。この思想はあくまでも貴族のためのものであり、一般人民は貴族の指導に従う隷属民であることが前提になる。

 中華世界は春秋戦国時代にこの域に達し、秦が中華世界を統一した時点で、思想的進化が止まった。国家間の競争を止めて思想的独善の世界に留まり、20世紀まで、古代を理想とする国家観を持ち続けた。皇帝専制は、貴族の頂点に皇帝を置くことが基本であり、多民族を帝国主義的に統治する必要上、単一民族とは比較にならない強い権威を、皇帝に付与してきた。つまり、19世紀までの中国は、古代国家だった。そこで発生する思想も、古代国家を維持する方便としての思想だった。

 中世は、そんな古代社会を打ち破り、人民の平等性を打ち出した世界である。イスラム世界では、教育制度が整備され、家系に拠らずに教育が受けられる。人民の平等意識が高まった結果の、革命があったのだろう。統治機構に王がいても、統一的なイスラムの価値観に従わなければならない。貴族的な家系の恣意的な横暴には、歯止めがかかっている。中性のイスラム世界が当時最も先進的であったのは、この社会的システムの優位性が発揮された結果だろう。中世は、個人が貴族に支配される集団の一員という存在から、個人であることを自覚した時代である。

 しかし、中世は、この個人の平等感を実現する為に、強力な宗教を用いた社会だった。日本や西欧を含め、例外なくその方向に走ったのは、古代社会の貴族制と共に、人類の普遍的な法則に見える。

 近代はその宗教性から人々を解放し、一層の個人主義を追及し始めた時代だと言える。宗教は平等をもたらしたが、多くの合理的ではない発想を、人々に強制した。そこからの開放である。近代を先導した西欧では、民族という小単位で感性の統合を図り、宗教的呪縛から開放されようとした。もっと大きな単位になると、不協和音が大きくなり、宗教に頼らなければ統合できないからだ。

 アメリカは、人々に無限の可能性を与える事によって不協和音を緩和し、西欧世界の民族の垣根を崩した。経済的な国力の増進は、その選択が間違っていなかった事を示した。第2次世界大戦後、西欧的な統合という垣根を、もう少し多元的な世界に広げる試みを実施しているが、未だ歴史が浅く、それが一層の発展を期待できることであるのかは分からない。昨今見えるアメリカの国内的不協和音は、この方向の発展に警鐘を鳴らしている様にも見える。必然のない方向性は、停滞と後退の原因にもなり得るからだ。

 脱宗教性を西欧が実現できたのは、キリスト教の不完全性が原因だった。その西欧キリスト教徒が、西欧的な民主主義を世界に広げる為に、キリスト教を世界に布教するという行為は、あまりに矛盾に満ちている。古代国家の域にも達していない民族にしか、受け入れられていないのは、それを示している。

 中華世界では、強引に宗教世界に入ろうとし、共産主義に走った。共産主義も一種の宗教でしかない。個人を解放する事はなく、より強い束縛の世界に閉じ込めようとする思想である。中華ではこの宗教活動と、中華世界への先祖帰りの勢力が争っている。不毛な権力闘争である。民族を分割しない限り、彼らの発展は見込めないだろう。

 イスラム世界では、トルコなどの様に、脱イスラム教を目指す国が現れている。彼らの努力を見守るしかないだろうが、彼らは発展を求めている。もう少し民族主義を取り入れるべきだろう。多くのイスラム世界では、まだ宗教的束縛を求める勢力が強い。イスラム教の完成度が高い事が、却ってそこからの脱却を阻害するというジレンマにある様に見える。

 翻って、日本を見ると、宗教的束縛は戦国時代に開放の方向に走っていた様だ。元々宗教が国家を支配する世界ではなかった。民族性が強かったからだろう。それ故に、西欧的民族主義に根差した民主主義は、抵抗なく受容してきた。キリスト教を受け入れる必要はなかったのは当然である。日本が今後推進すべき道は、多民族国家が共存する多元的世界だろう。民主主義の発展を望むのであれば、必然的方向になる。民族的交歓は望ましいが、民族的混濁は避けるべきである。左翼的世界国家主義は、あまりにも机上の空論的要素が強いから、避けるべきである。

 一部のマスコミや知識人が、中華思想の強い影響がある思考方法を、進歩的だと間違えて拡散している。気を付けるべきだろう。

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