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2013年10月の記事

2013年10月27日 (日)

良識と正義

 良識は長い経験の中で培われた共通認識で、正義は複雑化した社会を維持矯正する大義になる。良識は個別民族が土俗的に持っている、望ましいと感じる秩序感だが、正義は一部の秀才が机上で作った理想という感覚がある。参加者が多い世界の事だから、皆が深く関与して決める類の事ではない。

良識は発展途上の社会を形成している民族も持っている。過去何千年も、その民族を存続させてきた理由でもあるから、発展途上の民族の良識にも、聞くべきものがあるはずだ。しかし社会の発展が途上であれば、正義については議論の余地がある。西欧化が進みやすい領域になる。

 常識的に考えれば、正義と良識は共存するのが好ましいが、先進国であっても一部に齟齬がある。それは常の事であるが、極端な考え方の持ち主の中には、共存を否定する人達が多い。典型例が共産主義だろう。世界国家を目指す故に、各民族の良識を否定する。しかし共産主義者にあるのは正義だけで、良識という概念が希薄だ。必要ないと考えている節が見える。社会主義者も同様の傾向がある。

 人間は感情の動物だから、それと社会秩序を調和させる事は、結構難しい。良識はそれに対して大きな役割を果たしてきた。良識の存在理由はそれであると言っても過言ではないだろう。従って、正義のない良識は世界各地にあるだろうが、良識のない正義が通用する世界はあり得ない。それを無理に強行すると、不都合が生じる。その好例が、文化大革命であり、カンボジアのキリングフィールドだった。正義が暴走し、良識がそれを止められなかった。

 西欧の良識は、世界で最も完成度が高い。それ故に高度な文明を育んできたが、2度も世界大戦を行なうほどに不完全なものでもある。その他の国々の良識は更に劣っているのだろう。良識は多分に土俗的なもので、容易に比較はできないから、個別の比較論は難しい。各国の世論には、欧米化と土俗回帰のせめぎ合いがあるだろう。日本も例外ではない。内容の良し悪しより、拠って立つ人の政治的・経済的利害関係で論争が進むから、見えにくいのも各国共通の事情だろう。

 いずれにしても、良識のない正義は危険極まりないから、極力避けねばならない。民族文化をおろそかにしてはいけないということである。社会が複雑化すると、社会派が実権を握り、民族派は旗色が悪くなりやすい。発展途上国ではその傾向が顕著だ。特に大国化して正義と良識を共に発展させて来たと言う自負があると、話がややこしくなる。共産中国と台湾にその顕著な実例がある。台湾には元々社会的正義は希薄だったから、日本の正義を受け入れた人達が、一時蒋介石政権の中華に戻そうとされながら、また日本の正義に戻って自信を深めている。中国は大国のプライドとしてのブレーキと、正義を推進する共産党のアクセルで、文化大革命を経てもまだ良識も正義も方向性が見えない。今後も当分混乱が続きそうで、国民の良識は劣化し続けている。中国韓国の移民や旅行者の良識のなさには世界が唖然としているが、それでも何とも出来ない。

 アメリカでも、民族的良識を持っているのか分からないオバマが大統領になった。民主党はアメリカの社会主義者だから、正義さえあれば支持される様だ。危険な方向に行かなければ良いがと危惧せざるを得ない。

 日本では、社会党や共産党の、正義だけで良識のない見解は、支持されていない。民主党程度なら良いかもしれないという期待も大きく裏切られた。やはり良識のない人々には何も任せられないという考えが戻っている。あくまでも正義にこだわる人達は、共産党支持に回った様だ。共産党という組織の実態を知らないからだろう。組織の幹部になるためには、良識を捨てて彼らの独善的な正義を崇拝しなければ、草の根的な末端でも、幹部になれない組織である。暴走すればカンボジアの大虐殺になるリスクがある組織だ。言葉だけで判断する危険を承知する必要がある。

 良識は学校教育では育たない。個人的人間関係から育まれる。それは必ずしも親子ではないが、親が良識を大切にする姿勢を示さなければ、大人になってからでは矯正されにくいのは確かだろう。発展途上の国であっても、親が良識という概念を教えさえすれば、子供は必要に応じて考えを変えることが出来る。先進国でも、親や教師が良識を否定する教育を行なえば、社会が荒んでくる。戦後の教育を受けた第一世代は、社会に良識があったから矯正されたが、第2世代になると良識の意識が薄れてきた。日本の社会の本格的な変質は、第3世代に持ち込まれた。現在若手と言われる人達になる。彼らは保守回帰の傾向を見せている。日本の良識は健全だった様だ。

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2013年10月21日 (月)

「恨みを忘れない文化」に対する誤解

韓国人が恨みを忘れないのは、情感に根差しているのではない事が分かっても、その由来を説明する説に出会わない。歴史的な解釈が出来ないからだ。韓国人の恨みは、それが長い歴史を積んだ正義なのだと考えれば、納得できる。

何時の時代にも、隣国、隣郷、隣人との紛争はある。武力や腕力を使う場合には、正義が必要になる。大義名分と言っても良いだろう。上位である国が方針を決めれば、民はそれに従う。価値観は、上意下達的な性格が強いからだ。

日本について言えば、天皇の任命という公の認識があった。明治維新では錦の御旗と言われた。長州の幕府に対する恨みは、関が原以後続いていたと言っても、日本人は動かない。それ故、大義名分に関する日本人の意識は、公的な性格を帯び、国家統治には冷静になりやすい。

西欧も様子が似ていた。教会やキリスト教が上位概念にあり、私怨で動くのは大儀がないと言う意識は、昔からあったのだろう。日本と状況が似ている。

中国にはその手の公が無い状況が、秦の国家統一以後続いた。大義名分を皇帝の絶対性に求め、それが不十分だと分かると、身分制を作り、序列秩序で固めた。秦以前の春秋戦国時代には、周王朝という大義名分と、諸侯の統治という制度があり、公権力と実力者という大儀があった。だから春秋戦国時代は、百花繚乱と言われる文化の隆盛を見たが、それ以後文化は劣化の一途を辿った。中国では覇者を評価しないのは、司馬遷の歴史観から始まる。

朝鮮は長らく中華の柵封国だったから、国王が大義名分を唱え、隣国と対峙する事が許されなかった。だからといって隣の民族や国と、紛争がなかったわけではない。争いを処理する為には、彼らの大義名分が必要になる。そのために使える一番有効なカードが、恨みだった。だから、日頃から恨みは蓄積しておかなければならない。できれば国民皆が蓄積している事が望ましい。

お上がその価値観で動けば、民衆が隣人と争う際にも、同じ価値観を使う。逆上して暴力を振るっても、統一的な正義が育ちにくい社会だから、昔の恨みを持ち出して大義名分にする。かくして朝鮮半島の正義は、恨みに基づくものになったと考えられる。正義感は人間の行動には不可欠だから、空気の様に当然と感じる感覚を根底にしなければならない。

日本では公徳心を教えることが、正義の要素だと考えている。公権力が長い間支配してきた賜物である。公権力とは天皇に任命された権力という意味で、根源の公は天皇だった。西欧のキリスト教も同様の働きをしたのだろう。この社会での正義は、現在我々が求める正義と同じである。

公権力がなかった中華では、教育の基本は序列意識の涵養だった。それが否定された現代の中国では、子孫に残すべき文化がない。それが中国の混乱の根本原因だと思われる。結局中華思想に戻りたくてうずうずしている。共産党幹部の腐敗に対する寛容さは、中華の伝統だろう。

韓国は、恨みと云う正義を否定できないどころか、大統領が率先して使っている。教育にも恨みの思想が充満している。反日は、「恨」文化を教育する先にある必然の世界になる。韓国では教育が普及しない方が良いとさえ見える。文化教育をすればするほど、この異常な世界へ押し込む作用が働くからだ。民族文化には、望ましいものと、おぞましいものがある。しかし教育は結局民族文化の継承でしかない。

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2013年10月11日 (金)

古代的中華 中世的イスラム

  古代とか中世とか言う場合、それがどんな背景で定義されるのかを明らかにしなければならない。どちらも背景があって成立した政治システムであり、思想である。

 古代とは、文字があっても表現力が乏しく、教育制度が未発達で、多くの人民が父祖から生活技術を伝授されていた社会である。そんな古代でも、生活技術も社会制度も進化して行く。進化の末にローマ帝国や漢帝国があり、どちらも空前の発展を遂げた。ある意味優れた制度でもあった。進化の程度に応じて、それを牽引する家系と、進化に取り残される膨大な家系が出る。教育システムが家系に依存する以上、家系の優劣が強調される結果となる。優れた家系が、取り残されつつある家系を指導するのは、社会的正義になる。指導する家系が公徳心を持って、劣る家系を糾合し、全体の優位性を実現できれば、全体が比較としての幸福になる。古代では、指導的家系を貴族と呼んだ。貴族が集まって社会や生産技術の改革に取り組めば、それが貴族制国家になり一層の発展が望まれる。それでも教育は家族単位で実施される。貴族は自分が選ばれた人間である事を自覚し、生産労働から解放された自由時間を使い、自分達が守るべき思想を進化させる。古代の思想が優れている面を持つのは、その様な誇り高い人達が編み出した思想だからである。この思想はあくまでも貴族のためのものであり、一般人民は貴族の指導に従う隷属民であることが前提になる。

 中華世界は春秋戦国時代にこの域に達し、秦が中華世界を統一した時点で、思想的進化が止まった。国家間の競争を止めて思想的独善の世界に留まり、20世紀まで、古代を理想とする国家観を持ち続けた。皇帝専制は、貴族の頂点に皇帝を置くことが基本であり、多民族を帝国主義的に統治する必要上、単一民族とは比較にならない強い権威を、皇帝に付与してきた。つまり、19世紀までの中国は、古代国家だった。そこで発生する思想も、古代国家を維持する方便としての思想だった。

 中世は、そんな古代社会を打ち破り、人民の平等性を打ち出した世界である。イスラム世界では、教育制度が整備され、家系に拠らずに教育が受けられる。人民の平等意識が高まった結果の、革命があったのだろう。統治機構に王がいても、統一的なイスラムの価値観に従わなければならない。貴族的な家系の恣意的な横暴には、歯止めがかかっている。中性のイスラム世界が当時最も先進的であったのは、この社会的システムの優位性が発揮された結果だろう。中世は、個人が貴族に支配される集団の一員という存在から、個人であることを自覚した時代である。

 しかし、中世は、この個人の平等感を実現する為に、強力な宗教を用いた社会だった。日本や西欧を含め、例外なくその方向に走ったのは、古代社会の貴族制と共に、人類の普遍的な法則に見える。

 近代はその宗教性から人々を解放し、一層の個人主義を追及し始めた時代だと言える。宗教は平等をもたらしたが、多くの合理的ではない発想を、人々に強制した。そこからの開放である。近代を先導した西欧では、民族という小単位で感性の統合を図り、宗教的呪縛から開放されようとした。もっと大きな単位になると、不協和音が大きくなり、宗教に頼らなければ統合できないからだ。

 アメリカは、人々に無限の可能性を与える事によって不協和音を緩和し、西欧世界の民族の垣根を崩した。経済的な国力の増進は、その選択が間違っていなかった事を示した。第2次世界大戦後、西欧的な統合という垣根を、もう少し多元的な世界に広げる試みを実施しているが、未だ歴史が浅く、それが一層の発展を期待できることであるのかは分からない。昨今見えるアメリカの国内的不協和音は、この方向の発展に警鐘を鳴らしている様にも見える。必然のない方向性は、停滞と後退の原因にもなり得るからだ。

 脱宗教性を西欧が実現できたのは、キリスト教の不完全性が原因だった。その西欧キリスト教徒が、西欧的な民主主義を世界に広げる為に、キリスト教を世界に布教するという行為は、あまりに矛盾に満ちている。古代国家の域にも達していない民族にしか、受け入れられていないのは、それを示している。

 中華世界では、強引に宗教世界に入ろうとし、共産主義に走った。共産主義も一種の宗教でしかない。個人を解放する事はなく、より強い束縛の世界に閉じ込めようとする思想である。中華ではこの宗教活動と、中華世界への先祖帰りの勢力が争っている。不毛な権力闘争である。民族を分割しない限り、彼らの発展は見込めないだろう。

 イスラム世界では、トルコなどの様に、脱イスラム教を目指す国が現れている。彼らの努力を見守るしかないだろうが、彼らは発展を求めている。もう少し民族主義を取り入れるべきだろう。多くのイスラム世界では、まだ宗教的束縛を求める勢力が強い。イスラム教の完成度が高い事が、却ってそこからの脱却を阻害するというジレンマにある様に見える。

 翻って、日本を見ると、宗教的束縛は戦国時代に開放の方向に走っていた様だ。元々宗教が国家を支配する世界ではなかった。民族性が強かったからだろう。それ故に、西欧的民族主義に根差した民主主義は、抵抗なく受容してきた。キリスト教を受け入れる必要はなかったのは当然である。日本が今後推進すべき道は、多民族国家が共存する多元的世界だろう。民主主義の発展を望むのであれば、必然的方向になる。民族的交歓は望ましいが、民族的混濁は避けるべきである。左翼的世界国家主義は、あまりにも机上の空論的要素が強いから、避けるべきである。

 一部のマスコミや知識人が、中華思想の強い影響がある思考方法を、進歩的だと間違えて拡散している。気を付けるべきだろう。

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