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2013年6月の記事

2013年6月13日 (木)

ノンフィクションの嘘

誰も公の場では本音を話さない。それを纏めて解説しても本当の話にはならない。それは誰にも分かっている。しかしこのジャンルが生き残る為には何らかの方策が必要だ。一つの方策にイデオロギー傾斜がある。イデオロギーは政治用語だが、応用分野は他にも沢山ある。特段の根拠も無く人々の情感を煽って賛同が得られ、集団的情宣活動が軌道に乗れば、それはイデオロギーになる。イデオロギーとは机上の空論の事で、英語でアイデアと言えば、知的であろうと愚劣であろうと、頭脳のひらめきから創出される概念の総称であり、そのアイデアの集成がアイデア・オロジー即ちイデオロギーである。

誰かが何かを発言した場合、イデオロギーのフィルターを通して解釈する事が許されている。考えてみれば不思議な現象だが、マスコミが記事を売るために必要な行為とされて多用し、批判には徹底的に噛み付いて守る。元々人間は自分が持っている常識のフィルターを通して物事を判断するが、本来それは個人の所作で、情報を販売するべきマスコミがそれを行なった後で販売するのは好ましくないが、科学技術情報でもない限り、マスコミには生の情報を扱う能力がない。世の中はそんなものだと言ってしまえばその通りで、ノンフィクションもそんなものになる。

人々の常識感が高まると、ノンフィクションの嘘が鼻に付く様になる。フィクションの方が分かりやすいのではないかと感じる事になる。フィクションはあくまでも創作だから、誰かが本当に話したものではないが、本音というジャンルに切り込む事ができる。それ故別の意味で傷つく人も現れるが、ノンフィクションより酷いとも言えない。

本音フィクションにも色々ある。「人の不満は物質では埋まらない。」「社会が豊かになるほど落ちこぼれは増える。」「格差社会は豊かな社会である証拠。」「貧しい国に人権は要らず、豊かな国に平等はない。」とかは、フィクションの方が説明しやすい。難しい統計を多用しても一般人には分かりにくいからだ。現代人は自分の知性を過信している様に見える。

最近の情勢をフィクションで解説してみたい。フィクションだから何を題材にしているのかは言えない。

先ず、場面設定から始める。

丘の上に住宅街があり、取り巻く川が蛇行して突き出す場所に2軒の住宅がある。北側に北島さんが、南側に南部さんが暮している。河の対岸の海に挟まれた土地に日野さんが暮している。北島さんは左翼政党の活動員で、南部さんは海外の会社の販売代理店を個人で行ないながら、その会社の依頼で北島さんの活動を牽制している。日野さんは漁民だが、漁船を作ったりその船で行商したりして小金を持っているので、立派な家に住み息子はささやかな事業を営んでいる。南部さんと日野さんの家の間の川には粗末な橋が掛けられている。南部さんは日野さんの家の出入りは、昔からすべて掴んでいると思っている。日野さんの家の家具は、この橋の上を運んだものに限られている筈だと信じている。だから日野さんの家にはTVがなく、ラジオだけで暮していると確信している。本当は、日野さんの家の居間は豪華な家具と電化製品で溢れかえっている。これは日野さんが河口の対岸にある街の百貨店で買って船で運んできたものだが、うかつにも南部さんは船の運送力を全く評価していないから、丘の上のスーパーに並べられている安物の家具や電化製品を使いながら、優越感に浸っている。

以上は過去1万年の歴史をフィクションで簡単に描いたものだが、歴史論争しながらあれこれ議論しなくとも、場面は容易に設定できる。フィクションなのだから事実誤認の疑いがあるとかの言い掛かりを付けられる心配も無い。歴史学者もこの様な例えで歴史を議論すれば良いのにと思う。これができるほどに良く分かっていないらしい振りをしているが、実は発禁圧力があるらしい。

この場面設定で「嫉妬と妄想は身を滅ぼす」とか「操作される虚飾的家族」とかのタイトルで長編小説も短編小説も書けるのであるが、誰かが始めると、対抗心むき出しで下らない本を書く人も出るだろう。それで良いのではないかと思われる。日本人は尤もらしい内容を嗅ぎ分ける文学的センスを持っている。それを持たない民族は自滅を早めるだろう。現代小説はその様な事態を避けるために、悲劇の主人公かファンタジーしか追い求めないことにしている様に見える。小説家が小説を貶めているかの様だ。

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2013年6月 8日 (土)

予知能力

 予知能力とは現下の情勢を分析し、その条件下で将来起こり得る事を可能性として把握する能力の事である。予知能力は誰にでもあるが、能力差は大きい。これは総ての能力に共通する話だ。

 予知能力のある人が、その能力の無い人の言動を見た場合概ね二通りの反応を示す。①能力の高い人の特徴として、この手の能力は誰にもあるものだという直感を持っているから、自分とは違う予知をする人がいるという理由で、自分の想定だけでなく能力も疑う。予知能力の高い人は多くの可能性を想定できるから、それ故却って陥り易い誤謬であるが、そのために自分が混乱してしまう。②能力がそれほど高くない人の特徴として、世間にはこの手の能力に欠けている人がいるから、馬鹿なことを言っている人間を又一人発見してしまったという感慨を持ち、以後その人の評価を下げる。

 予知能力が無い人が、予知能力のある人の言辞を聞くとやはり二つの反応に分かれる。①劣等感を持ってその人に接するが、その感情を持ち続けることに抵抗感があるから、以後その人に近付くことを避けたがる。これと逆の反応をする人も居る。その人を尊敬し、主従関係の様な人間関係になる事を厭わない人も居る。自由な人間関係では希だが、組織内での生き残り競争が激しければ、その様な関係を望む人も多い。②劣等感を抱く理由が分からないから、相手を神経質な人だと判断する。場合によっては偏執者ではないかとさえ思う。自分が他の能力に優れていると自負する人に多く、相手を侮蔑する程度も甚だしいことになる。

 予知能力に優れている人は、当然ながら自分の感性に忠実に生きようとする。それは意思で決めるのではなく、そうせざるを得ない必然からだ。予知能力に劣る人は、世間の評価を気にすると同時に、自分の優れている能力でそれを補おうとする。これも必然だろう。しかし長い人生の中で、やはり自分はこの能力には恵まれていないということは何となく分かる。多くの人はそれを自覚して引きこもり勝ちになったり粗暴になったりするだろうが、同じくらいの数の人はあくまでも自信を持って生きたいと願う。

 あくまで自信を持って生きたいと願う人にも色々なパターンがある。その総てを網羅する事はできないが、二つの典型が知られている。自信を持って生きる手段として、身近な人に常に働きかけ、自分の正当性を認めさせようとする行動を取る人と、例えば自分の発想の論理性とか他人を説得する言語能力などを高め、表現力や発信力でカバーしようとする人がいる。

 身近な人に常に働きかける行為は、成功して受け入れられれば善人と評価され、失敗して開き直れば人格障害者と看做される。今韓国は国民を挙げてこの方向に向かっている様に見えるから、この手の人格障害者は必ずしも先天性の異常に起因する問題ではない事が分かる。

自分の発想の論理性や説得能力を高める行為は、学校の教育の主眼であるから、現代人はこの能力に長けていて、能力の序列も明らかになっている。しかし、例えば東大を卒業してもその言動がおかしいのは、彼らの予知能力の欠如ではないかと思われる人が結構居る。人間社会は複雑だから論理だけではなかなか測れず、予知能力のある人は彼らの論理性に対し、容易に如何わしさを感じる。これは平行線の世界だが、現実にはこの平行線が蔓延している。

予知能力は判定が困難であるほどに不可思議な能力ではない。大別すると、自然界に関する予知能力と、対人関係に関する予知能力に分類される。偏見があるかもしれないが、男性は自然界に関する予知能力に優れ、女性は対人関係に関する予知能力に優れている様に見える。太古の昔の長い期間、男性は狩猟という変化に富んだ自然界を相手にする行為の中で、この能力を遺伝的に身に付けたのではないかと推測される。女性はそんな男性の庇護を受けながら出産育児という行動半径が限定される世界で生存競争してきたから、やはり遺伝的に対人関係能力を身に付けたのだと思われる。遺伝的という表現は、優勝劣敗の自然淘汰を受けている事を意味する。男女間の能力にそれほどの違いはないかもしれないし、実は大きな差があるかもしれないが、実は誰にも分からない。フェミニズムの残渣がこの手の実験の実施を阻んでいるからで、予知能力という大きなジャンルの話も進展を阻んでいる様に見える。どうも違いがありそうだから。

予知能力を判定する試験を行なう事は、誰でも明日からできるほど容易ではないが、議論を重ねればそれほど難しい事だとは思われない。しかし誰もそれを提案しようとはしていない。現在のエリート制度の根幹に関わるから、現代のエリート集団からそれが提言されないという側面もあるのではないかと思われる。現在の大学教授やエコノミストがその資格を有さないという判定が為されるケースが続出する恐れがある。元々補完能力であった論理性や言語能力に優れた人は、予知能力の欠如の自覚の中で努力した人が多そうだし、予知能力が欠如していたが故に、この能力を高める事が出来たのではないかと思われる人も多いのが実態でもあるからだ。

東大も入試制度改革の必要性を痛感しているらしいが、どこまで踏込めるのか怪しそうだ。しかし、政治家に予知能力が欠如していると国民は困難を感じる機会を多く持たねばならないことになる。予知能力の高い者だけの集団は、合意も早く、行動的になれる。中に予知能力の低い者が混ざると、彼らは徒に事態をややこしくする方向に持っていこうとする。彼らの存在感をアピールするためという側面があるが、もっと重要な事は、予知能力の無い者は沢山のケースを掲げて貰って詳しい分析や予測を聞きだし、自分の能力を補完して貰わなければその集団の中での自己の位置を喪失するからだ。予知能力が無くても論理を理解できる人にも、進行する状況が理解できなければ自分の地位が危うくなるという程度の事は分かる。劃して組織内のミーティングが延々と果てしなく実施されるという現在の実態が炙り出される。

其処までしても、予知能力の無い人は失言する。この失言は、嘗ての保守的政治家の失言を指すのではなく、民主党の政治家の無定見な発言の様な類の失言を意味する。つまり、本質的な状況を理解しているかどうかの問題なのだ。この違いが直感的に分かる人は予知能力があると言えよう。

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