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2013年3月の記事

2013年3月23日 (土)

倭人の歴史観(歴史を文学にする民族)

 倭人伝と日本書紀は違う民族を記述している様に見えるほどに異なっている。これは日本書紀が倭人の歴史を記述していないことを示唆する。倭人伝は断片的で、そこから倭人像を描くことは難しいが、日本書紀との違いを検証し、日本書紀を書いた奈良時代の日本人像を検討する。倭人と日本人は異なる側面を持っている様だが、基本的には同じ民族だろう。

 百済と新羅の成立は日本書紀が書かれた奈良時代から400年近く遡る。日本書紀では百済や新羅の成立には触れず、日本が成立した時点で既に存在している国として記述されている。百済に対しては親近感が、新羅に対しては嫌悪感が一貫して示されている。新羅を建国したのは魏志倭人に書かれた弁韓人と辰韓人で、弁韓人は男女共に倭人の習俗である入れ墨をし、半島一番の文明人だった。彼らは漢系の言語を捨てて倭人語の文法を使い、倭人の習俗も一部受け入れたから、建国当初は百済より親倭的だった筈だ。倭人は当初百済と新羅を高句麗南下の楯と考え、彼らの国家存続の為に軍事援助し、時に中核軍として戦ったが、倭人は中華との間の緩衝国の存在を望んだだけで、海外領土を拡張する意欲は持っていなかった。韓・漢・濊民族が混住していた半島に、半島民族が育ったのは倭人の影響下での出来事だと言えるだろう。新羅に対する倭人の嫌悪感が高まったのは、半島が三国の均衡状態になって新羅が強勢化し独立色を強め、百済・高句麗連合に対抗して唐に接近した7世紀以降の事だろう。日本書紀はその意識を背景に書かれ、国際関係の変遷という歴史を無視した文学的書籍になっている。

日本書紀の視点は先ず日本の形成から始まり、天孫降臨、神武東遷、9代の天皇を経て10代崇神天皇から漸く海外の国が登場し始める。

10代崇神天皇7年、大物主命が夢に現れ「大田田根子に吾を祀らせれば、国内は平らぎ、海外の国も自ら降伏するだろう。」と告げた。

10年、四道(北陸、東海、西海、丹波)将軍が国内征討に出発し翌年地方の敵を平らげた。

65年、任那国が朝貢してきた。

11代垂仁天皇2年、任那の使者が帰国する折、天皇の下賜品を新羅人が奪った。

3年、新羅王子、天日槍が来た。

12代景行天皇12年~19年九州征討

27年 日本武尊 熊襲征伐

40年 日本武尊 東国征伐

14代仲哀天皇/神功皇后 9年 熊襲征討の途上で天皇が崩御した。

神功皇后は海の彼方にある未知の宝の国を目指して船出し新羅に着き、新羅王は戦わずに降伏した。高麗、百済も戦うことなく陣門に降り朝貢を始めた。

39年 魏志倭人伝によると 西暦239年倭の女王は大夫難斗米を洛陽に行かせた。

40年 魏志によれば中国の使者が詔書と印綬をもって倭国に行った。

43年 魏志によれば倭王は使者を送った。

 <百済も宝の多い国だと文学的な表現で記述されている。>

 新羅は嘘が多く、百済の貢物を奪い新羅の貢物と偽って献上したりする。

49年 新羅を征討した。百済は誠意を示した。

52年 百済は七枝刀などの重宝を奉った。

62年 新羅が朝貢しないので、新羅を討った。

66年 晋の文書に西暦266年に倭の女王が貢献したと記している。

 魏志倭人伝を引用し、暗に卑弥呼・台与は神功皇后の事だと主張している。魏志の些細な誤りを訂正し、中国文献を読み込んでいる事を示し、主張の確からしさを強調している。しかし魏志を読めば卑弥呼の時代(~248年)には百済も新羅もまだ建国されていないことも明らかで、日本書紀の嘘は簡単に露見する。

百済が中国の歴史書に現れるのは、東晋が百済王を鎮東将軍楽浪太守に任命した西暦372年になる。好太王碑文では、高句麗は百残(百済のこと?)と新羅を服属させていたが、391年倭が海を越えて百済と新羅を服属させたから、戦ったとしている。好太王は帯方でも倭人と戦い、当時の高句麗の戦う相手は専ら倭人や任那人だった。

百済は416年に宋から百済王の称号を授与されたが、所在は晋平郡晋平県(渤海湾西岸)で、当時百済は帯方郡と晋平郡に分かれていた。中間に楽浪・遼東郡を占拠した高句麗を挟むが、支配者が徴税と徴発権を主張するに過ぎない時代の人の移動は可能だったと思われる。しかし軍事的には不安定だから、5世紀頃に渤海湾西岸の領土は喪失した様だ。

倭が半島に武力干渉し始めた4世紀末は、新羅も百済も倭の後ろ盾を得て共通の敵である高句麗と対峙していた。高句麗の南下圧力が弱まると百済と高句麗は接近し、新羅はその連合に敵対して唐と同盟し、百済と高句麗を滅ぼした。倭人はこの状況に至って伝統政策の破綻・倭政権の危機を強く感じた。大義名分のない手段で権謀術数を駆使して半島を統一した新羅に、日本人は好感を持たなかった。日本書紀では、白村江の戦い、百済・高句麗の滅亡の悲劇を語り、新羅を一層悪役にする。しかしその後も日本は新羅と使節の交歓を続けている。滅んだ百済・高句麗に同情し、勝ち残った新羅に反感を持つという構図は、義経記に似ている。

新羅を蔑視し始めたのが7世紀以降であれば、日本書紀の著者にとっては百年程しか遡らない海外認識だから、日本書紀は貧弱な資料に基づいて書かれたことになる。倭人は既に対外交渉の記録を持っていた筈だが、それは日本政権に提供されなかった様だ。有力者の一部が権力に迎合して資料を提供する事があっても良さそうだが、ここまで倭人の事績の記録が隠匿されたのは、海洋倭人の守秘義務が列島内でも守られていたからだろう。世間を騙すには先ず身内からという意識が徹底されていたから、何百年も中国人に日本列島の地理認識を偽り続けられたと言えそうだ。それでも著名な天皇の事績は部分的に取り込んでいる可能性もあるから、最も可能性の高い雄略天皇の事績を検討してみる。日本書紀での雄略天皇の対外的事績は、以下。

雄略6年 呉国が遣使して来た。

7年 百済から工人を献上させた。

8年 呉国に遣使した。

この年 新羅王は倭から離反し高句麗と修好しようとしたが、高句麗の陰謀を知って、任那に助けを求めた。日本府軍は高句麗軍を迎え撃ち、激戦の末に撃退した。

9年 反抗的な新羅を討伐した。

10年 呉国から使いが戻った。

12年 呉国に遣使した。

14年 呉国への遣使が、漢織・呉織の工人及び裁縫士の姉妹を伴って帰国した。

20年 高句麗が百済と戦い百済を壊滅した。任那の熊津を与え百済を再興させた。

23年 百済王が死んだので、五人の王子の内の一人に筑紫国の兵500人を付けて国王にした。

この年、兵船を率いて高句麗を撃った。

 好太王碑文によれば、

391年 倭が海を渡って来て百済、新羅を破り、臣民にしてしまった。

399年 百済は倭と通じたので好太王は根拠地である集安から平譲に移動した。新羅が倭人に占拠され救援を求めてきた。

400年 5万の軍を率いて倭・安羅と戦った。

404年 倭が帯方に侵入したのでこれを討って大敗させた。

年期は合致しないが、熊津を京城に換えれば、起こった事は奇妙に一致し、雄略が好太王の南下政策と対峙した倭王に見える。但し、日本書紀の作者が、当時入手が容易だった好太王碑文の写しを参考に、雄略の事績を作文した疑いも濃厚である。

倭の5王が南朝に朝貢した記録がある。雄略天皇は宋書に記された最後の倭王「武」だとされる。武は「祖先は自ら甲冑を着け、東の毛人55国を征服し、西の衆夷66国を服属させ、海の北の95国を平定した。」と申告し、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓の諸軍事・安東大将軍倭国王に任命された。しかし倭王武が雄略の場合、中国の文献と日本書紀とは時期が合致しない。

宋の記録では、

413年 賛 朝貢 (東晋)

421年 賛 朝貢 (宋)

425年 賛 朝貢 (宋)

年不詳 珍 朝貢 倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓諸軍事・安東大将軍倭国王の称号を要求。

安東将軍倭国王に任命。臣下13人にも将軍職官位を要求し叙任された。

443年 済 朝貢 

451年 済を倭・百済・新羅・加羅・秦韓・慕韓諸軍事安東将軍倭国王に任命、ならびに上奏された23人を将軍や郡長官に任命。

年不詳 興 朝貢

462年 興を安東大将軍倭国王に任命。

年不詳 武は倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓諸軍事・安東大将軍倭国王を自称。

478年 武 朝貢 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓諸軍事・安東大将軍倭国王に任命(宋)

479年 武 朝貢 鎮東大将軍倭国王(斉)

502年 武 朝貢 征東大将軍倭国王(梁)

日本書紀を元に編年された歴代天皇の推定在位は以下になる。

15代 応神天皇270-310 年   16代 仁徳天皇313-399 年   17代 履中天皇400-405

18代 反正天皇406-410 年   19代 允恭天皇412-453 年   20代 安康天皇453-456

21代 雄略天皇456-479 年   22代 清寧天皇480-484 年   23代 顕宗天皇485-487

24代 仁賢天皇488-498 年   25代 武烈天皇 498-506 年  26代 継体天皇507-531

27代 安閑天皇531-535   28代 宣化天皇 535-539年  29代 欽明天皇 539-571

倭王「武」は最短でも在位478年~502年だから、雄略ではない。倭王武の上表文に書かれた「昔から祖先は自ら甲冑を着け・・・・」は祖先の事だから倭王武の時代に軍事行動が存在した必然はないとしても、日本書紀の天皇と倭の5王を同定する事は困難だ。

賛の時代に半島南部を支配していたから、好太王と対峙したのは賛かもう一世代前の倭国王になる。特別な天皇の事績だけでも記憶されていたかどうかの検証は、日本書紀の作者が好太王碑文の写しを持っていたとすれば難しそうだ。

 半島の歴史は三国史記に依拠しているが、三国史記の成立は12世紀だから、日本書紀より信用できるとは言えない。新羅は再三倭人の攻撃を受けるが、それと日本書紀との符合も却って疑わしい。三国史記の作者が日本書紀も参照した疑いがある。

 呉の国は他の天皇の時代にも登場する。呉とは南朝の事で、三国時代の呉まで含めて六朝(222年~589年)と呼ぶ。新羅嫌悪の事情から、呉についての認識は六朝末期の勢力を失い領土も狭まり、滅亡直前の状況と推測される。隋・唐の建国を知っている日本書紀の作者が、文献記録を活用せず口承や現況に基づいて日本書紀を書けば、南朝を重視しなくても不思議はない。

日本書紀に記述されている南朝との交渉は以下しかない。

応神37年、呉国に遣使し縫工女を求めた。使者は高句麗経由の道旅が分からず、高句麗王に案内者を付けて貰い呉に至り、呉の王から工女姉妹と呉織・穴織四人を貰う。

41年 呉国から四人の工女を連れて使いが戻った。

仁徳58年 呉国、高麗国、2国が朝貢して来た。

 呉への使者が陸路を使う想定である事は、日本書紀の作者が倭人の海洋活動を知らなかったことを示している。倭人は内陸日本人にも航海上の秘密を厳守していた事が分かる。呉からも文化を吸収した事を認めているが、機織と裁縫の域に留まり、漢字や仏教には触れていない。

唐の半島攻略政策で、倭人の伝統的安全保障政策は破綻し、新しい路線闘争で旧倭人勢力は凋落し、彼らの伝統は見捨てられ、彼らの歴史は彼ら自身が隠蔽したのではないだろうか。それでなければ何らかの記録が伝承されている筈だ。倭人も日本人も歴史を使って政権の正当性を論じる必要はなかった事は、日本書紀を見れば分かる。天皇の権威の正当性を真面目に主張したければ、「一書に曰く」などという異説を満載する筈がない。しかし読者が天皇の神性を疑うことは想定していない。先祖の記憶の及ぶ以前から疑われる事なく続いて来た「すめらみこと」の起源譚を文学にしてみたという印象が強い。古事記や日本書紀の作者は「すめらみこと」の起源を知らず、周囲もそれに疑問を持たなかった様だ。戦前までの日本では、すべての権威は天皇の任命によって効力を発したから、権力を握る経緯を表現して権力を正当化する歴史観は必要なかったが、奈良時代以前の日本人にも同様に必要なかったことを意味する。歴史を自由に話題に出来るという表現の自由が保障された世界で、古事記、日本書紀、源氏物語の文学が開花した。本人がそれと気付かないほど当たり前の倭人のこの伝統はかなり昔からあったのだろう。中華的歴史観は春秋戦国時代に発展し、司馬遷により体系化されたらしい。倭人は春秋戦国時代に大陸に出入りし、重臣を「大夫」と称して尊ぶ中華的習慣が強固に根付いた。その頃倭人の身分秩序観がある程度形成されていなければ、半島の人の様に中華思想に絡め取られてしまった筈だ。倭人の身分秩序観形成の時期は遅くとも弥生時代の早い時期、若しかしたら縄文時代に遡ることになるだろう。船員の組織は秩序が厳しいと言われるが、倭人が海洋民族であった故に独自の秩序観を早期に身に付けていたというのは、合理的説明かもしれない。

 以下は全くの推測だが、

 「すめらみこと」がこの様な政権任命者であり続けていたのであれば、江戸・鎌倉幕府は言うに及ばず、藤原氏の様な存在は常態であっただろう。それが嘗ては蘇我氏、物部氏、葛城氏であったかもしれない。国家的危機に陥ると天皇親政が待望されることは、日本人は明治維新という例で知っている。飛鳥時代も唐の半島政策が国家的危機意識を引き起こし、天智・天武天皇の親政が望まれたのかもしれない。更に遡ると、漢の武帝の朝鮮攻略を契機に倭人が混乱し、「倭国大乱」を引き起こし、皇族である卑弥呼の親政が実現したのではないかとも想像される。

奈良時代の日本人は倭人の秩序観を引き継ぎ、日本書紀では重臣達を「大夫」(だいぶ)と書いて「まえつきみ」と読ませ、後漢書や魏志に書かれた「使人自ら大夫と称す」という伝統を受け継いでいる。重臣を「大夫」と呼ぶのは中国の春秋戦国時代の風習で、その時代に倭人が中国の政権に近付いていた証となる。この呼称は平安時代以後も重い価値を持つ言葉で、今日でも東宮大夫(とうぐうだいぶ)という言葉が残っている。「だいぶ」は呉音で「たいふ」は漢音だが、「たいふ」は軽い特定身分として使う。

 漢字に呉音と漢音の別があり、仏典は呉音で読み、万葉仮名も呉音で発音される理由は日本書紀を読んでも分からない。倭人は後漢に朝貢した際に「自ら太白の子孫と謂」い、史記を読む者が居たことを示唆し、魏志に邪馬台国の役人は文章を読んだことが書かれている。その漢字伝来の事績を日本書紀の作者は知らなかった。誰かが伝えたというものではなく、交易していた倭人が自然に習得したのであろう。

歴史は繰り返されるとすれば、当時も百済の亡命2世、3世が、現代の在日の様に、日本の文化は半島を経由して伝来したと声高に喧伝しただろう。畿内の倭人の子孫も海外で活躍した世代ではなく、2世、3世になれば確信を持ってそれを否定する雰囲気もなく、日本書紀の作者は亡命百済人の主張に多分に影響され、現代史学会の様に事実を見失っていた可能性も高い。百済仏教が南朝系であり、百済人は呉音で仏典を読んでいたとしても、百済貴族が漢籍を呉音で発音していたかどうかは疑問だ。もしそうであれば、彼等は4世紀後半になって初めて漢字に触れたことになる。遥か遠方の南朝から渡って来た少数の人から学び始め、僅か1~2世紀しか経ていない時代に、千年近く漢字と接して来た倭人が百済人から文化を伝えて貰うというのは、あり得ない事である。倭人の古い文献を読んだ事がない日本書紀の作者は、海外に雄飛していた倭人の子孫とは別の系譜の倭人であった様だ。

 以上を総括すれば、日本書紀の作者は倭国時代の対外的な交渉の歴史を知らなかった。それでいながら、列島内の歴史は把握していたということもあり得ない。日本書紀とは、飛鳥・奈良時代の一般の貴族・官僚の認識の範囲内で作文された物語ということになる。

 紫式部日記に「帝は式部を日本紀の局と名付けた」と書かれているのは、源氏物語は日本書紀の様な架空の物語だという事を意味している。場面設定はその時代に合わせ、登場人物は架空の人だという意味だが、実は場面設定、つまり国際情勢も当時の認識の延長に過ぎない。現代人の感覚で言えば、戦国時代劇に共産中国、アメリカ合衆国、ドイツ帝国などが登場する状況になる。歴史を知らない人はそれが歴史だと錯覚する。韓流時代劇に興じる姿はこれそのものになるし、大河ドラマもこの範疇に入る。

古事記と日本書紀は、創作でありながら内容があまりにも酷似しているから、各々独自に創作されたとは考えられない。古事記は、続日本紀の宣命文より文型が古いとされるから、日本書紀より古く、日本書紀は古事記を参考に作られたのだろう。

 古事記は神代から推古天皇まで書かれている。日本書紀は推古天皇以後を独自に創作したかもしれないが、実は伝承されていない第2古事記が存在し、それは聖徳太子がヒーローの物語だったかもしれない。感覚的にはその方が確からしく、それが元祖源氏物語となる聖徳太子物語だったかもしれない。古事記の作者も総ての物語を創作したわけではなく、昔物語や伝承歌を繋げた物語を作ったのだろう。それらの物語に江戸歌舞伎の忠臣蔵ほどの事実性があったのかも疑問だ。これを歴史書として研究するのは馬鹿げているが、文学として研究する意味はある。例えば、盟神探湯に関する記述から当時の人々の秩序観を推定するとか、17条憲法から当時の役人の組織倫理を考察するとかで、子細に検証すれば当時の日本人も侮れない倫理観を持ち、今日の日本人特有の倫理観が既に出来上がっている事に驚く。これは日本民族に文学志向があったからで、歴史としての叙述は出鱈目で、歴史認識は見劣りするが、倫理観は他民族に負けない状況を作り出している。

全くの推測だが、古事記は宮廷の女官が書いたのではないだろうか。只の女官ではなく、巫女的な女官が神がかりして述べた話を後日筆記したのではないかと思われる。天皇の女性・親子関係の事績が余りに多く政治的な事柄が少ない事、話の前後関係に繋がりが乏しい事、時に挿話が意味なく子細である事、などの説明が付く。

日本書紀の作者は古事記の記事の前後関係を入れ替えてストーリーの齟齬を調整し、対外的な事績を適当に挿入し、多数の女官の神託を「別の神託」とするのは中華に対し外聞が悪いから、「一書に曰く」と体裁を付けたのではないかと思われる。推古天皇以後の第2古事記は、さすがに神託の継ぎ合わせではストーリーにならず、後世に伝わる事はなかったということではなかろうか。紫式部は本来「古事記の局」の筈であるが、物語の筋が整っているから「日本紀の局」と賞賛されたということではなかろうか。

 もう少し推測を極めると、日本人の文学思考は巫女の宣託が起源かもしれないという推理に辿り付く。巫女も周囲を説得する為には情に訴えながら、ある程度の合理性を備えた宣託をしなければならない。また、核心的なことを明らかに言ってしまえば、外れた場合の問題が大きいから、言葉を選ばなくてはならない。誤魔化していると思われてもまずいから、説得力も重要になる。この様にして育まれた情に訴える言語が、一方で和歌に進化し、一方で古事記に記載されている様な散文説話を多数生み出し、遂に源氏物語に到達したのではなかろうか。

中国人の歴史は、事実を克明に記録し、正史として編纂することかもしれないが、それが歴史を思想や科学にするわけではない。文学は事実ではないが、思考や感性を表現する上では中華的歴史認識より分かりやすく、心情的に納得しやすい。過去の事績や経験から倫理観を醸成するのであれば、文学の説得力の方が格段に有効になる。

歴史の国、中華と、文学の国、日本の違いを端的に表現すると以下の様になるのではなかろうか。

権力構造で支配する中華、支配力で勝負する日本。

(歴史観で絶対的権力構造が確立される中華、支配力のある者が天皇の任命を引き出す日本)

権力の由緒を求める中華、政治力を民衆にアピールする日本。

この権力の統治が一番良いと思わせる日本、権力によって中華世界は安定すると考える中国。

未来志向の日本(水に流せる過去に興味がない)、歴史認識の中国(過去の事績は永久不滅)

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2013年3月11日 (月)

倭人から見た朝鮮半島(中華と倭の境界)

古代の朝鮮半島を概観するためには、大陸にも注目する必要がある。後氷期の温暖化がピークを迎えた紀元前5千年頃、極東に4つの文明圏が芽生えた。黄河流域、南の揚子江流域、北の遼河流域、そして日本列島。黄河流域に彩陶を特徴とする仰韶文化、揚子江下流に稲作の河姆渡文化、遼河流域に趙宝溝文化、日本列島に環状集石群を持つ阿久遺跡(長野県原村)があった。朝鮮半島に櫛目紋土器が出現するが、4文明が特徴ある土器や遺物を残しているのと比べ、目立たない状態に留まっていた。

BC3千年頃、大陸の文明は権力の集積を示す段階に進み、黄河流域は龍山文化(BC3千年~BC2千年)に、揚子江デルタは良渚文化(BC3500年~BC2千年)に発展した。日本列島は縄文中期(BC3千年~BC2千年)の三内丸山、釈迦堂、尖石、長者ヶ原ヒスイ工房などへ発展したが、海洋交易という他者とは違う方向に向っていた。現在亜寒帯である遼河流域は紅山文化(~BC3千年)以降寒冷化の影響が厳しく、文明は衰退し始め、遼河文明の周辺地であった朝鮮半島では櫛目紋土器時代が続いた。朝鮮半島の森林は生産性が低く、農耕も確認されず、中華文明圏との交易を目指していた縄文倭人が興味を持つ地域ではなく、当時の交易品である装身具や威信財はこの時期の半島からは殆ど出土しない。

BC2千以降、更に寒冷・乾燥化が進むと遼河文明の担い手は、一部は内蒙古に夏家店下層文化を残すが、華北や山東に南下し、龍山文化や殷に影響を与え、特に龍信仰は中華文明全体に大きな影響を与えた。BC1500年頃から、嘗ての遼河文明地域の南端であった遼寧に無紋土器、支石墓が現れ、朝鮮半島にも広がる。農耕も始まったが、遼河文明の特徴が見えるわけではなく、北方民族が南下し住民が交替した疑いがある。

一般論として、穀物生産が原生地から人為的に拡散する場合、南方の生産者は雑草と格闘しなければならない。古代の農耕民には大変な労働で、拡散の大きな阻止力となった。北方や乾燥地への拡散はこの逆の状況が生まれ、品種改良により耐寒、耐乾燥種が生まれると農耕は有利に展開する。これにより最適農耕地は緯度的に帯状になりやすい。その他の要件も色々絡むが、気候が一定なら穀物生産の最適地は北上していく。

遼河流域は地球温暖化のピーク時には栽培していた雑穀の緯度的適地であった様だ。当時の満州や内モンゴルは現在より温暖で降雨量も多かったが、その後の寒冷化の速度が速過ぎて品種改良が追いつかず、穀物の生産性が低下していった状況が想定される。当時は土地の所有概念はなかったから、人々は農耕適地を求めて南下し、黄河流域に辿り着いた。

BC2千年以降、黄河流域では生産性の高い小麦の生産が広まり、アワ、キビ、大豆との混合農業と家畜飼育の普及で農業生産性が高まっていた。寒冷化したとは言え現在より温暖な黄河南部では稲作も実施された。低緯度地帯の寒冷化・乾燥化は緩慢で、緯度が大阪と同じで暖かい黄河流域の洛陽や鄭州の農耕民には南下圧力はなく、生産性の高い小麦生産地に、稲作の北限が重なる農耕適地として中華文明を統括する地域になり、夏王朝に比定される二里頭遺跡(BC1800年)や、殷王朝初期の二里岡遺跡に発展した。

鉄が普及する以前は、乾燥地の天水農耕による小麦は生産性が高かった。揚子江流域や日本列島の稲作は、生産性の優越には湿った重い土壌の耕作や灌漑設備を必要とし、鉄器の普及を待たねばならなかった。

その頃の朝鮮半島は、当時の稲作には寒過ぎ、麦や雑穀には湿潤過ぎる地域だった。更に湿潤温暖な日本列島には堅果類が豊かな森林があり、漁が容易な湖沼が多く、縄文人は海産物を得る漁労という手段を持ち、人口を養っていた。西日本では焼畑による陸稲や雑穀の栽培も始まり、一説では東北地方でヒエの栽培も始まっていたが、鉄器を持たない焼畑農耕は重労働で生産性は低く、西日本の人口は多くなかった。

中華文明が確立していたBC千年以降も朝鮮半島で何が起こっていたのか良く分からない。気候は更に寒冷化し、現在の状態に近くなっていたと思われ、雑穀栽培が始まっていた。現在の気候はケッペンの気候区分から読み取れる。

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C は温帯区分、D は亜寒帯区分。亜寒帯は最寒月平均気温が-3℃未満で、降雪があれば根雪になる。f は湿潤、w は冬乾燥、aは最暖月平均気温が22℃以上、bはそれに満たないことを示す。東京・大阪・九州・揚子江流域はCfa(黄緑)で、青森はCfb(水色)、北海道は概ねDfb(空色)だが、札幌だけDfaとする説がある。北京・瀋陽・ハルビン・ピョンヤン・ソウルは湿潤大陸性気候Dwa(灰色)で、現在は春まき小麦生産地だが、古代は雑穀栽培地で、半島南端はCfaで稲作可能な地域だった。

文献資料はBC1世紀を記録した漢書地理誌と、AD3世紀を記録した魏志東夷伝を待たねばならない。既に鉄器時代になって久しいから、旧石器時代を想像するのは難しいが、青銅器時代はある程度の推測がつく。漢書地理誌によれば朝鮮半島北部の楽浪郡は、漢末のピーク時の人口は6万戸、40万人だった。魏志東夷伝によれば、半島北部から中国東北部は濊と呼ばれる民族の地で、少数の漢民族が濊を地域的に分断支配し、扶余、高句麗などの地域政権を保持していた。最も文明化していた扶余は葬儀の際に時に数百人も殉葬して厚く葬り、殷の暦の正月に天を祭るとされ、殷の遺民が建国した様に見える。殷の系譜である箕子朝鮮が滅んだのは秦末の混乱期(BC4世紀末)だが、箕子を名乗らず他所からの亡命者とし、魏志の作者が記載をためらう由緒が語り継がれていた。殷の滅亡時に王族を迎えた殷の後継国とする類の伝承だったと推測される。魏志の編者は怪しげな伝承は採用しない合理性を持っていた。

高句麗の支配階級は、石を積んだ塚で墓を作り金銀財幣で厚葬するとされ、扶余とは習俗が異なる。周代以降の亡命中国人が建国したのだろう。略奪を好むが民衆は必ずしもその尚武的気風を好んでいなかった。

東沃沮では大きな箱を家毎に作り死者は次々そこに入れ、木で像を作って外に置くという別のローカルな習慣があり、別の中国系移民が征服した痕跡かもしれない。

濊と呼ばれた地域では死者が出るとその家を焼くと書かれているが、墓制は書かれていない。

鉄器時代に入ると半島の支石墓は廃れたらしいが、上記の事情を考慮すれば、鉄の武器を持った中国人に地域単位で征服され、異なる征服者の習俗に染まったが言語は変わらない民になったらしい。中国人が鉄製農具を持ち込んで支配者に納まったのであれば、単なる武力征服ではないが、征服者の数は言語が残らないほどに少数だった様だ。

濊は複数の中国人に征服され、分断されているから、青銅器時代の濊はあまり文明化されていない民族だった様だ。龍山文化に合体し、殷の一部を担った遼河文明の担い手と濊に関係があったという証拠は見当らない。韓族は元々楽浪郡にも居たが、AD2世紀末に楽浪郡が衰えると中華の統治を嫌って馬韓に逃げ込んだ。濊は韓族の土地にも南下し楽浪郡にも居た。無紋土器・支石墓を広めたのは、半島北東部は濊、半島北西・中西部は韓だったらしい。

魏志の時代、半島南部は、馬韓に韓族、辰韓に漢系、弁韓には倭人の影響を受けた別の漢系が雑居していた。韓族にも嘗て漢人支配者が居たが、既に王統は失われていた。韓は濊より未開状態で王国を維持する意識がなく、小さな「国」と称する集団に分かれていた。魏志では韓族の人口は10余万戸としているが、これは過大見積だ。中国人は半島南半の事情を知らず、倭人に騙されていた。日本列島は容易に行けない遠方にあると思い込ませるため、馬韓は広く、韓族の人口が多いと詐称されたが、実際の馬韓は3万戸程度だったと推測される。前漢最盛期の楽浪郡でさえ6万戸だから、広くない馬韓に韓族が10数万戸も居る筈はないが、半島南部を実際の10倍の面積と思い込まされていたから、魏志の作者も納得したのだろう。

前漢の武帝が朝鮮に4郡を置いた時、その一つである真番郡は半島南半分にあったとか、半島南端まで真番郡だったと主張する人がいるが、それはあり得ない。郡になれば軍隊が派遣され、距離や方向は軍事の要だから正確な知識を保有していなければならないのに、半島南半に関する魏志の距離記述は全くの誤り状態にある。また、半島南部を知っていたら、漢書に「倭人は楽浪郡に海から来る」とは書かず、「倭人は韓国の南と日本列島に海峡を隔て分居している」と書く筈だ。従って、中国人は半島北半しか統治した事はないと言える。

辰韓の中国系移民は秦の労役を逃れて来た人達で、楽浪郡の中国系移民と同類との出自伝承を持っていたが、弁韓の中国系は出自が不明だ。稲作と養蚕を行い上質の絹布を織り、韓族と違って牛馬を使い、男女の中華的区分があり、楽器を使い音曲もある。倭人を除く東夷一番の文明人で、男女共に倭人の様に入れ墨をしている。この人達は稲作で有名な松菊里文化の担い手の末裔の筈だが、松菊里は馬韓にあるから、松菊里時代には弁韓人が馬韓に居て、韓族はもっと北の楽浪郡となる地に居た事になる。弁韓人はその後の寒冷化で半島の南端に集まり、韓が南下して来たのだろう。松菊里は青森・秋田に近い気温だから、青森の田舎館村垂柳遺跡(BC3世紀~1世紀)の水田遺構の様な運命を辿った筈だ。全羅南道には、北方式と違う支石墓群(南方式)がある。これは弁韓人の初期の墓だと思われる。

北九州の原山支石墓群は縄文時代末期だから、遼東半島辺りから直接伝播したことになる。遼東半島での交易中にこの墓が気に入った縄文人が居たのだろう。糸島支石墓群は弁韓人が北九州に居住していたのか、弁韓式が気に入った倭人が作ったのかは分からない。両方あり得る。

魏志は弁韓について、「国々は鉄を産出し、韓・濊・倭の人々は皆この鉄を取る。商取引にはこの鉄を銭の様に使い、鉄は楽浪・帯方郡にも供給される。」と書かれているから、弁韓人は盛んに製鉄していた。弁韓人が製鉄技術を持ち込んだのであれば、彼らが来たのは中国で鉄器が普及し始めた戦国時代(BC5世紀)以降になり、松菊里遺跡の水田稲作もそれ以降になる。稲作を日本に伝えたと言いたい韓国人が、松菊里の水田跡はBC8世紀だと主張するのはおかしいということになるが、若しも、弁韓人が稲作民としてBC8世紀に製鉄技術を持たずに半島南端に来たとすれば、製鉄技術を持ち込んだのは倭人で、弁韓人は倭人から製鉄技術を習得したことになり、この場合、倭人が最初に製鉄を始めたのは半島ということでは不自然だから、日本列島の製鉄はBC3世紀以前に始まっていたことになる。今のところどちらであるという証拠は無いが、それ以外の状況を設定するには事情を複雑に組み合わせる必要があり、現実的ではないだろう。

考古学者は朝鮮半島から遼寧式青銅器である銅剣、銅矛が文明の様に日本に伝わって来たと主張するが、どの民族が伝えたのだろうか。倭人に敬意を払って入れ墨していた弁韓人しか考えられない。彼らが製鉄と一緒に青銅器の製作技術を持ち込んだという事はあり得る。しかし彼らが北九州の倭人の求めに応じて遼寧式青銅剣や矛を作ったとしても、弁韓人は遼寧や半島と宗教は共有していなかったから、単なる器機の委託生産者に留まった筈だ。珍しい威信財として交易されたものの流通と文化の流れを混同してはいけないと思う。

北九州は銅剣銅矛文化圏だが、銅鐸の複雑な器形を実現する高い鋳造技術を持っていた畿内に比べ、形が単純な剣や矛の鋳造技術はそれほどでもないと思われる。墓に威信財を埋葬する習俗を持った北九州は考古学的に文化が高い地域に見え、その習俗を持たなかった畿内は、考古学的に遺物が貧弱に見えるという構図があるのではないだろうか。銅鐸の鋳造技術は江南由来で、北九州の鋳造技術は弁韓人由来であったと思われる。BC1世紀頃からの寒冷化で先進工業地だった遼寧は壊滅的打撃を受け、楽浪郡は鉄を遼寧からではなく、弁韓の蛮族から供給を受ける羽目になったという事だろうか。

畿内の先進的邪馬台国は後進的九州が黄河流域との交易にこだわっていた事をどう評価していたのか考える必要がある。邪馬台国が黄河流域との交易に傾斜することを、縄文時代から江南交易の本流だった関東・東海の狗奴国に咎められた可能性があるだろう。邪馬台国が魏に朝貢することは、狗奴国の江南交易をやりにくくしただろう。魏から見れば、邪馬台国に肩入れして狗奴国との諍いを有利にさせることは、魏と呉の代理戦争での勝利だと解釈していたのだろう。

少し脱線するが、縄文人が日本列島に水田稲作の導入を試みる場合の最初の地を選ぶ場合、最も暖かい九州南部で細々始めるのではなく、北九州の平野と半島南岸とした可能性を考えることもできる。地理的に中国大陸に近いからで、非科学的根拠ではあるが、初めて試みる縄文人にとって重要な論拠だったかもしれない。江南から稲作を導入するのに、船の経路である南九州をパスした理由があっただろう。

半島南端での水田稲作と製鉄のために連れて来た弁韓人は、気候が近い華中出身者だった可能性が高い。九州は江南より気温が低い事を承知していれば、その選択が合理的だ。華中の斉の人であった徐福の類の人の流れが春秋戦国時代から続いていたとすれば、話としては理解しやすいし、徐福の行き先は弁韓だった可能性もある。佐藤洋一郎氏の遺伝に関する主張と歴博の炭素年代測定を勘案すれば、半島南端に徐福の類の人が来るはるか以前に、日本列島では水田稲作に成功していた。釜山より北九州の方が暖かく、労働力も豊富だった筈だから、当然だ。

以上を踏まえ大雑把に、BC2千年頃から一貫して寒冷化が進み7世紀に寒冷化のピークを迎え、半島には北から民族の流入が続いた前提で半島の歴史を類推してみる。

櫛目紋土器を使っていた人達はBC2千年頃に北から来た韓族に圧迫されて半島南部に閉塞し、北九州の縄文人と交流して漁労民となり、辰韓・弁韓に漢系の農耕民が流れ込むと再度圧迫され、最終的に済州島に逃げ込んだと考えるのが合理的に見える。

BC1千年頃、濊族は満州や半島北部に南下して農耕を始めていた。韓族は濊族に北から圧迫されて半島中部辺りまで南下した。半島南部は湿潤で、石器を用いた雑穀農耕の適地ではなかっただろう。

BC4世紀頃、中華世界の動乱の中で中国人が濊の諸地域を征服し、扶余、高句麗などを政権化した。漢人の難民も半島に入植した。韓族は濊と漢人に圧迫されて馬韓に南下し、半島北半分は濊と漢人の地となった。

その頃、製鉄や造船などの技術導入に暗躍していた倭人は、華中の製鉄稲作民を半島南岸に海路送り込んだ。ドラマになりそうな事件の処理として何処かの部族を運んできたのだろう。倭人にとっては初期の移民ビジネスだったかもしれない。彼らは半島南端で倭人の属民になって稲作と製鉄を始め、帰服の証として入れ墨など倭人の習俗の一部を取り入れ、一部は農地を求めて松菊里にも拠点を設けたという辺りが確からしい。

漢の武帝の半島北半の征服により濊も韓も南に圧迫され、韓も一時北から逃れて来た中国人の支配を受けた。前漢末気候が寒冷化し、弁韓人は馬韓での稲作を放棄して弁韓に逼塞し、馬韓には北から濊と漢人に圧迫された韓族が南下流入し、辰韓には楽浪郡からの漢人難民が流入し、弁韓人とは同じ漢系としての交流が生まれた。

 以上、新石器時代の朝鮮半島を概観したが、中華文明の先進地と交易していた倭人にとって朝鮮半島は興味ある交易相手ではなかったと思われる。しかし鉄器が普及し、向上した農業技術が伝播すると半島に多数の人間が流れ込み、南下して来る。そうなれば狭い朝鮮海峡を挟んだ対岸の日本列島に移民が流れ込み、中華政権の影響が及ぶ恐れが発生した。

楽浪郡が設置された頃から倭人には半島の南半分を勢力圏にしなければならないという意識が芽生え、具体的な行動に入ったと思われる。伝統的な手段は中国人に偽情報を流し、日本列島は大陸からはるかに離れた絶海中にあるから往来できないと思わせる事だが、軍事行動で半島南半を支配し、中国人を寄せ付けないという手段も視野に入った。漢が衰えても幽州を支配していた公孫氏は楽浪郡から帯方郡を分割し、高句麗も強勢化し、共に南下の姿勢を示していた。

邪馬台国統治の成立前、倭国大乱があったとされるのは、この事態への対処方法を巡る混乱だった可能性がある。これは奈良朝が成立する前の、白村江の戦い以後の混乱期と対比出来るかもしれない。日本列島を統合し武力対決姿勢を示すのは望ましい手段だが、誰がどの様に統治するか、話合いでは決着が付かないのは時代を問わない普遍事項だ。卑弥呼や台与が奈良朝の女系天皇と同じ役割を演じたとすれば、公孫氏や魏に朝貢して宥和を図る勢力が、卑弥呼を担いだ可能性がある。狗奴国はそれに反対する勢力だったとしても、必ずしも地域対立ではなかった筈だ。

暫く宥和派が勢力を維持し、やがて国粋派が台頭するのも良くある話で、武断的なヤマト権力が成立し、半島に出兵した。鮮卑族が華北に侵入して西晋王朝が滅亡し、満州に靺鞨が侵入して扶余が滅亡すると、北からの軍事圧力が弱まり、武闘派に有利な情勢下で、馬韓に百済、辰韓に新羅という友好勢力を育成した。百済は扶余の遺民を帯方郡に傭兵として抱え、韓族統治を委任した勢力で、新羅は入れ墨までして倭人と親和的だった弁韓と、彼等と親和的な辰韓の漢系移民を統治する勢力であった。韓族は自己統治出来なさそうだったから、扶余の遺民を呼び込んだのだろう。この経緯は「倭人伝に見る日本(宋書)」に書いた。当初は高句麗が強勢で、実質的には高句麗と倭国の戦争だったが、倭人の目的はあくまでも半島南半分の軍事的優勢を確保し朝鮮海峡の安全保障を守ることだから、高句麗は中華帝国と親和的ではないということが分かれば、倭人は無理に高句麗と戦う必要はなく、やがて停戦協定が結ばれただろう。倭人が、農業生産に乏しく交易の利益が薄い土地に領土野心を持つ筈はないだろうから。

半島の三国は倭人と関係なく、自国の覇権の為に争い続けた。倭人内部に百済派と新羅派が生まれ、海を通して行ける高句麗と親交を結ぶ者も現れただろう。

新羅は成立過程が分からない国だが弁韓を母体とした国だから、日本的な要素を多分に持っていた。中華的父系制が失われて庶民は姓を持たず、王族は近親婚で血統を守り、時に王族の女が女帝になる。衣服も倭と似ていた。元漢人だから父祖の言葉はシナ語族的なSVO言語の筈だが、新羅語を元祖とする今日の朝鮮・韓国語が日本語と同じSOV言語なのは、倭人語の文法を取り入れたからだと考えられる。現代韓国語は弁韓語彙の中華訛りを基礎に、新羅の半島統一以後韓・濊の言葉と混合し進化し、現代日本語とはかなり違っているということだろう。

百済には半島の貴種である扶余の遺民だというプライドがあったと思われる。隋に申告した建国の歴史にそれが現れている。魏志によれば、扶余には殷王朝の系譜伝承があり、倭人は殷に親和感があった故に扶余にも親近感があり、馬韓の経営を任せたのだろう。

魏志に、倭人は骨を炙って割目の形で吉凶を占う。その方法は中国の作法に似ている(令亀法)と書かれ、殷の習俗を受け継いでいたらしい。卑弥呼の墓に奴婢百余人を殉葬したが、東夷でこの習俗を持っていたのは扶余だけだった様に書かれている。殷では王の墓に多数の人間を殉葬したことが知られている。殷では女性の発言力が強く、婦好という女傑を生んだが、男女の区別がない倭人の特徴と似ている。魏志に記す倭と、殷の共通点で、扶余には無いものがあるから、倭人は扶余を通して殷の習俗・宗教を学んだのではなさそうだ。倭人は海の交易者であり、殷人は商人の元祖だから、宝貝の交易で両者が密接な関係を持ったと推測され、関東縄文人のミトコンドリア遺伝子解析で、漢人系が見つかるのはその名残ではないかと思われる。

新羅が半島を統一することに倭人が異を唱える必要はない。この観点で新羅の半島統一のドラマは分かりにくい。百済と新羅いずれかを選択しなければならなくなった倭国として、一応百済の応援をして唐と戦い、最終的に新羅の半島統一を是認したが、敗者に優しい日本人は、日本書紀で百済の顔を立てたという事だろうか。

朝鮮半島の民族独立意識は、倭人が半島を中華帝国と日本列島間の緩衝国として育てた必然の結果かもしれない。日本は必要に応じて半島の人々を援助する必要があるだろう。その文脈では日韓併合後の半島振興は正しい判断で、戦後の半島の独立は旧来の状況に戻ったことになり、日本にとって望ましいことになる。多少の不都合は我慢して半島の人々の国威発揚を援助するのは伝統政策の延長上にあることになる筈だ。

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