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2013年2月の記事

2013年2月19日 (火)

日本人を形成する人種(極東の海洋は倭人の海だった)

縄文時代、弥生時代、古墳時代、倭人は大陸の人達に日本列島の地理と航路を秘密にし、列島周辺の海洋を独占していた。そのためこの時期に他民族が、民族移動として列島に侵入する事はなかった。男性の出入りの軌跡はY遺伝子から見当が付くので、その状況を検証する。

現代日本人のY遺伝子構成は周辺民族との共通性に乏しい。

本土日本人は D2が4割、O2bが3割(大半はO2b1)、O3が2割弱、 C1、C3、Nが数%

アイヌの人は D2が9割、C3  が1割、

沖縄の人は D2が6割、O2bが2割強、O3が2割弱。(O2b中のO2b1比率は不明)

D2は日本人独特の遺伝子で、日本以外のどこにもいない上に多数の変異を内包しているから、旧石器時代から列島にいた事が分かる。O2b1はD2ほど多くの変異を持っては居ないが、やはり長い歴史を持ち、韓国と東南アジアに少し居る以外はどこにも居ない。O3は中国北部に多く、C3はシベリアに多い。D2、O2b、O3、C3の流入イベントを検証すれば、日本人男性の95%はカバーする。

1万5千年前の日本列島にはD2の人達しか居なかった。当時は氷河時代で、海面は現在より140mほど低く、北海道は樺太・シベリアに繋がっていたが、他の人種は来なかったか、来ても排斥された。暖かくなり始めた1万4千年前頃、C3の人達が北から来た。現在でもバイカル湖畔にはC3が多く、シベリアで氷河期にマンモスハンターと呼ばれた人達の子孫だと推定される。同時代にベーリング海峡を越えてアメリカ大陸に移住したから、気候変動により移住を余儀なくされた時期だったと推測される。北海道を始め、この時期の日本各地の遺跡に細石刃と呼ばれるシベリア起源の石器が発見され、C3の人達の軌跡が確認できる。D2とC3の人が混ざり、アイヌの原型となる人種が出来た。

氷河時代が終わる1万3千年ほど前、O2b1の人が土器の製作技術を持って南から日本列島に来た。氷河時代に針葉樹林だった日本列島は、南から落葉広葉樹林や照葉樹林が広がり始め、堅果類が採れる樹木が茂る様になり、それに依存する人としてO2b1が北上して来た。堅果類は加熱調理しないと消化しない澱粉質の食料だから、それを食料とするためには土器が必要になる。地球が温暖化しつつあるこの時期に加熱調理用土器は南から伝わるのが順当で、北海道や半島から伝わってくる道理はない。氷河時代には東シナ海は大半が陸地で九州より暖かく、現在の日本列島の様に落葉広葉樹林や照葉樹林が広がっていた。地球の温暖化と共にその地の人達が北進して日本列島に移住するのは、海が無ければ自然な事だったが、現実には海が日本列島と大陸を隔てていた。氷河時代には東シナ海大陸と九州の間の海峡は狭かったが、九州が落葉樹の森になり始めた1万4千年位前から温暖化と共に海面が急上昇し、大陸が水没し始めた。長崎県にある日本最古の縄文遺跡泉福寺洞窟は12500年前頃と推定される。当時海水面は氷河期から60m上昇し、現在より80m低かったが、人が移動したのはそれ以前の事になる。当時五島列島と九州は陸続きだった。東シナ海大陸の海岸は現在の中国と九州の中間辺りで、そこから岬の様に北東に突き出た半島の先端に、現在の数倍の広さの済州島(当時は山)があった。済州島と朝鮮半島の間には狭い海が湾入し、そこに黄河や華中の河など現在渤海と黄海に注いでいる河がすべて流れ込んでいた。済州島と五島列島の間の100kmの海を渡れば日本に着くが、間に島はない。洪水や嵐で海に押し流され、海流に乗って日本に流れ着いたという想定が尤もらしい。

O2b1はO2bの中の特殊な人達という意味で、人口が多いからO2b1として特出ししているのだから、流れ着いた元祖の人は極少人数だったのだろう。ある家族が流れ着いて子孫を増やしたという単純な話ではなく、何千年かの間に何百という男女が流れ着いたが、広葉樹林が未成熟な時期には時期早尚ということで定着できずに死滅し、適切な時期でも配偶者が見つからなければ、子孫を遺す事はできない。幸運な男女ペアが核になり、その後の漂着者の一部を拾い上げて子孫を遺す事に成功したという事ではなかろうか。温暖化が進展して東シナ海が拡大すると、もう生きて漂着する人は絶えたという状況が尤もらしい。

東シナ海大陸で日本の縄文時代風の生活をしていた人達が九州に上陸し、日本列島の縄文時代が始まった。この人達の故郷は現在水深100mの海底だから、遺跡は発掘できない。後で理由を説明するが、この人達は海洋の航海は苦手だったらしい。この人達は縄文早期に鹿児島の「上の原遺跡」などで高度な縄文文化を開花させた。本州にいたD2の人達にも土器を使って堅果類を食料にする事を教えたが、運悪く7300年前に九州の南の海底火山(鬼界カルデラ)が大爆発し、文化の中心地は壊滅してしまった。四国辺りに住んでいた人達は紀伊半島や南関東に逃れた。これにより、D2+C3と共存するO2b1が生まれ、縄文人が誕生した。現在九州から青森までD2とO2b1はほぼ均一に分布している。

アイヌの祖先である北海道の縄文人は船で津軽海峡を越えて移動し、千島列島や樺太を往来したが、アイヌからO2b1は見つかっていない。O2b1が津軽海峡を越えなかったのは、海を渡る航海術が未熟な人達だったからだと解釈される。アイヌが漁労採集民であり続け、和人が農耕民族になった違いを、O2b1の人達を受け入れたかどうかで説明する事は、リスクはあるが魅力的である。アイヌの言語と倭人の言語の違いも、この理由が大きく影響している筈だ。逆にD2は海洋民族的素質を持って九州まで拡散し、更に西南諸島に進出した。現在沖縄の人達のD2比率が高いのは、海洋民族の子孫という事で説明できる。

中国人は有史以来、隋代まで、日本列島や西南諸島に渡航せず、O3とO2b*の人達は倭人の船で日本列島に来た。倭人は、中国人が海上を航行できる船を持つ様になってからも1000年以上の間、中国人に渡航ルートを教えず、列島の地理の秘密を守り続けた。これは組織力と団結力の結果だから、大陸の人には大陸と日本列島を往復させず、必要ない人は連れても来ないとする掟が厳然と存在し、1000年もの間秘密を守ったということだろう。漢代以降は中国船の方が大きかったかもしれないが、それにも拘らず地理も航路も教えないことにより渡航を拒んできた。中国の歴史書を見ると、故意に嘘を教え、日本列島の位置を実際より遠方にあるかのように錯覚させてもいた。うっかり流されたり、紛れ込もうとしたり、航路を探索しようとした船に対しては、秘密を守る為に必要な処置を取っただろう。

倭人は、後漢の頃から奴隷交易をし、一部を日本にも運んで農業労働者や工人とし、更に技能者や知識人として使い、後世それを帰化人と呼んだ。彼らは必ずしも戦争捕虜や拉致された人ではなく、財貨で交易された移民集団や技能者を多く含み、後世帰化人と呼んだ。最近の歴史家は帰化人を渡来人と呼ぶが、渡来人とはその人の意思で来た人を意味し、財貨として運ばれてきた人を意味しないから、やはり譲っても帰化人と呼ぶべきだろう。隋の使者は山口県辺りに中国人の秦王国があったと記しているから、運ばれて来た人達は奴隷という言葉からイメージされる様な待遇を受けていた訳ではなく、一定の年貢や生産物を収めれば、家族や統治組織を持つことを許された人を多数含んでいたと思われる。常識的にはその方がより多くの生産物を獲得できたと思われる。

現代日本人で、Y遺伝子O3とO2b1ではないO2b(朝鮮半島出身者)の合計が2割以上だということは、古墳時代に大量移民があった事を想定しなければならない。古墳時代の人口は150万人位だったから、古墳時代300年の間に60万人以上を運んで、漸く今日の2割弱になるのではないかと考えられる。移民の子孫の生存率を倭人の半分とした推定だが、倭人の女性が移民の子を産むとは考えられないし、移民女性の一部は倭人の子孫を遺す役割に回っただろうから、かなり少なめの見積もりではある。ともかくそれで計算すると年平均2千人になる。

主要交易先であった江南にこの数倍の移民奴隷を送り込んだとすれば、倭人は年間1万人近い移民奴隷を扱ったことになる。別ブログで、三国時代の呉(日本は弥生時代末期)に年間1000人を送り込んだと見積もったが、古墳時代には一桁上の数を扱っていたことになる。他の物品の交易もあったとは思うが、このために朝鮮半島に万単位の軍隊を駐留させるのは、経済的には割に合うのか疑問も感じるが、秘密を守るという列島の安全保障を堅持する手段として、他の選択肢がなければ仕方なかったのだろう。韓半島の南半分の地理情報が中国人に漏れなければ、九州は楽浪・帯方から、はるか離れた海上の島にあるという幻想を中国人に与え続けられる。魏志倭人伝の里程はこの観点から紐解けば理解できるから、邪馬台国は畿内辺りにあったのであろうという結論になる。

倭から日本に変わり、民が戸籍で管理される時代になると、移民奴隷は帰化人と呼ばれるようになったが、これは倭人として精一杯の平等主義の表現だったのではなかろうか。アメリカの黒人奴隷程には悲惨でなかった移民奴隷を、7世紀の日本人が解放して戸籍民としたのであれば、アメリカより1000年以上前に奴隷解放したことになる。但し、続日本紀には奴婢の扱いについての規定が書かれているから、奴隷的存在が全くなくなったわけではなかった。

以上で、男性の移動はほぼ説明できる。それでは女性はどうだったのだろうか。篠田謙一氏著「日本人になった祖先達」(2007年)を参考に検証してみる。この本を執筆した当時篠田氏は弥生人が大陸から稲作技術を持って渡来したという説に基づいた、要領を得ない説明に終始しているが、彼が提示するデータはしっかりしているのでそれを使わせて頂き、私流の解説に流用することにする。篠田氏のデータを扱う態度は客観的で理性的だから、非常に有用である。

男性の系譜を示すY遺伝子と、女性の系譜を示すミトコンドリア遺伝子を、海洋に囲まれて地理的に孤立していた日本列島への移住は倭人の管理下にあったという前提で解析すると、面白いほどに因果関係が明確になり、民族という単位を形成・維持したのは男性だった事が分かる。その男性集団が、遺伝子的観点で、相手女性集団を変えてしまうという現象が頻繁に起こっている。新石器時代には民族間で女性を遣り取りする習俗があった様だ。

現代の日本女性のミトコンドリアDNAの多様性は、男性と比較すると非常に高い。これは海外から多数の花嫁を迎えた結果である。既に縄文時代にそれが活発に行なわれた証拠が、縄文人のミトコンドリアDNAの多様性の中に刻まれている。

先ず、旧石器時代の遺伝子を残していると推測される北海道縄文人のミトコンドリアDNAの解析から始める。分類記号であるアルファベットはY遺伝子とダブるが、相互の関連は全く無い。

北海道縄文人44体は、7割がN9bで他にD、G、M7aが各1割だった。サンプルは縄文時代早期~続縄文時代のもの。N9bとM7aは日本人独特の遺伝子で、N9bはY遺伝子D2との当初ペア、M7aはY遺伝子O2b1との当初ペアと考えられる。Dは東アジアで最も多い型で、満遍なく分布しているので、ルーツ解析はできない。Gは氷河期が終了してからシベリアか中央アジアで発生した型なので、Y遺伝子C3の当初ペアではない。

ここで奇異なのは、M7aが複数見出される事である。アイヌにO2b1が居ないとすれば、ペアの女性だけが花嫁として津軽海峡を渡ったことになる。以後の解析でも同様の現象が散見されるから、そういう事だと解釈しておく。

理解を深める為に、ここで参照している篠田氏の本には載っていないが、産経新聞連載記事を纏めた「日本人の起源」(2009年)に東北縄文人12体のデータが記載されているのも参考にすると、M7a5割、N9b4割、D1割となっている。M7aが最多であるということは、Y遺伝子O2b1の男性も縄文時代に東北に広がった事を示唆している。Y遺伝子は劣化が早く、古人骨からは遺伝子採取できないが、ペアであるミトコンドリア遺伝子からそれが推測される。

関東縄文人56体は驚くべき状況を示している。 D+G、Bが各2割、M,F,A,M10が各1割、M7a、M7bc、M8が数体となっている。時期は6000年前から晩期まで。Y遺伝子D2の当初ペアN9bは見つからず、Y遺伝子O2b1の当初ペアM7aも極僅かで、それ以外が多い。B、F、M7bcは中国南部から東南アジアに多く、ハワイ・ポリネシア・ニュージーランドに拡散したオーストロネシア語族は殆どBであるという特徴を持つ。M8の中のM8aは漢民族にだけ存在するが、存在の仕方が特殊だとする篠田氏の説明を掲載すると「M8aは中国各地のいわゆる漢民族集団に一定の割合で出現し、その周辺の集団には比較的少ないという特徴を持っています。おそらく中国の北部で誕生したのでしょう。Dなどと比べると決してその割合は高くありませんが、漢民族と呼ばれる人たち、特に北の集団では常に一定以上の比率で出現します。・・・・このM8aが漢民族を特徴づける指標として面白そうです。」ここではM8はM8aとして扱う。M10とAはブリヤート人に多いから、Y遺伝子C3の当初ペアに同定され得るが、それにしては比率が高いから、海外起因も考慮した方が良いだろう。

以上の事実は私が今まで展開してきた古代の倭人(縄文人+弥生人)の活動推定と良く符合する。沖縄経由で台湾に達した縄文中期の倭人は、オーストロネシア語族の人達と数千年間接して航海技術を交換し合い、倭人はそのついでにオーストロネシア語族の女性と恋愛し、その女性を日本に連れ帰った。その痕跡がBで2割を占めている。航海技術の交換も半端ではなかった事が推測される。

倭人は航海術を向上させて江南に渡り、若しかすると更に南下し、東南アジアの女性とも恋愛してF、M7bc、を連れ帰った。漢書地理誌に書かれた、海南島の民が倭人女性と同じ貫頭衣を着ているということは、そこに出掛けたのは倭人男だけでなく、倭人女性も出向いたか、倭人が連れ帰った女性かその子孫が、倭人習俗を持って再び故郷に戻ったかの何れかだろう。縄文時代の長い交流が文化の類似性を産んだと解釈されるから、略奪婚ではなかったことになる。

M8a、即ち漢人の女性が居るという事は、二里頭や殷・周への宝貝の販売代金が女性という財貨で支払われた可能性を示す。M8aは漢人男性の当初ペアだったと推定されるから、二里頭時代にはその比率は高かったと思われるが、支払われた総女性財貨はM8aの数倍だったとすると、子孫は実質1割程見込まれる。それにしても、海洋交易民族であるY遺伝子D2は余りに多数の女性を日本列島に連れ込み、当初ペアだったN9bは居なくなってしまった。Y遺伝子O2b1の当初ペアだったM7aも僅かしか見つからない。関東平野の縄文人はブームの様に江南・東南アジア巡りをし、宝貝交易と花嫁探しに邁進していたらしい。縄文時代早期から居たらしいのはD、G、A,M10で、M8効果を勘案すると3割にしかならないのに対し、海外から連れ込んだ東南アジア系と漢人は、B、F、M7bc、M8、M8効果を勘案したD、で5割近い。縄文人は南にだけ進出したとも言えず、沿海州とも交易していたから、北方系のA、M10もその過程での恋愛の結果である疑いも拭えない。

数千年かけてという事ではあるが、関東在住の海洋交易民族であるY遺伝子D2を持つ縄文人男性は、旧石器時代のペアだったミトコンドリア遺伝子をほぼ完全に失い、縄文前期までのペアだった混合ミトコンドリア遺伝子の半分以上を失い、海外由来のミトコンドリア遺伝子に変えてしまった。検体となった関東縄文人はいずれも海や河川に近い遺跡の人骨だから、海洋性の強かった倭人だと思われる。八ヶ岳山麓ににあった大きな縄文集落の住民は海洋性倭人とは言えないから、東北縄文人の様な状況で、列島全体がこの様な状況であったわけではないとは思うが、大変な事態を引き起こしているのは事実だ。

関東は縄文時代最大の人口密集地域だったから、縄文時代の倭人の指導的存在だったのかもしれない。少なくとも、南海の縄文人のお手伝いとして沖縄経由で江南や華北に進出し、宝貝交易に参加したということではなく、相当深く関っていたことになる。既にこの時代に倭人は、交易の為の何らかの組織体を持ち、その組織は関東縄文人を中核的に含む広範囲の組織だったと言えそうだ。更に言えば、これだけ混血すれば体形や顔付きも相当変貌していた筈だ。ミトコンドリア遺伝子Bが2割もあれば、言語も彼女等の影響でオーストロネシア的になってもおかしくはない。

全くの想像であるが、縄文中期以降、関東で成人した健常な男子は、海外経験のある指導者に率いられて台湾・江南・渤海湾にまで交易に出掛け、色々体験し、何人かは花嫁を帯同して帰還し、その後家庭を営むという、勇壮でロマン溢れる生活をしていたことになる。彼らが稲作農耕民になるのが、日本で最も遅かったというのも何となく頷ける感じがする。

余談だが、漢書地理誌に書かれた倭の100余国には関東の国も含んでいたことになる。倭の五王であった武の上表文に書かれた、毛人55国、西の衆夷66国併せて121国と符合する。

更に余談であるが、日本の皇室が彼らの血筋なら、系譜は恐ろしく遡ることになり、京都の人が関東の人達を東夷と呼ぶのも見当外れで、皇室は東京の故郷に数千年振りに戻ったということになる。笑い話に聞こえてしまうが、可能性は否定できない。奈良時代までの天皇家では、ミトコンドリア遺伝子を保存する婚姻が続いていた疑いがある。つまり、皇族の女性は天皇一族の妻になるという事で、こうしてミトコンドリア遺伝子も保存され、「おほきみ」の家系が尊い血筋を維持したと看做された可能性もある。

次に現在の沖縄の人を検証したい。372検体で、Dが4割、M7aが3割弱、Bが2割弱、Aが1割弱、M7ab、N9bが5%程、その他少々となっている。関東縄文人にあったGが欠落し、M7aが3割居る。篠田氏によれば、ミトコンドリアDNAは代謝に関係し、寒冷地向きと温暖地向きがあるとの事なので、現在シベリア北部やカムチャッカ半島で優勢なGは沖縄では生存しにくかった可能性がある。関東縄文人ほど浮気性ではない様だが、やはりM7aが多くN9bが少ない。Y遺伝子D2縄文人が、南から来たY遺伝子O2b1縄文人のペアを、ミトコンドリア遺伝子Dの次に多い相手にしてしまった。海洋民族で交易者だったY遺伝子D2が、本土から沖縄に配偶者として連れて行くのに、自分の一族の娘N9bよりも、異民族だったY遺伝子O2b1の娘をより好んだ。更に言えば、北方系Aは一旦列島に連れ込んでから再移住させたであろうが、それもN9bより多い。現代の日本女性にはN9bは2%しかいない。他のミトコンドリアと比べて何か生存上不利な要素か、母娘遺伝の病原を持っていたという様な特別な理由がなければ、N9b女性がひどく嫌われたことになる。

篠田氏によれば、沖縄のM7aは最も変異が多く、沖縄がM7a発祥の地であるかの様であるらしい。しかし沖縄は新石器時代になってしばらくの間、人類生存の痕跡がなく、縄文時代早期から中期に本土から人が渡ったらしいという考古学的検証があるから、M7aの沖縄発祥説はありえない。ともかく、縄文時代の最大のM7aの集積地は沖縄になり、弥生時代以降改めて沖縄のM7aが本土に再度拡散したことを意味する。想定できるシナリオは、N9bの様に、本土では一旦M7aはほとんど消滅し、再度沖縄から、他のミトコンドリアDNAの様な海外花嫁に衣替えして流入したことになる。縄文・弥生時代の男性は海外からの流入遺伝子を喜ぶ風潮があった様だ。隣の芝生が青く見えたのだろうか、それとも現代の様に根付いた女性とは口論しても叶わないから敬遠したのだろうか。この場合、東北縄文人の様にミトコンドリア遺伝子M7aやN9bを保存していた内陸縄文人と、海洋縄文人の関係が問題になる。縄文晩期に内陸縄文人の人口が激減した様だから、そこに理由があるのかもしれない。食料不足に陥った内陸縄文人は娘を財貨として食料と交換することを潔くないと考える人達だったことになる。そして彼らの人口は激減したのだろうか。

別のシナリオも考えられる。縄文交易が盛んになると皆が交易をしたがり、東北以外では海洋縄文人と内陸縄文人という区分が消滅した可能性もある。夏は八ヶ岳の裾野や安曇野に住み、冬は房総海岸に住むという2重生活者で、縄文晩期には夏の家を放棄したことを意味する。その辺りを検証できる証拠はまだ見つかっていない。

本土の縄文男性は盛んに海外の女性を求めたが、沖縄の男達は現代に至るまでさほどでもなく、その熱が薄かったのは何か理由があったのだろう。彼らは交易基地提供者で、真の交易者は本土から玉や黒曜石・琥珀などの交易品を持って中国大陸に出掛けた関東の縄文人だったという事かもしれない。M8aがいないから、宝貝も、彼らは採取するだけで、関東縄文人が交易を仕切っていたということらしい。沖縄で農耕が始まったのは10世紀以降という説が有力だと看做されているが、それは違うという事になる。交易で得た財貨で食料を輸入していたかもしれないが、縄文時代から焼畑農耕も行なわれていたと考えるべきだろう。M7a沖縄起源はそれでなくては成り立たないし、多数の縄文人が沖縄を通過して江南に向う為には、食料供給も必要だったと思われる。

篠田氏は山東・遼寧地域、韓国、日本の間ではミトコンドリア遺伝子の多彩な構成が近似している事を示し、何か意味付けしたがっているが、縄文人のこの有様を見れば、山東・遼寧地域から多数の移民奴隷を迎え入れた古墳時代以後の倭人のミトコンドリア遺伝子が、その地と類似しているのは当然だろう。韓半島の住民は元々山東・遼寧地域から流入した移民が多い筈の地域だから、両者の類似は当然だろう。山東・遼寧地域もミトコンドリア遺伝子の多様性の豊かな地域だが、それはその地域の物産の豊かさを示しているのだと考えられる。古代では、鉄などの必要資源を得るために、女性という有力財貨で支払われることもあっただろう。食糧生産性が高ければ、自然に周囲の貧民が集まって、娘を売りもしただろう。

弥生時代に北九州に居た人達の78体の統計では、M7aもN9bもいない。関東縄文人との違いは、N9a、Zが加わっていることだろうか。N9aは中国の南部や台湾に多いから、江南との交流が想定される。Zの分布は良く分からないので論評しないが、吉野ヶ里遺跡の時代に倭人は連合国を作って漢と交易し、広範な地域から女生口が九州に送られて来て、当地の人と混合しただろうから、弥生時代以降のミトコンドリア遺伝子構成で何かをコメントするのは難しい。現代日本人に更に複雑な組み合わせが現れているのは、古墳時代に大量の移民奴隷を送り込んだ結果で、民族移動とは関係ない話になる。

以上から分かるように、縄文人的骨格とか、弥生人的風貌とかの概念は意味を持たない。関東の中期縄文人は既に海外女性との混血で、時代が降るほどに当初の純血性は失われていく。北九州の弥生人には当初縄文人のミトコンドリア遺伝子が存在していないから、混血男性が更に海外女性との間に設けた子供という様な関係を重ねていた疑いがあり、縄文的風貌という言葉が何を意味するのか一考を要する。弥生人とは混血児の事に他ならないことになる。それでも猶縄文的風貌が見える頭骨が発掘されるのであれば、その形態は環境要因ということになってしまうだろう。

倭人と日本人に関しては、海という障壁があったお陰で、この様な生々しい情景を描写できるが、陸続きの大陸内部では更に複雑な動きがあっただろう。日本人と比較すると、山東・遼寧や韓国の方が複雑で細分化された構成になっている様に見える。倭人は遠くまで航海して集めたのだが、大陸の民はどうやって遠方のミトコンドリア遺伝子を集めたのだろうか、不思議な事だ。

  ここで、縄文人が海洋民族になった理由についてもう少し深く検討してみたい。北海道の縄文人は樺太に進出してアスファルトを採取し、千島列島に進出して海獣を捕獲していた。どんな船を使っていたのか分からないが、1500年以上前から、続縄文人やアイヌが使い続けてきたイタオマチプという最大20人程が乗れ、オールで漕ぐ舟があったから、そこから縄文時代の船を想像出来るかも知れない。イタオマチプは釘を一切使わず、ロープや樹脂などを使って建造した船だから、類似の船は縄文時代にも作れた筈だ。丸木舟の上に舷側用の板を張り、オールを固定する突起がその上にあり、舳先も海の波が切れる様に切りあがり、アイヌはそれで千島列島を往来した。アイヌは縄文人とは違う文化の人(別の人種という意味ではない)だから、全く同じ船とは言えないかもしれないが、類似の構造だった可能性はある。

 縄文時代前期(BC5000年以降)、Y遺伝子D2の稚拙な海洋民族が、関東辺りの海岸でY遺伝子O2b1から樹木を加工しやすい石器の作り方を習得し、沖縄を南下して台湾に到達し、オーストロネシア語族の人達と数千年の交流の後に航海技術を高度化し、中国沿岸で交易を始めた。青銅器時代(縄文時代)に既に中国人の戦争の仕方に恐怖を感じ、中国の勢力が列島に及ぶ事を極度に恐れた倭人は結束し、中国で鉄器が使われ始めると色々な工作をして中国の造船技術を盗んだ。徐福伝説はその工作が始皇帝にまで及んだという事だろう。しかし大型船を作る技術競争に勝つ見込みはないと判断した倭人は、日本列島の地理を中国人に偽って教え、渡航ルートを隠し、日本列島ははるか大洋の彼方にあって中国人には渡航できないと思い込ませ、秘密結社的団結で真の情報を秘匿した。この方法は大変有効で、1000年間中国人を騙し続け、日本列島への中国船の渡航を阻止し続けた。

 中国の勢力は時代を追うごとに朝鮮半島を南下し、古墳時代に高句麗が半島を統一しそうな勢いになると、倭人も国家統合して半島に出兵し、南半分を勢力圏に納めた。商業民族であった倭人は、農業生産性の低い半島を領有する積りは無く、現地人国家を統制するために、職業軍人を多数常駐させた。5万の兵を動員できる高句麗と対抗するためには、同等の兵を送り込んでいたと思われる。費用は交易で捻出し、食料は関東に移民奴隷を入植させる事で賄った。

 唐代、中国は遂に半島南部にまで勢力を広げ、倭人の伝統的安全保障政策は破綻し、朝鮮海峡の地理的秘密は暴露された。これにより、倭人国は破綻・壊滅し、新たに親唐的で海洋交易を好まない政権が生まれ、鎖国的な日本が誕生した。飛鳥時代末期の事になる。江戸時代初期まで東南アジア経由で明との交易に活躍した日本人が、キリシタン禁教と鎖国によって突如江戸時代日本人になった状況と似ているかもしれない。

 この日本政権は倭人国の伝統を破棄し、沖縄を見捨て、唐に媚を売り、唐の制度を積極的に導入した。日本人は倭国時代を忘れ、唐に献上するために書いた日本紀物語を日本の歴史だと誤解するまでになった。日本書紀は隋・唐に反抗的だった倭国の歴史を抹殺した意味不明の物語に過ぎない。唐は中国船による交易を志向し、9世紀以降は唐の船が日本の港に来航する様になる。宋代には中国船が交易の表舞台に登場し、中国人が博多に常駐する様になった。沖縄は日本を見限り、10世紀以降独自の交易による発展を目指し始めた。

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2013年2月10日 (日)

江南的倭人と内陸的日本人が飛鳥時代に対立した。

 飛鳥時代、倭は隋と唐に朝貢し、唐代、倭に代わって日本が朝貢を始める。日本は倭の後継国だが、唐にその交替の経緯を説明しなかったから、どんな勢力がどの様な過程で交替したのか分からない。古事記や日本書紀にそれらしい事は書かれていない。古事記や日本書紀は倭人伝に記載された事績を殆ど無視している。倭人伝の内容には一貫性があるが、古事記や日本書紀は創作性が疑われ、倭の歴史を抹殺している。但し天皇の系譜は倭から日本になっても変わらなかった。摂関政治や幕府政権で皇室は政権の権威を認める役割を果たしたが、太古の昔からこの役割を続けていたのではないかと思われる。

倭から日本への変化は何が原因で、どの様な過程を経たのか、記録が無いので見当を付けにくい。倭国伝に書かれ倭と、続日本紀に書かれた日本を比較してみる。

統治制度について、倭では「国」は地方政権を意味する。中国人の認識では「国」は独立した政権を意味する。魏の使者は狗邪韓国、対馬国、一大国、末盧国、伊都国と国名を記し、邪馬台国に至る。隋の使者も、いき国、ちくし国、秦王国、を経て倭国に着く。唐も倭国に使者を派遣したが経路の記述はなく、四面の小島五十余国は皆倭国に付属するとだけ記している。魏志と旧唐書では倭には国を監督する一大卒と呼ぶ役職があり、諸国が恐れているとしている。中心となる邪馬台国や倭国に大王が居り、独立性の高い小国を従えていたらしい。一方、日本では中央政権に任命された国司などの官僚が統治する中央集権国で、地方の国名は筑前国などの様に行政区画の単位になっている。後世まで日本では県単位の広さを「国」と呼ぶが、これは倭の伝統を引き継いだものに見える。国司は当初国の王が任命され、その期間が長かったからだろうか。

 中国との通交に関し、倭は邪馬台国以来、魏、隋、唐王朝の正式な使者だけを受け入れ、商人は歓迎しなかった。倭に渡って来るには倭人の船しか手段がなかったから統制は容易だった。邪馬台国では帯方郡の使者は伊都国までしか入国させなかった。隋の使者が山口県辺りで見た中国人の国である秦王国について、随書を書いた史官にもその素性が分からなかった。秦王国の中国人は船で移動する事が出来ず、大陸から来る中国人と接触していなかった事になる。隋代になっても中国商人は倭に脚を踏み入れず、官人も滅多に訪れなかった事を示している。これは倭の秘密主義に由来する。正式な使者が渡航して来た場合には、日本列島に関する偽の地理情報を与えて中国人の認識を撹乱し、中国人が日本列島や沖縄に航行して来ることを阻んでいた。中国の使者も、皇帝が派遣したというより倭の大王が招聘し、史官はそれを派遣と記録したのだろう。邪馬台国以後中国から使者を受け入れる様になったのは、中華勢力が韓半島へ南下したからだと考えられる。春秋戦国時代には、中国人にとって倭は実態不明の国だったが、秦・漢時代に半島南端まで中国人が移民した。

 倭から日本に変わり、新生日本の使者が唐に朝貢した時、従来の秘密主義を変更し、日本列島に関する正しい情報を伝えたが、唐朝の人々は却って嘘を言っているから信用できないと判断した様に見える。日本列島の地理に関する倭の時代の唐への説明は「倭は新羅の東南の海中にある島で、東西は5ヶ月の行程、南北は3ヶ月の行程、近辺に50程小島があり、皆国を自称しているが、倭に従っている。」と相変わらず訳の分からない状態だが、日本になってからの最初の使者の説明は「国都は数千里四方あり、南と西は海で終り、東と北は大山が境界になり、その外には毛人がいる。」という事で、数千里を1000~2000kmとすれば東北を除く日本の広さだから、国土総てを都とする思想があれば、ほぼ正しく日本の地理を述べたことになる。畿内の一部が倭国で、そこを都(みやこ=王の宮殿のあるところ)と呼んでいたが、日本列島が統合されその倭国が消滅した場合、本州が「みやこ」と呼ばれ、それを漢字の都と表現したとしても、理解出来ない話ではない。中国に嘘を言い続ける積りであれば、従来の嘘を変える必要はない筈だ。状況証拠からは、正しく申告する方針に変更した様に見えるが、今まで嘘を言ってきた倭人達がある日から正直になっても信じて貰えないのも当然である。唐と友好を深めて政治制度を学び、僧侶などを招聘する必要があれば、開国せざるを得なかっただろう。

 日本の使者が従来の秘密主義を捨てたとすれば、新唐書に記された日本の使者の「日本は昔小国だったが、倭国の地を併せた。」という説明も、その通りだったかもしれない。日本という名前の権力集団があり、倭国と覇権を争って勝利し、天皇から政権を付託されたことになる。皇族の系譜は倭国時代から繋がっていた。「日本」は和語ではないから、古代国家を複数統合した連合国家名だったのだろう。「にっぽん」は呉音だから、漢音で学んで来た遣隋使や遣唐使経験者が日本を作った訳ではない様だ。

 随書によれば、倭国の王「あめ氏」は隋の使者を迎えるに際し、小徳(12等級の官職の2番目の位)の官人に数百人の供揃えを付けて派遣し、武装した兵隊を整列させ、太鼓・ほら貝を鳴らし、使者が海岸(多分大阪湾)に着いたところで派手に出迎え、10日後にまた二百余騎を従えた大礼(12等級の官職の7番目の位)を派遣して都の郊外で出迎えさせ、倭国王は都に到着した使者と会見した。」とかなり派手な歓待をしている。倭国王は後宮に女性を6~7百人も抱え、臣下を朝廷に集める時は必ず武装を整えた兵隊を整列させ、倭の音楽を演奏させる。楽器には五弦の琵琶、琴、笛がある。倭人は碁、双六、さいころ博打が好きで、毎年正月1日には必ず射的競技をし、酒宴を開く。などと書かれた倭王の生活は奢侈で派手な印象がある。

 一方の日本では、正月1日に天皇は大極殿で官人の朝賀を受けるだけで、大宝元年にこの儀式の文物の儀礼が定まった。正月中旬に百官と酒宴を開くが、十分に酔ったというくらいの記述で、他の記述と併せて華美を好む風潮は見られない。朝廷の儀式の礼法を定め、皇族と5位以上の者に食封を地位に応じて与え、正月に人々が行き来して拝賀の礼を行なう事を止めさせ、博打や賭け事をして遊び暮している者を取り締まった。

 倭には交易国家的・古代国家的な華美な雰囲気を感じ、日本には農業国家的・中世的な質実剛健の気風を感じる。

日本は唐の使者を招聘する事はせず、鑑真、菩提僊那(インド人)、仏哲(チャンパ)、道璿などの高僧を招いている。鑑真以外は北朝系の高僧で、道璿は鑑真に先立って渡日し、鑑真同様日本に戒律を伝え、彼の開いた大安寺は東大寺、興福寺と並ぶ南都7大寺の一つで、唐招提寺より格が高かった。奈良時代の北朝的な国家鎮護仏教は政権と結びついていたが、小乗的な南朝仏教を信奉する日本の僧侶の多くは鑑真から授戒された。これは奈良朝日本政権の脆弱性を示すと考えられる。

平安時代は再度倭人的貴族文化が盛り返し、王朝文化を再現したのではないかと思われる。奈良朝的日本が再度復権したのが鎌倉政権であったとすれば、飛鳥時代の動乱を平安末期の歴史から類推できるかもしれない。平安政権の崩壊には、朝廷と地方双方に事情があった。朝廷では藤原氏政権に綻びが出来て政権内部に深刻な対立が生じ、地方では農地の所有権が不安定だった。

飛鳥朝廷内の問題として、神道と仏教が対立した可能性がある。奈良朝権力は中国北朝系の国家鎮護仏教に傾倒したのに対し、倭の仏教徒の主流は南朝系で、国家権力と結びつく意図は弱かった様に見える。平安朝は国家鎮護仏教を捨て、神社信仰を復活させ、本地垂迹説を起して南朝系仏教と宥和した様に見える。諸国の国分寺は平安時代早々から衰退していった様だ。ここから見えるのは神社と仏教の対立ではなく、古来の神信仰を守り、南朝仏教を受け入れた、海上交易にこだわる保守伝統主義の倭と、唐の文物を丸ごと受け入れようとする開国主義の日本という対立構図になる。幕末の尊王攘夷派が開国に傾いていく模様を意識しながらこの時代の動乱を考察するのも有意義だ。

地方の対立は移民奴隷制と戸籍制度の選択ではなかろうか。戸籍を作るのは、農民を家族単位で把握し、彼らの土地所有を安堵し、国家的土木工事で生じた墾田を平等に分配する仕組み作りだったのだろうか。奴隷姓は大規模農地経営を連想させ、厳しい身分制に基づく貴族制を連想させる。奴国・邪馬台国時代に奴隷が重要商品として売買された事と、飛鳥時代に戸籍が作られた事には大きなギャップを感じる。古墳時代はその中間期だが、日本中に大規模な古墳が盛んに造られたから、貧富の差の激しい貴族制だったことが覗われ、飛鳥時代が過渡期だった可能性が高い。現代人は、班田収受は無理な制度だと感じるが、唐にそのモデルしか無く、戸籍制度導入による中央集権制を志向すれば、その制度を伴う事になったのは仕方ないだろう。かくして奈良時代は短命に終る。唐でも班田収受は早々に破綻した。

奈良時代は女帝が多く、卑弥呼と台与の時代を連想させる。男の王では争いが止まなかった故に選ばれた女王卑弥呼から連想するのは、飛鳥時代は戦乱の時代だったという事だろうか。卑弥呼が鬼道に向い、奈良の天皇が国家鎮護仏教に傾倒したというのも何かの関連を感じる。

 続日本紀の天皇の言葉に、「天皇の系譜は高天原にはじまり、遠い先祖の代々から現在に至るまで皇子が、神が授けた順序で皇位を継ぎ、大八島国を治めてきた。天智天皇が不改常典を定めた。」とあり、皇統は断絶していないし、奈良的日本の創始者は天智だと主張している。

日本権力成立時の権力構造は、文武天皇の夫人は藤原不比等の娘、嬪は紀竈門の娘と石川刀子の娘で、大宝元年(8701年)の職制は、左大臣多治比嶋、右大臣阿部御主人、大納言石上麻呂、藤原不比等、紀麻呂となっている。708年に、左大臣石上麻呂、右大臣藤原不比等、大納言大伴安麻呂となっている。多治比嶋は皇族。阿部御主人は壬申の乱で功績があり、仲麻呂の祖父とされ、体制推進豪族で藤原氏と婚姻関係を持つ。藤原氏は車持氏との関係、鹿島神社との関係などから、関東に勢力拠点がありそうだ。

 以上を材料に、倭の五王の上表文、高句麗の好太王碑文などを参考に、少し大胆に卑弥呼以後の倭の状況を推測する。統制の取れた秘密主義で交易国家を運営していた倭王は、半島や遼寧で移民奴隷を調達し、江南や倭国内に売って利益を得ていた。倭王は朝鮮・対馬海峡の地理を秘密にする状況を維持する為、中国や高句麗の半島南下を阻止する必要に迫られ、半島に出兵した。出征兵士は職業軍人で、半島南部に武器を製造する製鉄工人も送り込んだ。朝鮮半島の農産物は雑穀主体で、米は南端で生産できるだけだから、万単位の兵の食量は賄い切れない。当初、米は鉄の交易で関東からも購入していたが、食料増産の為に関東を征服し、移民奴隷も送り込んで食料増産に励んだ。群馬・栃木を指す「毛の国」、東国を指すらしい「毛人」は、毛=「け」=食で、軍隊の食料を賄う地域を意味した。やがて軍人の調達も関東に依存する様になる。

 大農地を所有し、交易で奢侈品を得て優雅な暮らしをする貴族と、軍隊や交易船の船員に提供する食料を生産する農民との貧富の差は甚だしい状況だった筈だ。生産量が投入労働に比例する農業では、大農場で奴隷が生産する農産物の方が販売価格は安くなる。自作農が、奴隷制大農場経営者と農産物の販売価格で競争しても勝てないから、流通経済に晒される自作農は貧しい小作農に転落せざるを得ない。非農業労働従事者には廉価な農産物が提供され、貴族や交易者・職人には有利な制度だ。関東に入植した倭人は、兵士の供給源になっただろう。農民兵ではなく、職業軍人として。それは関東だけの出来事ではなかったかもしれないが、農業生産に依存する度合いが高い地方に顕著な出来事であった筈だ。

中国が隋に統一されて遼寧での移民奴隷調達が困難になり、中華の軍隊が半島を覗う様になると半島の維持には一層の軍事力の増強が望まれ、農民への租税負担が増加した。南朝から伝来した小乗的仏教は特に体制批判的ではなくとも、人々の個人的意識を目覚めさせ、小作・奴隷制への批判を高めただろう。唐王朝が成立すると、秘密主義的鎖国状態の継続を是とするか、開国して親唐的になり唐文化を吸収するか、という対立が始まり、開国派は重税感を持つ中小農民層と連携し、旧守的鎖国交易派との対立が先鋭化したというのは一つのシナリオになる。

 7世紀に隋・唐で学んだ僧は、戸籍制度に基づく中央集権制を学び、開国派はその制度の導入を旗印に結束した。開国派は交易的には鎖国派で、唐の制度や文物の導入に開国的というおかしな状況で、旧守的鎖国交易派は、海外での中継交易による利益で日本に鉄や青銅素材という必需品と鏡などの奢侈品を持ち込んだ。鉄や銅が自給できる様になると、存在価値は薄らいだだろう。唐と百済・高句麗の興亡を賭けた戦いへの参加に関して、国内に是非論があった筈だ。半島を放棄して海峡を守れば良いという意見もあっただろう。半島で唐の陸軍と戦うのは敗戦リスクが高い。倭人が唐の海軍を恐れるまでの必要があったとは思えない。徹底抗戦派は半島に渡って唐の軍隊と戦い、白村江で敗北した。倭国にしてみれば、元々新羅が半島を統一した方が望ましかった筈だ。半島が3国に分裂していては、唐に対抗できない。倭国内にも新羅派はいただろうし、彼らは新羅が唐から自立する際には新羅に肩入れした筈だ。

663年に白村江で旧守抗戦派が敗れ、国内は内乱状況になり、672年の壬申の乱が天下分け目の最終決戦だったのだろうと、考えたくなるが、それが怪しい。

東国を中心とする農業勢力が勝利を収め、唐の制度を学んだ勢力が権力を握り、唐風日本に改造しようとしたのが続日本紀の示す奈良時代だろうと考えると、壬申の乱で勝利した天武天皇が遣唐使を派遣していないのは腑に落ちない。むしろ白村江で敗北した責任者に見える天智天皇の方が積極的に遣唐使を派遣している。当時の朝廷は相当混乱していた様だ。

天智天皇を担いだ奈良朝的勢力は、不本意な白村江の敗戦の責任を追及され、壬申の乱で一旦朝廷を追い出されたのだろうか。大敗したのは斉明天皇で、開国を決意したのが天智で、壬申の乱で旧守派が担ぐ天武が権力を握り、開明派が持統を担いで逆転し、奈良朝に至ったという様な、複雑なストーリーだった様に見える。記録があっても分かりにくいから、日本書紀的歴史観では到底説明不能だろう。

日本書紀がこの様にあてにならない歴史書である理由は幾つかあるだろう。一番の理由は、正確な歴史を伝える伝統が無かったからだと思われる。日本人は話し合いで物事を決める民族だから、決定事項だけあってその理由も利害得失も不明瞭になることが常だった筈だ。因果関係が分からなければ事績の軽重が判断できず、結局総てが忘れ去られるという事態が頻発しやすい。争いを避けるためには、水に流して積極的に忘れるという発想もある。

専制的リーダーなら皆を説得する必要があり、勝利した場合には後付の麗々しい理由が創作され語られるだろうから、そんな場合には歴史物語は創られ易いが、残された話が真実だという保証もない。勝者によって歴史が語られるのであれば、明らかに不自然でも違和感を持つ事は許されない。それが中華式歴史観の様だが、蛮夷の事については冷静だった様だ。

第2の理由は、権威の根源を天皇の任命に委ねてしまう日本人には、職責を全うする以外に必要な事はないという状況だろう。業績を他者にアピールして自分の立場を良くしようとする行為は、説得したい人々に対して行なわれるものだから、目的を同じくして努力している人達に上下関係があっても、部下が上司に自分の実績をアピールする必要はない。言わなくとも見れば分かる世界なのだから。目的を同じくして努力している人達の社会では、歴史的因果関係を明らかにする必要はなく、誰も歴史を語らない。そんな世界では、歴史を書く人も創作せざるを得ない筈だ。歴史は集団の存続を目的に、対外勢力との葛藤として語られ書かれるべきものだから。

倭から日本への交替は歴史の大転換だったのだろう。その動乱のために何10年も費やしたと思われる。中華世界の統一と朝鮮半島への南下は航路秘密主義で海上覇権を握っていた倭人に方針の大転換を迫るものだった。当時の倭人は恐怖感や切迫感を持って、幕末の勤皇の志士達の様に激論を繰り返し、主義主張のために命を落とす人もいたかもしれない。幕末でもペリー来航から明治維新まで、20年かかっている。倭人にとって隋の高句麗征伐は江戸日本人にとってのアヘン戦争の様な意味があった筈だ。

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2013年2月 5日 (火)

魏志倭人伝に書かれた倭人と江南の関係

中国の王朝では史官が出来事を記録し、過去の王朝から引き継いだ記録を読み、前王朝の歴史を編纂した。漢・魏・晋代までの中国人は隋以降の人と比較すると実証的観察眼と、検証的発想を持っていた様に見える。

 魏志倭人伝は倭人の江南的習俗を説明している。「倭人の男子は大人も子供も皆顔や身体に入れ墨をしている。昔から中国に来る倭の使者は皆自分のことを大夫と言う。夏王朝の少康王の子が会稽に封じられ、断髪して身体に入れ墨をして大蛇の害を避けたという伝承がある。倭の海人が盛んに水に潜って魚や貝を捕らえ、入れ墨するのは同じ様に大魚や水鳥を威圧するためである。後に次第に入れ墨を飾りにする様になった。倭の諸国での入れ墨の仕方は各々違っていて、ある者は左に、ある者は右に、ある者は大きく、ある者は小さくという風で、位によって差がある。倭の位置を計算してみると、丁度会稽郡東冶県の東にあたる。」「男は皆かぶりものがなく、木綿で鉢巻をしている。着物はひと幅の布をそのまま横に巻き、紐で結んで繋げるだけで、ほとんど縫う事はない。女は髪をばらして曲げて束ね、衣はシーツの様に作り、その中央に穴を開け、そこに頭を通して着る。」とある。単なる紀行文ではなく、他の歴史書との関連を意識して書かれている。

 ここから読み取るべきことが二つある。先ず、「夏王朝の少康王の子」という系譜を出す事によって、倭人の入れ墨の風習は越(春秋時代に会稽を都にした国)に由来していると匂わせている。魏志に少し先行して書かれた魏略は散逸したが、引用文から復元されたものに、魏志と同じ内容に加えて「その言い伝えを聞くと、自分の事を太伯の後裔だと言う。」がある。魏志の作者陳寿は同じ資料を読み、魏略を読んでいたかもしれないが、これを採用しなかった。実は魏略の方が矛盾している。太伯は呉(春秋時代)の王の先祖で、周王朝の系譜になる。夏と周は違う民族である。春秋時代に呉越同舟と言われ隣り合い争い合った2国は同じ越族の国だが、王の系譜が違う。夏王朝は殷に先行する王朝で、現在考古学的にはその存在は確定していない。殷に先行する二里頭遺跡から宮殿跡が発掘されているが、甲骨文字は発掘されないから夏王朝の宮殿とは決められない状況である。陳寿は夏王朝の実在を信じ、倭人の王は呉の王朝の系譜ではないと判断し、「太伯の後裔」という文を採用せず、消極的に越としたと推定される。倭人の男王も卑弥呼もこの系譜との推測を基礎にしている。中国では、入れ墨は春秋時代には既に過去の蛮族の風習だったらしく、史記、呉越春秋、漢書地理誌には江南にこの風習が残っていたとは書かれていない。越族の入れ墨は大蛇の害を除くためだから、越族が海洋民族だとは考えられない。

 「使者は皆自分のことを大夫と言う」と書けば、春秋戦国時代の匂いを感じ、呉か越かという問題を意識した筈だ。史記を読めば、「大夫」という身分はその時代頻繁に出てくる。周王朝が衰え、地方政権の王が独立して力を得た春秋時代、その王を補佐する重臣達を「大夫」と呼んだ。倭人の使者はその意味の「大夫」と言ったのだろう。漢代にはその表現は廃れていた。陳寿も魏略の作者も、倭王の系譜は呉か越だろうと考え、魏略の作者は判断が付かず、陳寿は呉ではないと判断した様だ。「大夫」は日本では奈良時代以降も使われたから、卑弥呼の使者もその様に名乗ったかもしれないが、魏志倭人伝には使者の応答に関する記載はない。内容が重複する当然の事は書かないからかだろう。

 読み取るべき第2は、倭人の男女の民族衣装だ。漢書地理誌に海南島の住民の風俗について、「民皆服布如單被,穿中央為貫頭。男子耕農,種禾稻紵麻,女子桑蚕織績。民有五畜」と書かれ、魏志のこの部分の記述と似ている。魏志では「婦人被髮屈、作衣如單被穿其中央、貫頭衣之。種禾稻紵麻、蚕桑、緝績、出細紵、緜。其地無牛馬虎豹羊鵲」であり、漢書地理誌を参照している様に見える。倭人女性と海南島の男女が同じ服装で、倭と海南島では、稲、からむし、麻を栽培し、桑を植えて蚕を飼い、物産が概ね同じとしている。男の服装は倭人独特で、倭には牛馬羊がいないが、海南島の家畜は中国と同じ種類だ。しかしその解釈は陳寿にできなかったらしく、記述されていない。

 この事は倭の起源に関し、陳寿を悩ませた筈だ。倭人は昔の越族の様に入れ墨をしているから、同じ様な目的で始めたのだろうが、今では飾りとして使っているとして、入れ墨の越族起源を主張しているわけではない。比較的新しい周の王族系譜では倭の王族は説明できないと感じ、更に遡るかもしれないという曖昧な表現にせざるを得なかったと思われる。男が断髪して身体に入れ墨をするのは古い越族の風習、女の衣類や作物・養蚕・物産は海南島の風俗、倭の女は独特の髪型をしている。倭の階級制度は400年以上昔の春秋戦国時代の呼称を使い、600年前の春秋時代に滅んだ呉の王が周王朝の一族の末裔だと知っている。陳寿が推測したのは、勇猛な呉や越が興る前に、その地に海南島の民が居たのではないかということではないだろうか。証拠はないが中国では珍しい事ではない。しかし伝承がないから記述には該当せず、読者に推測して貰うしかない。

 日本人は、目新しい事は皆伝わって来たと考えるが、この様に倭人が複合的文化を持っている場合、倭人がオリジナルで、越が入れ墨を真似し、海南島の住民が貫頭衣を真似したという方が、話が分かりやすい。縄文時代の土偶には入れ墨の存在を連想させる模様が描かれたものがあり、縄文人は入れ墨の習俗を持っていたと推測されている。越は殷・周時代には荊蛮と呼ばれた蛮族だから、倭人が殷・周文明に影響を与えたというわけではない。陳寿はふとその疑念を持ったかもしれないが、それは中華思想に反するから、記述できない想定であっただろう。それであれば倭人は江南から華中の沿岸に、遅くとも夏王朝期(BC1500年以前)には出没していたことになる。越族は後に中華文明により強く影響され、漢代には中華民族的になったが、越に圧迫されて南方に逼塞した海南島の民族は衣装や物産に倭の影響を残しているという説明になる。陳寿は呉誌も書いたが、そこには倭人は登場しない。しかし陳寿は倭人が会稽に出没していた事は知っていただろう。それでも敢えて書かなかったのは、この事実に触れたくなかったからではないかと推測される。

 倭人が春秋戦国時代以降中華の政界と縁を切ったのは、やはり宝貝のビジネスがなくなったからではないだろうか。春秋時代に中華の各国の王に宝貝を売り、倭人のリーダーが「大夫」と呼ばれていたのではなかろうか。しかし貨幣が青銅製に替わると、倭人はその地位を失って中華の政界との縁が切れたと想定すれば、辻褄が合う。

 交易が周王朝から各国に広がった時点で、各国の方言に対応するために倭人は漢字を習得しなければならなくなった筈だ。そこで習得した漢字を倭人は一体何処の民族の音で読んだのだろうか。「夏王朝の少康王の子」「太伯の後裔」と想定されるのは、当時の江南音で読んだからだろう。倭人語は語順が違うから、漢文は中華のどこかの音で読まなければならない。その倭人訛りの音は生活用語と無縁だから、長い間変化しなかった可能性がある。つまり、日本の現在の呉音は春秋戦国時代に呉越で使われていた音を残しているとか、更にその基層となって単音節倭語となっている可能性がある。身体や植物の部位に関する単音節語が多い事が気になる。

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2013年2月 2日 (土)

倭人の交易相手は江南だった。

  三国志呉誌によれば、呉の人は会稽の東の海上に夷洲、亶洲があり、数万戸あると考えていた。1万人の兵隊を夷洲(台湾)に派遣し、労働力不足を補うための人狩りをし、数千人を捕獲したがそれを上回る多数の損害を出したと書かれている。損害は難破などの行方不明であろう。亶洲には到達できなかった。呉誌には倭についての記述はない。

  漢代既に倭人の朝貢を受け、光武帝が金印を下賜していたのに、時代が下る呉で認識していなかった筈はない。倭人は会稽の市で交易し、移民奴隷を毎年千人ほど送り込む、知られた民族だった筈だ。呉は徐福伝説は知っていたが、徐福が率いて海上に乗り出した男女数千人は会稽の東の亶洲で数万家となっていると認識し、倭と亶洲が同じとは考えていなかった。会稽の東に日本列島はないからその認識は正しい。間違ったのは、会稽の東に亶洲があるという認識だ。

  時代は300年も下るが、随書に非常に酷似した話がある。煬帝の命令で武官が正体不明の島である流求(台湾)を調査し、住民を帰順させようとしたが拒まれたので戦をし、捕虜数千人を中国に連れ帰ったという記事で、調査の段階で住民の麻の鎧を奪って持ち帰り、たまたま朝貢に来た倭人に見せたら、それはイヤク国の人のものだと教えてくれたという内容が含まれている。呉と全く同じパターンに見える。

倭人は海上の地理を秘密にし、中国人は沖縄や日本列島に行くルートも各々の島の規模も知らなかった。倭人は江南に頻繁に出掛け、南朝に朝貢を続けていたにも拘らず、300年間秘密は守られた。

呉と同時代の魏では、卑弥呼が朝貢した時、魏の使者が日本の地を踏んだ。倭は「楽浪海中にある」という事しか分からない状態から相当進化したが、江南方面に関する知識はさほど進化していない。魏志では邪馬台国は会稽の東の海上にあるに違いないと記している。呉が夷洲を騒がしたのに、倭人からそれに関する話を聞かないから、夷洲、亶洲は倭ではないと判断している。魏の使者の見聞録を基に記した魏志倭人伝の邪馬台国への里程が不可解だから、現在邪馬台国論争が盛んであるが、中国人の使者が判断を誤った故に里程を認識出来なかったのではなく、倭人が使者を騙したという観点で見るべきだろう。ここでも倭人の秘密主義が発揮されている。

具体的に倭人の手口を検証する。魏志でも、中原に近い陸地の距離は比較的正確で、高句麗(丸都)は遼東(瀋陽)から東千里とされている。漢代の一里は415mだから、丸都と遼東(瀋陽)の道路距離が400kmということだが、現在の地図上で直線距離は250kmだから、曲がりくねった道を使えばそんなものだろう。韓(馬韓・辰韓・弁韓)は方4千里だから、半島の幅は4千里としている。つまり、朝鮮半島は幅1000km位と書かれていることになるが、実際は300km前後である。後世の中国の地図で半島が過大に描かれる根拠なのではなかろうか。帯方郡から狗邪韓国(半島の南端にある倭人の国)まで7千里、対馬・壱岐・唐津まで各1千里と記している。狗邪韓国までは4倍以上、海峡は5倍以上の誇大表示になっている。ここは船だから、倭人がゆっくり操船するなどで誤魔化せる。但し、狗邪韓国への旅程は、方形の韓の2辺を航行することになるから、それを7千里とするためには、韓は方4千里という虚構が必要になる。つまり、韓については倭人が詳しく、中国人は不案内だったから、倭人の誤魔化しはここから始まっているということになる。それであれば弁韓での製鉄や、楽浪・帯方郡への供給は倭人が船でしていたことになるだろう。

使者は九州に上陸し、伊都国まで草や木が繁って前を行く人が見えない道を歩かされ、五倍以上に誤魔化された。奴国までは平野を行くのでさほど誤魔化せず、2倍程度の里程が記されている。案内する倭人が少し回り道したのだろう。ということで、倭人が誤魔化したと想定すれば、すべてに辻褄が合う。倭人は呉がどの様に間違っているか知っており、恰も邪馬台国が亶洲の近くにある様に説明したのだろう。何故その様に騙すことが望ましかったのかは分からないが、呉も魏も倭人が望む様に騙され、倭人の交易ルートは隋代まで露見しなかった。

漢代には中国人も沿岸航行は出来たから、その気になって航路を探せば、探せない事はなかった筈だ。一方、倭人にしてみれば、海上交易を独占したいから、制海権を維持したかった筈だ。制海権は武力で守るのではなく、沖縄廻りの島伝いの航路と、帯方から南の航路を秘密にすることで守っていたと思われる。単に秘密にするだけでなく、日本列島を過大に遠方にあると思わせ、渡航の企てを断念させる工作をしていた。台湾以北の西南諸島に中国船が入り込めば、襲撃して沈めてしまうくらいの事はしただろう。中国人は難破リスクが高いと思い込まされ、裏を知ることはなかったことになる。漢~隋の時代、中国人は大洋に船出する意思があったのか無かったのかは、倭人のこの意思がなかった場合の事になるから、歴史のIFに属する話になってしまう。倭人が大陸上で中国人に、何処から奴隷や商品を獲得したのか聞かれたら、夷洲、亶洲という好い加減な話で誤魔化したのだろう。

三国志呉誌や後漢書に書かれた、『嵐に遭ったが亶洲に漂着して助かった会稽郡東冶県の人がいる。』という記事は、極めて珍しい事だから個人を特定したのだろう。会稽郡東冶県は倭人が台湾から江南に向かって航海した場合最初に停泊する場所になる。襲撃して見て分かった世話になった知り合いを会稽に戻すわけにもいかないので消息だけ伝えたか、九州に流れ付いたから倭人の秘密を知らない人として友好のために送り返したか、短い文からは窺い知れないが、そう解釈すると辻褄が合う。

1万人の軍隊を船に乗せて人狩りをする呉国の野蛮性は、華北や華中からの流れ者が作った国だからと思うが、元々漢と交易していた倭人は華北・華中の中国人の恐ろしさを認識し、航路の秘密を守る事が如何に倭人にとって大切な事か、十分知っていただろう。対抗するには完全な制海権と、最高の操船技術が求められる。それを認識すれば造船も、航海も、海戦も、改善と研鑽が積まれただろう。事情を薄々知ったのが後漢書を書いた南朝宋の人范曄(はんよう)だった様に見える。南朝宋には百済も朝貢していたから、百済にも倭人の秘密は漏らさなかったと思われる。だから百済人は中国から倭国への経路は百済を通る必要があると錯覚し、百済の役割を錯覚し続け、百済滅亡後そのまま日本に亡命したのではなかろうか。その発想は新羅に受け継がれ、今日の韓国人の願望的歴史観にまで反映されている様に見える。この体制は倭から日本になって崩れ、唐や新羅が海上交易を始めた。日本は秘密を守る事に倭ほど熱心ではなかった様だが、伝統的偽装工作もある程度続けていたとすれば、遣唐使船がしばしば難破したというのも、創作かもしれない。

秦・漢の時代から700年以上、抜け駆けして中国人に海上の地理の知識を洩らす者もなく、この守秘体制を維持したことになる。倭人の結束力は恐るべきものだったと言わざるを得ない。漢の時代に百余国に分かれていても、バラバラの人達ではなく、何らかの合議体を持っていたと思われる。日本の縄文時代である中国の殷・周時代に、宝貝や玉という威信財を送り込んだ人達の末裔だから、統合組織を継続していた可能性がある。宝貝や玉は、無条件で威信財になったのではなく、入手性や希少性、入手経路の秘匿性などが加味されて威信財になった筈である。議論しても無駄な事ではあるが、統合組織の要として天皇の系譜がその時代に存在していた可能性も否定できない。古事記や日本書紀に書いてないと反論する向きもあるだろうが、二つの理由から、可能性を指摘したい。一つは、日本人は歴史事績や祖先の系譜に関心が薄く、目立った歴史伝承は誇張・変形して虚構文学にしてしまう傾向がある事である。源義経と弁慶はその典型だろう。だから日本人の記述する歴史は信用できない。もう一つは、古事記も日本書紀も天皇を万世一系の尊貴な血筋と主張する割には訴追力が弱い事である。日本書紀では天地創造に始まる神代の記述部分で、本文に匹敵する長文の異説を複数、延々と掲げている。これで読み手に天皇の神性を訴えていると考えるのは無理だ。恐らく世界に累を見ない祖先神話形式だろう。それでいながら、日本書紀が書き上げられた頃の事績として、朝廷の議事録の様な続日本紀に、「現神(あらひとかみ)として天下を統治する天皇としては云々」などと記されている。日本書紀は天皇の神性根拠を定める目的で書かれたのではない事は明らかで、当時既に誰も知らないほど昔から「すめらみこと」だったから、言い伝えに諸説あってよく分からないという前提で、正直にそう書いても差し支えなかったとしか思えない。日本書紀の作者も天皇の権威の根源を知らなかったが、それでも神性を疑う人はいなかったのだろう。しかし、高句麗、百済、新羅が皆建国伝説を隋に申告したから、日本も見栄を張って唐に提出するものを一応作った、という事ではなかろうか。春秋時代の呉と何らかの交渉を持った伝承があったから、その辺の年代を起源にしたが、今まで中国を騙し続けてきたのだから、正直に書く気など毛頭なく、そこで文学志向が発揮され、あの長い物語が出来たのではないかと見える。総てが当時の創作ではなく、昔物語が多数繋ぎ合わされたのだと思われる。

  

 倭人との交易に関する中国側の文献は、黄河流域の政権のものに偏っている。これは中華の中心が黄河流域だったからだが、三国時代の呉に倭人が朝貢しなかったからでもあろう。江南を征服した華北的な王朝に好意的ではなかった様だ。呉も倭人を無視してみずから人狩りに出征しているから、関係は良くなかったのだろう。その後南朝の東晋、宋などに朝貢しはじめたのは、北朝が更に殺伐としてきたからだろうか。人口が増え、経済力も付いた倭国は、『一番の弱点である韓半島と九州間の狭い海峡を守る為』、半島に出兵したということであれば話として分かりやすい。そのために強力な王権が必要になり、邪馬台国を経てヤマト王権が成立したのだろう。統一国家の軍隊は半島の南半分を領有し、その目的を達成した。倭は領域国家を目指したわけではないから、新羅や百済という現地政権を使って間接統治したと見える。百済は韓族を支配する濊人の国、新羅は移民秦人を統治する現地政権として発足したのだろう。新羅はしばしば反抗し、倭から懲罰を受けたらしい。その新羅が遂に唐と組んで百済を滅ぼしたとき、倭国は新羅に怒りを感じたかもしれないが、新羅が半島を統一して強力な唐に対峙する方が、日本にとって望ましかったと思われる。百済滅亡後新羅が唐に反抗的になった際、倭国はその新羅を応援した筈だ。

 オーストロネシア語族の言語は分析が進んでいて、起源地域と拡散過程が明らかになっている。オーストロネシア語族の人達は、西はマダガスカルから東はハワイ・ポリネシア、南はニュージーランドに広がる海洋民族で、発祥は台湾とされている。言語学的推定では台湾からBC3000年頃拡散し、BC2000年にはフィリッピンに、BC1500年にはフィージーに到達していた。拡散が始まった時代は、縄文人が沖縄に達してから数千年経た時期にあたる。北の海洋民族縄文人と南の海洋民族オーストロネシアンの交流が航海技術を発展させたという推測は妥当性があるだろう。

 BC3000年頃、倭人は良渚文化(BC3500年~BC2200年)に玉の加工技術を供与し、紀元前後には海上覇権を確立し中国交易を独占していた。島嶼ルートを知られる事を恐れた倭人は、海洋オーストロネシアンを台湾から南に追い出した可能性はある。彼らの土地であった台湾は中国人に占領されやすく、水先案内をされたら倭人の海上優位が失われるという判断があったかもしれない。オーストロネシアンは台湾より南に広く拡散し、北には進出していない。縄文人はY遺伝子D2という、どこで女性を犯しても証拠が残る遺伝子紋を持っているが、東南アジアにその痕跡はないらしい。しかし、魏志倭人伝には「婦人は・・・・衣を作ること単被の如くし、其の中央を穿ちて頭を貫きて之を衣る。」と書かれ、漢書地理誌に海南島について、「民は皆單被の如き布を服し、中央を穿ちて貫頭と為す。男子は耕農して禾稻紵麻を種へ、女子は桑蚕織績する。」 と書かれ、女性の衣服が海南島に酷似しているのは中国でも気付いている。ここから類推されるのは、倭人はここまで進出した履歴を持っているという事だろう。Y遺伝子は遺さず、多数の女性を日本列島に連れ込んだと見える。桑蚕織績の技能者として招致し、彼女等が絹の布で貫頭衣を作って着たから、それが倭人女性のファッションとなったということは十分あり得る。漢代の海南島の住民がオーストロネシアンであったとすれば、日本語にオーストロネシア語的要素が濃厚にあるのは、それが原因であった可能性もある。海南島が少し遠過ぎると考えられる場合、彼らは紀元前には江南にも居たが、越に追い出されて海南島に閉じ込められたというシナリオもあり得るだろう。呉は周の太伯の子孫が王となり、越と激しく争った国だ。太伯が多数の従者を引き連れて乗り込み、中原的な民族浄化の気風を持ち込んだ可能性は否定できない。

漢書地理誌に呉について、要約すると「殷の覇道は既に衰え、周の大王である亶父は梁の地に興る。長子を大伯、次を仲雍、少を公季と云う。公季には聖なる子である昌が有り、大王は昌に國を伝えたがった。大伯と仲雍は別れを告げて薬草を採りに出掛け、そのまま荊蠻に出奔してしまった。公季が位を嗣、昌に至って西伯になり、命を受けて王になった。大伯は初めて荊蠻に奔り、荊蠻は大伯に帰順し、句呉と名乗った。大伯が卒し、仲雍が立ち、曾孫の周章に至った時、武王が殷に勝ったので周章を句呉に封じた。周章の弟の中を河の北に封じ、これが北呉になった。後世の人はこれを虞と謂う。十二世で晉に滅ぼされた。周章の二世後、荊蠻の壽夢は盛大になり王を称した。壽夢から六世、闔廬は伍子胥を挙げ、孫武を將とし、攻めて戰勝を得て、諸侯の間に伯名を興したが、その子夫差に至って子胥を誅し、粤(越)王句踐に滅ぼされた。」と書かれている。ここから読み取れるのは、呉王は中原の系譜を持つが、越族の風習を持つ国で、当時河南省にまで越族がいたが、中原の晋に滅ぼされ南に追い遣られたということである。楚も同類の民族とされているから、越族は春秋時代依然は広く中国南部を占拠していたが、次第に中原の民族に圧迫されて南に移動したらしい。

 海洋オーストロネシアンは越族とは違う民族で、春秋時代以前には台湾海峡を挟む両岸に居住し、越族が華夏民族に圧迫されて南下する過程で両民族の圧迫を受け、やはり南下を余儀なくされたのだろう。彼らのその後を見ると交易には興味がなかった様だ。倭人は日本列島に縄文工房を持ち、沖縄という宝貝の産地を押さえて交易に邁進したが、交易する物産品が採取・生産できる後背地を持たない海洋オーストロネシアンには交易は難しかっただろう。台湾は沖縄より南に位置するが、揚子江のため海が濁り、宝貝が生育する透明なさんご礁の海は殆ど無い。仮に一時交易できたとしても、越族と華夏民族の圧迫を受け続け、南に退避するしか方法は無かっただろう。こうして東シナ海は倭人の海となった。

 日本語の漢字の読み音は、江戸時代まで呉音が主流で、万葉仮名も呉音で、仏教経典も呉音で読む。この事から、日本への漢字移入は遅くとも古墳時代に江南からなされたと考えられる。ここで、魏志倭人伝の卑弥呼の統治に関する記述「(女)王が使いを遣わして京都(洛陽)・帯方郡・諸の韓国に詣らせる時、及び(帯方)郡から倭国に使いする時は、皆津に臨んで捜露し、文書、賜遺の物を伝送して女王に詣らせ、差錯あることを得ず。」を検証したい。卑弥呼が洛陽・帯方郡・韓国の諸国に遣わした使者が所持する文書と物品、帯方郡から送られて来た使者が所持する文書と物品を港(津)で臨検し、文書の内容と物品に食い違いがないか確認するということである。臨検に捜露という言葉を使っているから、荷を解いて中身を確認したのだろう。これは、担当する役人は文書を読めた事を意味する。卑弥呼が中国人を側近に雇って代筆させていたわけではないということである。韓諸国への使者が目録を持っていたのなら、既に漢字は邪馬台国の統治に導入されていたことになる。これを報告した使者が実際に、皇帝の詔書と下賜品の検分を倭の役人に要求され、その役人が詔書の記載内容と使者の持参した下賜品の現物を検査したのだろう。「差錯あることを得ず。」としているから、きちんとした検査で、使者は役人に総てを確認する決まりになっていると言われた。皇帝の詔書は長文で、内容もレベルが高い筈だが、役人は正しく読めたことになる。文章管理が統治に組み込まれていたのであれば、高官は漢字が読めなければ勤まらないから、倭人は遅くとも漢代に漢字を習得したと思われる。

 後漢代、倭は洛陽に朝貢し金印を貰っているから、この頃習得した可能性もある。紙が実用的になり始めた頃である。北九州の奴国が倭人を統合する勢いのあった時期だから、中原・楽浪から学んだ可能性は高いが、習俗は江南から学んでいるから、いささか矛盾気味である。もう少し時代を遡って考察する必要がある。

魏略に、倭人は「その旧語(言い伝え)を聞くと、自ら太伯の後(子孫)という」と記されていたとされるが、これは倭人が史記を読んでいたことを意味するのだろう。倭人は越族ではないし華夏民族の末裔でもない。これを現代風に言えば、「我々倭人は蛮風である刺青をしているが、野蛮人ではありません。太伯の子孫という言い伝えもあります。」と見栄を切ったのだろう。「史記を読んでいますよ。私は教養人で、野蛮人ではありません。」と言いたかったのではないかと推測する。だからこれを読んで文面通りに解釈し、倭人は呉からの移住者だとか、太伯の子孫が呉が滅んだ時に日本に移住して天皇の祖先になったとか推測するのは噴飯ものだ。縄文時代から海洋を制覇し、殷・周の朝廷と交易してきた倭人が、亡国の民を受け入れたとしても、亡命者を戴くほどに落ちぶれていた筈はないだろう。

 これと関連するのは後漢書や魏志倭人伝に書かれた、「使人自ら大夫と称す。」という文だろう。後漢にしてみれば、倭人が勝手に自称した「大夫」は傍系官職だったかもしれない。大夫は周から春秋時代にかけて使われ、領地を持った貴族を指す、身分を表す言葉だった。日本では律令制以後も五位以上の男性官吏を指す言葉として使われ、長い歴史を持つ言葉になった。呉(蘇州)か越(会稽)に強い思い入れがあり、その滅んだ時に、中国人としての身分を持つ機会が失われ、時間が止まってしまった故に当時の身分呼称を使い続けていたと解釈したい。呉を滅ぼした越は楚に滅ぼされた。楚は春秋時代に宝貝に似せた青銅貨幣を多量に作ったから、倭人に敵対していた国だったのだろう。

 春秋時代の呉は既に中華的文明国だった。その呉から漢字を移入した可能性も否定できない。「大夫」に対する思い入れの深さからすると、こちらの方が本命と考えたい。ということは、漢字は稲作と同時期に入って来たという事だが、江南の風習に染まる程人の交流があったから、漢字だけではなく、所謂バイリンガル倭人が多数居たのだろう。交易者は相手の言語を理解する者達でなければ勤まらない。中国語は相手の言語を解さなくとも、文字だけを介して意思疎通できる言語として発達したから、会話している様でも実は筆談だったりする。その場合同じ文を相互に違う音で読む事になるが、日本語では漢文は読めない。平安時代以降は返り点を振れば一応読めただろうが、弥生時代当時その様な器用な技術があったとは思われないから、倭人は漢文を江南訛りの中国語で読むしかなかった筈だ。今日の我々も語順が違う英語を日本語では読めないから、英語を覚えるしかないのと同じ事情が、周辺民族倭人にだけ存在し、倭人は例えば越族の漢文読み音を習得しなければならなかった筈だ。それが呉音なら、倭人は木簡や竹簡の束を持って華夏民族と会話しただろう。北九州の倭人は逆に華夏民族の言葉で漢文を読んだ可能性がある。いずれにしてもどちらかが出来なければ朝貢も交易も難しい。これ以上の事は言えないだろう。

 中国の認識や日本書紀の書き方では、漢字も仏教も百済経由で倭に移入されたニュアンスがあるが、これは倭人の秘密主義に起因する誤解だと思われる。百済や新羅の人は、倭人が海上を制覇していた事を知らなかったから、地理的位置関係から倭の文化は半島経由で中国から移入されたと錯覚していた。彼等の方が倭人より多数華北に入り、文化的類縁性から親しくなり、彼らの考えを中国人に吹聴しただろう。倭人は元々厳格な秘密主義者だから、それに反論することなく黙っていたから、中国人、特に華北人の認識がそれに傾いたとしても不思議ではない。日本書紀にしても、今までの秘密をそこに書いて中国に暴露する意思は日本人にはなく、倭人としても自分達の秘密を今更書いて欲しくはなかっただろう。誇る歴史を誇示して一族の栄誉とし、その歴史の下に一族の団結を図るという価値観を持たなかった倭人及び日本人は、倭人の活躍を秘密にし続ける事が後世に不利益を生じるとは予期していなかった筈だ。

 これにより倭人の活動記録は失われたが、倭人が抑圧されたから闇に葬られたと云う事ではなく、双方合意の上だったと思われる。

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