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2013年1月の記事

2013年1月29日 (火)

良渚文化以前の玉加工

「日本の古代史の基軸ポイント(1)」に不適切な記事があったので、以下訂正したい。

良渚文化(BC3500年~BC2200年)以前の中国の玉器として、
河姆渡(かぼと)遺跡(BC5000年~BC4000年)から
管玉や玦状耳飾りと呼ばれる玉製品が発掘されている。
良渚は杭州、河姆渡は杭州から更に海岸寄りの江南地域にある。
玦状耳飾りは同じ頃新潟県でも生産されていた。又遼寧・満州地域でも発掘されている。
朝鮮半島からはこの時代のものは発掘されていない。
3地域の関連は明確ではなく、当分不明の状況が続くだろう。
満州地域は沿海州辺りとも関連がありそうであるが、双方発掘実績が不十分な状態にある。
こんな場合、少ない遺跡からの情報で仮説を作ると、
新しい発掘によって否定される恐れがある。
従って研究者の発言は慎重にならざるを得ず、分かりにくい説明しか得られない。
ほぼ同時期に似た形状のものが、見かけが類似する所謂玉器として作られているので、
研究者は相互に関連があったと看做しているが、
3地点は余りに距離が離れているので、関連の説明に困惑している。
考古学者川崎保氏は要約すると以下の説明をしている。

日本に関しては、玉質の石材を利器に使うことは旧石器時代以来の伝統があるが、
縄文時代早期末に玉質石製装身具が急に出現し、
日本列島でほぼ斉一的に変化するから、
少なくとも日本列島各地で独自に発生したものではない。
広域に分布するが、当初は製作遺跡が北陸地方にほぼ限定されることを考えると、
伝播のルートを考える必要があるが、
日本列島の玦状耳飾りなどの玉質装身具を含む日本列島の玉文化が
大陸の影響をまったく受けないで成立、展開したとは考えにくい。 

更に、玦状耳飾り出現期からすでに管玉や垂飾(箆状垂飾など)が存在し、
これらは中国東北部の遼寧省査海遺跡をはじめとする興隆窪文化や
黒龍江省小南山遺跡などの資料
さらにはロシア沿海州チョールタヴィ・ヴァロータ洞穴資料などと
個別の装身具の器種が類似しているだけではなく、
セット全体での類似が認められる。
形態的にもチョールタヴィ・ヴァロータ洞穴の「玦状耳飾り」は
日本列島の中では古いタイプである。
チョールタヴィ・ヴァロータ洞穴の箆状垂飾は湾曲したタイプであり、
これは日本列島では桑野遺跡
(BC
4000年;多量の玉製品が発掘された福井県の縄文早期~前期の遺跡、

福井県には鳥浜貝塚もある)に見られる。
よって、出現期の玦状耳飾り(玦飾)やそれに伴う管玉(管状珠)、
箆状垂飾(匕)のセットや形態、炭素
14年代から中国東北部を起源とし、
沿海州経由で日本列島に波及してきたのではないかと推測する。

 鳥浜貝塚はBC10000~3000年の縄文遺跡。縄文時代前期の丸木船が発掘されている。BC3500年頃の土壌から、どんぐり、くるみなどの堅果の他、まぐろ、かつお、ぶり、さわら、の骨が見つかっている。ひょうたん、うり、あさ、ごぼうの種子も発見されている。

 当時の縄文人は海上で漁労をしていたのだから、彼らは海洋民族で、この発掘年代から更に1000年ほど前から既に漁労と共に海上交易をしていたと考えれば、難問は氷解する様に思える。日本の研究者は、日本の文化は大陸の文化が朝鮮半島経由の陸路で伝播したと考えたがるし、中国の研究者は中国大陸が文化の発祥地だと決め付けたがる様だが、3地点のいずれが発祥地であるかは軽々には決められない。確かなのは、新潟県には工房が存在したことである。他の2地点からはまだ遺物が発掘されているに過ぎないが、将来工房が発掘される可能性がある。桑野遺跡を縄文前期初としてBC4000年と同定した様だが、国土交通省近畿地方整備局では縄文早期の遺跡(BC4000年以前)としている。

 不確かさの淵に沈むと何も言えなくなる。少なくとも、縄文人が海洋交易をしていた故に3箇所の遠隔地の玉製品に共通性があったのだとすれば、遺物が現地生産であるか交易品であるかは問わず、物と加工技術は相互に伝播したであろう。遼寧省査海は「岫岩玉」の産地とさほど離れていない。

 岡村秀典氏は二里頭・殷・周に跨る玉文化の発生・交易の起源調査としての中国での発掘状況は概略以下としている。

BC5千年紀には遼東半島と山東半島間の交流はほとんどなく、それぞれ独自の土器様式が広がっていた。BC4千年紀になっても、漁労活動にともなって少数の土器が山東から遼東に運ばれるくらいで、両地域の土器様式にはほとんど変化が見られない。ところがBC3千年紀に山東と遼東との交流がにわかに活発になる。

「岫岩玉」を用いて遼東ではBC五千年紀から小型の斧や鑿などの工具類を作っていたが、石器の代用品としての利用に留まり、加工技術は未熟なままで、玉の美しさを生かした装身具は作られなかった。錐状の工具で紐通しの孔をあけることは早くから始まっていたが、BC3千年紀になると、竹の様な管状の工具で直系1cm以上の大きな孔をあける技術が、江南から山東をへて遼東に伝わった。江南というのは良渚文化を指す。

竹の様な管状の工具で直系1cm以上の大きな孔をあける技術は新潟県の長者が原遺跡でも使われ、その起源は長者が原なのか良渚文化なのか、「日本の古代史の基軸ポイント(1)」で論じたところであった。その際中国の穿孔技術は良渚文化以前に遡らないと書いたが、河姆渡を考慮していなかったので、ここで改めて検討したい。

  先ず言えるのは、日本と、河姆渡・良渚文化と、遼寧ではどこが玉の穿孔技術の発祥地か分からないが、縄文人の航海技術が3者を結びつけたらしいということである。大きな孔をあける技術の移転だけでなく、遼東と山東半島間で他の活発な交流も同時に起こったのは、縄文人が両半島を船で結びつけたからだと推測するべきだろう。船が無ければ日本と河姆渡・良渚、日本と遼寧は結びつかないし、遼寧に航海技術が無かったのは明らかなのだ。この様な関係にある場合、どこが技術オリジナルなのか、概ね想像が付くだろう。縄文人が手広く交易をして大陸各地の特産物を物色していたら、偶々遼寧の玉を見つけ、それを江南に売さばき、そうこうしていたら江南で新しい技術が生まれたので今度はそれを遼寧に持って行ったというシナリオもないことはないかもしれないが、それでは縄文人の交易活動があまりに派手すぎる。新潟県には大きな工房もあり、最も硬いヒスイの加工に挑戦し続けていた。個別技術の実際の開発が何処で為されたかは分からないにしても、技術センター的役割は果たしていただろう。

  新潟県で誰かが玦状耳飾りを作ったら、近隣でブームになったので、交易に出掛けたら江南と遼寧で受け入れてくれたというのが、想定として一番大人しい。やがて直系1cm以上の大きな孔をあける技術が日本と江南で開発され、一番軟らかい「岫岩玉」が豊富に産出する遼東に伝わり、中国的な精緻な玉加工技術に発展したのであれば、解釈は容易だ。日本は中国が独自の技術発展に踏み出すまで、技術交易センターの役割を果たし、やがてヒスイという硬い玉の加工に特化して行ったのではなかろうか。そのプライドが日本の弥生・古墳時代のヒスイの勾玉・管玉重視の文化に繋がったのであろう。

  倭人はそれらの身体装飾を好んだが、日本人は好まず、奈良・平安時代以降宝飾品で身体を飾る文化が失われたように見える。倭人と日本人は同文同種の民族でありながら、商業民族と農耕民族など習俗や思想は大分違った人達だった可能性がある。

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2013年1月25日 (金)

漢代、倭人は中国との交易に励んだ。

  日本の古代史の基軸ポイント(2)として、漢代の倭人の交易状況を検証する。

 前回の、「二里頭文化期から殷代・周代(BC17世紀~BC8世紀頃)まで、倭人は貨幣である宝貝、威信財である玉器の交易で潤い、組織的な交易をした」 を受け、今回の検証を進める。次の春秋戦国時代に宝貝と玉のビジネスは壊滅したと考えられる。宝貝は貨幣の座を春秋時代(BC8世紀ーBC5世紀)に青銅に譲り、玉器は技術を進化させた王の工房で作られ、殷墟(BC14世紀―BC11世紀)から発掘されている。中国四大玉産地は、遼寧の「岫玉」(硬度4.8-5.5)、新疆の「和田玉」(硬度5.5-6.0)、陝西の「蘭田玉」(硬度~4~)、河南の「南陽玉」(硬度6.0-6.5)で、陝西や河南は長安や洛陽の王の工房に近いから倭人の出る幕はなさそうだ。硬玉である翡翠(硬度6.5-7.5)の加工技術を得た中国で、軟玉(硬度6.5未満)の造形加工が発達し、複雑な形状の器物が喜ばれ、遼寧の「岫玉」に頼るビジネスも行き詰った。新しいビジネスが生まれなければ交易は立ち枯れてしまう状況になった筈だが、春秋時代の倭について記述した文献は見当らない。全くの推測だが、倭に青銅器時代がないのは、倭人が青銅器に怨念を持ったからではないかと考える事ができる様に思える。青銅の武器は重いから、海戦には不向きだった可能性もある。当時の小船での海上戦では鎧を着けずに戦っただろうから、竹槍や弓矢の方が有効だろう。当時の倭人の墓は発見されていないから、確かな事は言えないし、縄文時代の倭人に豪華な首長墓を作る習慣があったのかも怪しい。死を「隠れる」とする思想が縄文時代由来であれば、抜け殻である死体は野辺に捨てられ、水葬されたかもしれない。墓もなく、木製家屋に住んでいたのであれば、当時の倭が豊かであっても考古学的遺物は発見されにくいだろう。

 戦国時代の倭に関して、山海経(BC4世紀~BC1世紀著作)に「蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。」とある。鉅燕(BC3世紀前半の燕)は遼寧(渤海湾北岸)を中心とし後の北京を都にしていた。蓋国がどこを指すのかは不明だが倭は燕の南(の海上)というのは漢書地理誌と同じ認識になる。当時の燕は中華の僻地だから、それほどの交易量は見込めなかったと思われるが、黄河を遡上できない倭人が止む無く交易したのだろう。黄河はBC2278年~AD1128年は渤海に流れ込み、当時の黄河は現在の天津辺りで海河と合流し渤海に注いでいた。燕の都は黄河の河口都市だったかもしれない。二里頭時代からの銅鉱山が近くにあり、この頃遼寧で鉄の生産が始まっていたから、それらが交易の対象になっただろう。北九州の銅剣、銅矛文化はこの遼寧の影響が強いと思われる。山東の斉の都も海に近かったが、斉でなく燕であったのは「岫玉」の産地を領有していたからだろうか。

当時中国では河川や海岸を航行する船はあったが、日本列島に関する地理的知識の欠如を見れば、日本に渡る航海術はなかった様だ。中国人が河川で優位になり、中国が動乱に突入すれば倭人の黄河遡上交易は困難になり、北九州廻りの朝貢交易は海に近い都に限定される。内陸河川は盗賊に襲われる心配があっただろう。時代は下るが、水滸伝で有名な盗賊の巣窟であった梁山泊は渤海から趙の都である邯鄲への途上になる。

 ここで徐福伝説を検証してみたい。斉の徐福は秦の始皇帝を騙し、仙人を東の海上に求めると称して童男童女数千人、五穀の種子、多くの工具と共に船出したが戻って来なかった、と史記に書かれている。史記が書かれた時期からさほど遡らないから事実だろう。本紀では徐福は戻って始皇帝に言い訳しているので、内容に混乱がある。日本列島と琅邪(現在の青島南)を何度も往復したのかもしれない。

徐福が倭人の子孫だったら、この数千人は移民ではなく倭人の現地子孫が秦の圧政や長城の土木工事への挑発を恐れて逃れたということで、徐福がなぜそこまでしたのか理解しやすいが、証拠はない。徐福は始皇帝に、海中に蓬莱・方丈・瀛州の三つの神山があると言ったが、思いつきで言ったのでなければ、三つは九州・四国・本州を指すのかもしれない。

当時の倭人の船が伝統的な構造であれば、数千人を運ぶのは困難だったろう。中国の河川・沿岸航行用の船として構造船が登場し、サイズの点で倭人の船に優っていたから、それを官営造船所で海洋航行用に改造させ、複数隻x数回で数千人と工具を運んだというのが妥当な推測の様な気がする。安全に日本列島に着くには倭人の水先案内は必須だ。当時はまだ鉄器が十分普及したとは言い難い状況だから、官営造船所の木材加工技術は倭人の垂涎の的だっただろう。鉄の道具がなければ構造船の材料となる板は大量に作れない。鉄だけあっても鍛冶技術がなければ目的とする大工道具は作れない。倭人は鉄と鍛冶技術の輸入に熱心になっただろう。徐福が江南ではなく斉の人であるのは、朝鮮半島沖を南下して北九州に到れば、距離は短く構造船の損傷も免れやすいからだったのではなかろうか。

 後漢書倭伝の末尾に「夷洲、澶洲が会稽の海の彼方にあり、徐福は澶洲に留まった。子孫は数万家になったと伝えられている。夷洲、澶洲の人々は時々会稽の市に来る。会稽郡・東冶県の人で海に出た時に大風に遭い、漂流して澶洲にまで行った者がいる。夷洲、澶洲は大変遠い所にあり、距離が遠すぎるので往き来はできない。」と記されている。漢代にも中国から沖縄や日本に渡る航海術はなかった事が分かる。後漢書の作者范曄は南朝宋の官人で、倭伝の大半は先に書かれた魏志倭人伝の内容を踏襲し、この記述も三国志呉誌の内容をアレンジしたものになっている。三国志の作者陳寿は呉とは疎遠の人であったらしく、徐福と夷洲、澶洲を関連付けたが倭とは関連付けず、魏志倭人伝には「倭の位置を計算してみるとちょうど会稽・東冶の東にあたる。」とだけ記されている。三国志呉誌では230年に夷洲を攻伐し犠牲を払って数千人を得たとも書かれているが、倭人伝には倭が呉から攻撃された痕跡は見えないから、当時の呉が夷洲と看做した島は倭ではなかったことを陳寿は論理的に理解していた。しかし南朝宋には倭の五王が朝貢し、倭人は会稽の市に出没していたから、范曄は倭人からの情報として、夷洲は沖縄、澶洲は本土と理解していたのではなかろうか。台湾の存在も倭人から聞いていたかもしれない。

三国時代の呉に倭人は出入りしていた筈だが、倭人と夷洲は関係ないと考えていただろう。だから記録にも倭という言葉が出ず、陳寿も夷洲亶洲を呉の内部の歴史として扱った。当時呉は労働力としての人民が不足し、夷洲に人狩に行ったとされている。呉は倭人の生口交易の顧客だったことになる。呉は、夷洲、亶洲に徐福の子孫数万家があると伝え聞き、生口の供給源だと期待したらしい。その情報源は、亶洲から会稽の市に来た人(倭人)が徐福伝説を語り、会稽・東冶県の人が暴風に流され亶洲に至った人がいる(倭人に連れ戻して貰った?)こととされている。東冶県は現在の福州市辺りとされている。倭人が沖縄から台湾北岸を経て江南に向かった場合、最短で接岸できる場所で、山並みが海岸に迫り出しているから海上から位置が判断しやすい。閩江という水量の豊かな川が中洲を作りながら流れ、安全な給水地としても適している。倭人にとって交易の要衝となる土地の住人に便宜を図って友好を求めるのは重要な事だっただろう。逆に言えば、日本を知ってしまった中国人を滅多に送り返さないという秘密主義を守っていたのかもしれない。それでなければここまで中国人の知識が欠如している筈がないとも言える。判れば、呉の様に兵船を揃えて押し寄せてくる恐れは感じていただろう。

呉が1万人規模の兵隊を海上に出して夷洲、亶洲を探した事から、呉が期待した獲得人数は少なくとも兵隊と同数以上だった筈で、当時倭人がどの程度の人数の生口を華南に送り込んでいたかを推測することが出来る。毎年数百人~千人位を送り込んでいれば、この様な欲望を起すだろうし、数十人程度では1万人規模の軍隊を送り出す気にはならないだろう。逆に万人単位の生口を送り込んでいれば、軍隊は出さなかっただろう。徐福がした事を繰り返し呉に対して行なっていたから、倭人の中で徐福の記憶が呼び戻された可能性もある。大規模の移民は徐福がその道を開いたのだろう。

三国志呉誌では亶洲と書き、後漢書では澶洲と書かれている。亶は説文解字で「穀多い」という意味だから、誰が命名したか分からないが、実質的には日本列島を指すと思われる。范曄が意味不明の澶に変えたのは、誤植だったのだろうか。

 時代を戻して、

 漢書地理誌には「楽浪海中に倭人有り。分かれて百余国を為す。歳時を以って来りて献見すと云う。」と書かれている。倭人の交易者の単位は「くに」で、当時100程あったということは、「くに」単位のビジネス競争社会であった事を示す。中核ビジネスを失った倭人は、小グループに分かれてビジネスをしていたという事だろう。小グループの自由競争は新規事業開発や事業規模拡大を実現しやすい。新しい商品を発掘する力も格段に向上する。その効果は現代資本主義と共産主義の対比で実証されている。

東シナ海・黄海・渤海の海上交易は古代ギリシャのポリスと同様多くの倭人勢力の競合体制だったことになる。毎年複数国が中国高官に献見(貴人と会見する)していたのなら、活発な交易が行なわれていたのだろう。献見することは利益に見合うという打算があった筈だ。倭の群小国王の権威を中国に認めてもらうためという説があるが、倭人は中国人の渡海能力を知っていたから、中華からの権威付けが倭内部での権力向上にそれほど役に立たないのは判っていた筈だ。それより交易の便宜を求める動機の方が現実的だ。中国船が沿岸航行に乗り出せば、海上といえども沿岸は安全ではなくなり、政治活動が必須になるのは今日も変わらない国際情勢だ。各所の郡長官(地方軍事組織の長)に付け届けを絶やさない必要はあるだろう。

倭は中国から鉄と青銅素材を輸入した筈だが、見返りに日本から何が輸出されたのか、当時の記録はない。後漢書によれば奴隷交易はある時期から主要ビジネスの一つだった様だ。時代は少し下るが、魏志倭人伝に、麻糸、絹織物、真珠、青玉(翡翠?)、丹、猿、黒い雉などが記されている。魏の官人に江南との取引の内情を正直に申告するとは考えられないから、記録された品目に納得がいかなくても仕方ない。壱岐、対馬の4千戸、唐津辺りの山が迫った海辺の4千戸が、交易の物流で生計を立てていたのだから、北九州~渤海交易は相当な量だったのだろう。但し交易の物品すべてが此処を通ったかどうかは判らない。交易者は黄海や東シナ海に出向き、島は拠点だった可能性もある。

後漢書にはAD57年「倭奴國貢を奉じ朝賀す。使人自から大夫と称す。倭國の極南界也。光武(帝)印綬を賜う。」、107年「倭國王帥升等生口百六十人を献し、請見を願う。」と記されている。前漢時代の分国状態から奴国が抜きん出たらしい。「倭國の極南界也」とは江南交易まで支配していたことを意味し、九州は統一された様に見える。中国から見れば東の海を会稽沖まで支配していると奴国王の使者が断言すれば、「極南界」という表現に自動的になる様に思われる。裏を返せば、北にも倭人が住んでいたことになる。多分本州の倭人を指すのだろう。

王莽の新の後の中国の動乱によって交易が減少した事が小国の統合を推進した様だ。その50年後には更に統合が進み、倭国王が誕生している。九州一円を仕切る奴国を含む広域連合は本州政権になるだろう。交易に従事する人達の連合なら領域国家ではないから、戦争によって統合されたのではなく、企業連合的性格であったと考えられる。本州の倭人は金属と移民奴隷が欲しかったから、大陸と交易していた倭人と連合したか、九州を傘下に組み入れた事になる。それが動機なら交易量が飛躍的に増加した筈だ。その中心が畿内にあったのかは分からない。纒向が邪馬台国の宮殿跡だったとしても、同じ場所であった保障はない。

最大の交易品が奴隷だったとすれば、奴隷の調達から販売までを扱う大規模な組織が誕生したと推測できるかもしれない。当時の中国の人口激減や東夷の動乱を考えると、奴隷交易は行き場のない流民の就業斡旋業という側面があっただろう。関係者全員に利益がある事業は利潤が大きいのが常だ。売り先が揚子江流域と、日本列島の水田稲作地帯であれば、歴史的必然の世界になる。漢代は中国で鉄器の普及期だったから、水田が開かれ灌漑工事が可能になり、労働力が必要になる。奴隷は倭人ではなく、半島や遼寧辺りで調達したのだろう。交易業者が自民族を奴隷として売るとは考えにくい。

中国では王朝末期に政権が衰えると流民が発生するが、彼等を隷属的農民にすることは難しかったと思われる。武力鎮圧の対象になる匪賊・強盗の類になって農村を荒し回ったからだ。倭人が船に乗せる流民や困窮民が、乗船の段階で異郷の農業労働を承諾した人達だったのなら、効率の良い労働移植ビジネスになる。海上輸送のルートが確立すれば、船は効率の良い安全な移民移送手段になる。小集団が匪賊の襲撃を避けながら言葉も通じない内陸を長距離移動することは難しい。行き先が天水を使える未開の畑作地ならまだしも、灌漑工事が必要な水田地帯などは流民集団の落ち着き先にはならない様に思える。彼らが鎮圧されて奴隷として売られたのであれば別であるが、流民集団を引き取って養う様な慈善家が居たとは思えない。食料が不足して流民にならざるを得なくなった村とか、鎮圧されて四散した小集団とか、移民奴隷になるのが唯一の生き残り策だったろう。

華南や日本のY遺伝子O3の人達はこの様な手段で移民した人の末裔である可能性は否定できないだろう。呉は戦国時代には楚の一部だったが、前漢時代に呉楚七国の乱の中核国になるまでに発展し、三国時代には中原の魏に対抗する国に成長している。稲作農業の驚異的発展があったのだろう。徐福の検証の中で推測した様に、毎年千人程の難民奴隷を江南に送り込んだとすれば、後漢200年で20万人、日本の古墳時代に倍増したとして、400年間で80万人という計算になる。家族として男女を送り込んでいれば、後世数百万人になった筈だ。日本列島にその半分程度を別途送り込んだとすると、奈良時代に100万人程になり、総人口450万人~650万人の2割前後ということになる。現在日本人のO3比率が15~20%で、九州での比率が高いことの説明になる様に見える。後世の日本人はこの人達を帰化人と呼んだ。移住に関して同意があった事を強調したのだろうか。学術技芸に優れた人も含んでいただろう。百二十県の人民を率いて弓月の君が帰化し秦氏の祖先になったと云われる。東漢氏、西漢氏なども、移民の長が倭人と交渉して集団移住したのだろう。船を持たない内陸民であった彼らが、自発的に「渡来」するとは考えられないから、「帰化人」という呼称が彼等を気遣った呼び方だったと思う。江南に殺伐とした華北的風俗が浸透しつつあった状況を勘案すれば、日本に送る移民と江南に送る移民に区分けがあっただろう。知識・技能系は日本列島向けだったと思う。交易としてその方が高額の契約が見込めただろう。韓国式の誤った歴史観からそろそろ卒業したいものだ。

漢代が終った直後の状況を記した魏志倭人では倭は江南の風俗だと描かれている。南九州や沖縄に多数の交易者が居たのだろう。相当の人数が往来しなければ倭人が江南の住民と間違うほど習俗の近接は起こらないはずだ。魏志倭人伝の作者に情報を提供した魏の使者は東と南を、間違えたか、紛らわしい報告をした様だ。それで邪馬台国の位置が未だ決まらない。倭人は古くから江南と交易し漢代も交易量は圧倒的に江南が多かったと思われる。漢成立後、黄河流域の洛陽・鄭州、遼寧、楽浪との交易が増えれば、そちらの地域への交易拠点として北九州が位置づけられ、北方文化に染まった地域として栄える様になるだろう。明治時代の神戸や横浜が西欧風の街になったと同様な事が起こっただろう。一方で、南九州、瀬戸内、畿内は依然江南風だったとすれば、魏の使者は北九州から倭の奥地に進むに連れて江南色が強くなる光景に遭遇した筈だ。これでは東と南を混同しても不思議はない。魏志があるから、倭は魏を中華の代表として接したという錯覚を持つが、魏の使者が見たのは明らかな江南習俗だから、倭は漢代、江南を中華として接していたと認識すべきだろう。

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2013年1月20日 (日)

日本の古代史を再検討する基軸ポイント(1)

 倭人伝を検証し、記述内容は信憑性があることが確認されたから、それらを繋げて日本の古代史を再構築する。先ず重要事項から敷衍できる状況の検討から始め、点を線にする必要がある。事の真偽に関する検証は既に「倭人伝に見る日本人」で実施したので、「それが事実であったなら更に何が言えるか」を考察する。新たな矛盾が発生しなければ、間接的な検証にもなるだろう。

1、殷を中心とする中国古代遺跡で発掘される宝貝は沖縄産が多数を占める。

2、漢代(BC3世紀~AD3世紀)、倭人は中国との交易に励んだ。

3、倭人の習俗は江南的であり、主たる交易相手は江南であった。

4、日本では、飛鳥時代以降、江南的倭人と内陸的日本人の政治・文化路線が対立した。

5、縄文時代以降日本列島周辺の海洋は倭人の海で、倭人が連れ込んだ民族だけが移住した。

6、朝鮮半島は中華文明と倭人文明の谷間だった。

7、日本人は歴史を文学にしてしまう。

今回は1、項の検討とする。

1、殷を中心とする中国古代遺跡で発掘される宝貝は沖縄産が多数を占める。

殷に先行する二里頭遺跡の宮殿跡はBC17世紀頃と推定され、有力者と思われる人物の墓から90点程の宝貝が発掘され、末期であるBC15世紀頃の墓2基からも同様に発掘された。二里頭遺跡は黄河南岸の鄭州にある遺跡で、緯度は大阪とほぼ同じ。当時の気候は温暖湿潤であったらしい。二里頭文化期の遺跡の土壌分析から、アワ、キビ、大豆、小麦、稲、大麦の種子が見つかっている。稲は陸稲か水稲か分からないが、ジャポニカ米である。小麦もこの頃から栽培が始まったらしい。小麦は他の雑穀と比較して単位面積当たりの収穫が多く、世界4大文明は小麦の生産地だったという指摘が納得される。鉄がない時代の稲作がどの程度の収量だったか分からない。黄河流域で青銅器が出現するのは二里頭遺跡からで、ここからは酒を温め香草の香りを付ける盉(か)と呼ばれる土器も発掘されている。

鄭州は海岸から直線距離で500km以上離れた内陸で、中国の沿岸では宝貝は採取できない。不確かであるが、後世の越人は自分達が夏王朝の子孫だとする伝説を持っていたらしいから、当時越が二里頭文化人と交易していた可能性は高い。越は江南沿岸部の民族で、西南諸島を経て来た倭人と最初に接触した筈である。越は後世となる春秋戦国時代に青銅器の生産地として知られた。

注目すべきは、同時代の内蒙古夏家店遺跡の43基の墓から総計659点の宝貝の他に、宝貝を模倣して加工した貝製品が大量に発掘されている事である。夏家店遺跡は遼河文明の遺跡だ。遼河文明は中国青銅器の発祥地と考える学者もいる。二里頭遺跡の支配階級が銅を得るために夏家店の有力者に宝貝を贈呈したと推測される。その銅は中国各地に分配され、遠く四川省三星堆まで送られた疑いもある。遼河文明は、縄文時代中期頃の温暖期に栄えた文明で、青銅器が中国で使われ始めたBC2000年紀には寒冷化のため農耕が衰退し始めていた。遼河文明を担った民族は分からない。

 宝貝を財貨と考える文化が既に萌芽し、倭人が既に供給していたのであれば、二里頭・殷・周の権力者は極力仲介者を排除して直接倭人と接触したがったであろう。その辺の事情を考察する。

山東半島と遼東半島の間には島嶼があって渡海しやすいにも拘らず、BC四千年紀までは相互の交易の痕跡がなく、BC三千年紀になって漸く始まるらしい。遼東半島は中国人が好んだ玉器の原石の産地で、BC二千年紀に竹を使った穿孔技術が江南から伝わった。揚子江下流の良渚文化(BC3500年~BC2200年)では既に鑽孔玉器を製作していた。想定される竹を使った穿孔技術は、縄文時代に新潟県糸魚川の長者ヶ原遺跡で縄文人がヒスイの加工をする際使った穿孔技術と酷似している。長者ヶ原遺跡はBC3000年~BC1500年頃の工房を持つ巨大な縄文遺跡。時代も同時期でどちらが穿孔技術のオリジナルか、判定できない。長者ヶ原遺跡の近くに、大角地(おがくち)遺跡と呼ばれる縄文時代早期(BC5000年頃)の遺跡があり、こちらからは軟らかい滑石で作った耳飾りなどの日本的な玉器が出土し、穿孔が盛んに行なわれている。硬いヒスイは加工用の道具として使っていた痕跡がある。ここは海岸で容易に採取できる蛇紋岩を使った磨製石斧の製作工房だったらしい。石斧の完成品が10点出土し未完成品が133点出土したから、交易が行なわれていたことが推測される。一方中国では良渚文化(BC3500年~BC2200年)以前には身分秩序を表現する玉器は出土していない様だ。

ここまでの事実からは、縄文中期に新潟県のヒスイ加工技術が、良渚文化(BC3500年~BC2200年)に伝わり、更にBC2000年紀に山東半島から海を越えて遼東半島に伝わった事になるから、この立役者も倭人であった可能性があり、渤海湾に進出していた証拠となるから、あとは黄河を遡れば二里頭に到達する。倭人は中国で玉器の製作を指導したのであれば、当然交易も握っていただろう。倭人の守秘義務の対応性の良さがあってこれらが中華での威信財の典型となったと思いたい。当然倭人の交易者としての組織力と、権力と競合しないという了解も背景として存在していなければならないだろう。それは、倭人は越人とは全くの異人種だった事を意味する。また、二里頭期のかなり早い時期に黄河を遡上する交易を始めただろうと推測される。

此処まで話が広がると、職人民族倭人の面目躍如たるものがあり、日本人としては痛快だが、誰かが学会で発表したら、中国と韓国の学会から痛烈な批判が出るだろう。それと渡り合う度胸のある研究者が現在の日本には居そうもない。日本の歴史学者は20世紀に余りにも政治的に痛めつけられたから、PTSDから快復できていなくとも、個人的責任を問う事はできないだろう。

最後に付記すれば、照葉樹林文化として、雲南・江南と倭人の類似性が多数指摘されているが、それらの一部はむしろ倭人のオリジナルであった可能性もある。例えば鳥居、装飾、建築、民話・神話とか。いずれにしても双方で刺激し合い更に発展したのだろう。

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2013年1月14日 (月)

倭人伝にみる日本人(倭の始まりと終わり)

 倭人に関する記述は論衡の「成王の時,越常は雉を献し,倭人は暢を貢す。」「周の時天下太平,越裳は白雉を献し,倭人は鬯草を貢す。」が一番古い事績になる。 成王はBC11世紀の周王で、越常・越裳は江南から越南(ベトナム)のどこからしい。暢は暢草の事で、「暢草は熾釀すれば芬香を暢達する者」(熾は炭などの火が盛んに燃えること)(芬香は良い香り)(暢達はのびのびしているさま)から、酒を醸す際に香りを付けたものと解釈される。論衡ではないが、「鬯」は黒黍で醸造した酒に香草のウコンを混ぜた香酒を指すとされている。これより、BC11世紀に倭人は黄河を遡り、後の長安で周王にウコンを貢納したと解される。ウコンは熱帯産の植物で沖縄でも栽培される。

 この記事の倭人は日本列島の民族ではないと主張する人がいる。その人は、倭人は弥生時代以降の日本人の呼称で、弥生人は大陸から稲作技術を持って日本列島に渡来したと考え、その想定から外れる倭人は日本列島の住人ではないと決め付けている様に見える。しかし最近発見された事実によれば、水田稲作は縄文時代に始まり、弥生時代に日本列島に民族が移動した形跡はなく、日本に持ち込まれた稲モミは少量だったということで、その想定は崩れている。希にしか来ない民族なら混同して記述内容に矛盾が出るだろうし、頻繁に来たのであれば一貫性があるだろう。それについて検討する。

 周王朝の前の殷王朝(BC17世紀~BC11世紀)や、それより古い二里頭文化期(BC21世紀~BC15世紀)の遺跡から宝貝が発掘される。宝貝も熱帯産の貝で、沖縄にも生息する。論衡の記述から地理的環境を考えれば、越常(越裳)か倭人が持ち込んだと推測される。越常なら東南アジアから、倭人なら沖縄からになる。越常には「献」を使い倭人には「貢」を使っている。「貢」は臣従的関係を意味する言葉で、定期性が想定される。白雉は珍物だが、ウコンは交易品だろう。越常にもウコンがあれば献上しただろうから、越常はウコンを産する熱帯の地ではなく、従って宝貝も取れない地方、即ち後の百越と呼ばれる地域ではなかろうか。沖縄は黒潮が流れ、珊瑚などの熱帯の海洋性産物が豊富だ。宝貝を両方から入手したとしても、倭人の貢献が優り、量も多かっただろう。宝貝は貨幣だから、入手経路が秘匿され論衡の作者に伝承されなくとも不思議ではない。産地が記されている文献はなさそうだ。

 財に関する漢字の殆ど総てに、宝貝の象形である「貝」が使われたからには、王朝中枢と交易者との緊密な連携が何百年も続き、相当量の宝貝が持ち込まれた筈だ。倭人は航海術に優れていたから、殷の時代には黄河を遡上し後世の洛陽近辺に直接宝貝やウコンを届け、周の時代には更に内陸の後世長安と呼ばれる都に出向いたと考えられる。

 漢書地理誌に「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国を為す。歳時を以って来りて献見すと云う。」と書かれている。「楽浪海中に倭人あり」は倭人が船で楽浪郡(現在のピョンヤン)に出向いた事を示す。「献見」した場所は楽浪郡か、更に奥の渤海湾岸の遼西か、そこに流れ込む黄河の上流の洛陽・鄭州まで行ったのか、文章からは判断できない。「云う」は正式な記録ではないという意味だろうから、首都長安には行かなかったのだろう。漢書地理誌幽州属によれば、当時の楽浪郡の人口は6万戸、40万人で、邪馬台国7万戸より少ない。倭の多数の国が交易を求めて殺到するほどの経済力がこの郡単独であったとは思えない。「楽浪海中」は単に地理的位置関係を示す言葉ではなかろうか。

 山海経(BC4世紀~BC1世紀著作)に「蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。」と書かれていることを想起する必要がある。「倭の北にあり」は、倭は既によく知られた場所、又は人々という認識を前提にしている。鉅燕(BC3世紀の燕)の南に倭があるのは、楽浪海中に倭があるのと同じ意味になる。楽浪郡から見た海は南西になるが、西は中国大陸だから、倭人は南の海から楽浪に来た。BC3世紀には楽浪郡は未だ存在しないから、倭人は更に奥の渤海を通り、燕の都である薊(現在の北京)に朝貢したことになる。当時の中国人には日本列島の地理的知識はなかったから、記述に矛盾がない。中華世界の膨張により、窓口は倭に近くなったが、倭人の足跡も近場に限定されたかどうかは分からない。交易業者は取引相手の交易品に対する興味を知るために、相手と直接交渉することを望むものだ。倭は王の権力を認めて貰うために朝貢したという説を唱える歴史家が多いが、後漢書はそうとは書いていない。その手の歴史家は、中国の交易商人が北九州まで自分の船で来ていたと主張するが、それなら「楽浪海中」などという曖昧な表現を使わないだろう。中国人が海洋に乗り出すのは、隋・唐以後の事に見える。

 後漢書には、AD57年「倭奴国貢を奉じ朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国之極南界也。光武(帝)印綬を賜う。」、107年「倭国王帥升等が生口百六十人を献し、請見を願った。」の記事がある。中国から爵位を貰う気がないから「使人自ら大夫と称」したのだろう。光武帝が金印を与えたのは史実だが、奴国王が請求したかは分からない。船で行ける洛陽には、前漢時代から「歳時を以って来りて献見」していたが首都になったので、記録に残ったとも言える。流れという観点から推測すれば、倭人は頻繁に黄河を遡上し洛陽に出没していたと解釈する方が自然だ。

 生口(奴隷)を160人も送り込む船は、複数隻にしても相応の積載量を意味する。107年は後漢の政治体制がしっかりしていた時期だが、どこで生口を調達したのだろうか。高句麗に関する105年の記述に「復た遼東に入り六縣を寇略す。太守耿は之を撃破し其の渠帥を斬る。」とあるし、111年には、「夫余王が歩騎七八千人で楽浪を寇鈔し始め、吏民を殺傷した。」とあり、遼寧以東から朝鮮半島は不穏だった様だ。当時の交易業者は中国から鉄を得ていたのだろうか。見返りは奴隷だったと推測される。但し、魏志倭人伝には倭は江南に近い習俗として書かれているから、黄河流域や黄海・渤海沿岸は単なる交易相手だったことになる。日本人の漢字読み音は江戸時代まで呉音で、仏教経典は現在も呉音で読まれる事は、魏志倭人伝の内容と一致する。

 金印を貰うのは破格の待遇だが、「倭国の極南界なり」は奴国が沖縄経由のルートも抑えていたことを意味するのなら、江南から渤海までの総ての海原を抑えていたことになるから、不思議ではない。海を越えて軍隊を送る能力がない皇帝に権力を承認されてもさしたる意味はなかった筈だが、中国での交易上の利便性は上がったと思われる。

 以上、中国の倭人に関する記述は矛盾なく説明できるから、事実だったと認定しても良いと思える。それであれば、倭人を概観すると、BC2000年以前から、沖縄の宝貝やウコンを中国に持ち込んでいた倭人は縄文人であり弥生人でもあり、連続する同じ民族である。

 春秋戦国時代に中国の貨幣は宝貝から銅製貨幣に変わる。宝貝の需要の減少を、生口(奴隷)の売買で補ったのだろうか。荷が格段に嵩張るから、航海技術の進歩が必須であった筈だ。

 以上、倭人の始まり。

 以下倭人の終わり。

 倭人と自他共に認める人達は、唐の時代に居なくなり、替わりに日本国が登場する。日本国の使者は倭国から日本国への変遷の経過を中国人に伝えなかった。中華的な王朝の交替とは違う手順で政権が変わったらしい。日本人は日本書紀を作成したが、中国の文献に出てくる邪馬台国や倭の五王などの、中国と倭人の交流活動を認めていない。唐と日本国の交流については事実を記述しているが、倭の時代と考えられる隋以前の事績については、中国の王朝記録である正史と内容が食い違っているから、創作の疑いが濃い。

 遣唐使船はしばしば難破したが、これは海洋民族としてはお粗末だ。奈良時代の政権は海洋民族と一線を画していたと考えられる。交易の主要ルートだった九州南部や西南諸島の住民に対する態度は疎遠で、隼人は武力制圧の対象になった。

 新生日本国では、藤原氏は関東出身である様に見え、毛野氏の進出も目覚しい。藤原不比等を後継者として権勢を譲った石上麻呂は物部氏で、物部氏は多くの地に勢力を持っていた。藤原氏と因縁深い鹿島神社の千葉県側に香取神社がある。双方神宮の名称を持つ別格の神社で、香取神社は物部と深い因縁を持ち、千葉県に物部勢力の痕跡がある。他にも尾張、石見、備前に物部勢力の痕跡があり、物部を名乗る氏族は東北にも多い。どこも中国、特に江南との海上交易とは縁がなさそうで、むしろ国内交易の拠点と言うべき地域に見える。

 東国的、内陸的勢力は、天皇家の血筋を変えずに政変で権力を奪取したのではなかろうか。それが以後の日本の伝統的手法だが、飛鳥時代以前からの伝統だったとしてもおかしくはない。しかしその実際の経緯は日本書紀を読んでも分かりそうにない。

 謎を解く鍵は源氏物語にあるのかもしれない。

 紫式部日記の、「内裏の上の、源氏の物語人に読ませたまひつつ聞こしめしけるに、この人は日本紀をこそよみたまへけれ、まことに才あるべし、とのたまはせけるを、ふと推しはかりに、いみじうなむさえかあると殿上人などに言ひ散らして、日本紀の御局ぞとつけたりける。いとをかしくぞはべるものなりけり。」をどの様に解釈するか。中国の典籍が豊富にある中で、日本紀(日本書紀)を読んでいる事が漢文の素養を示すとは思えない。日本書紀と源氏物語には共通性があるのではなかろうか。それは何なのか非常に分かりにくい。源氏物語は当時の宮廷の制度を反映し、天皇や高官の行為を詳細に記述し、しかし登場人物も事績も全くの虚構である。であれば、どちらも虚構で、同じ目的で書かれたと看做されたのではないだろうか。中華文明圏ではあり得ない事に感じる。井沢元彦氏のご高説を借用すれば、恨んでいる人を英雄に仕立てて鎮魂を図る書ということになる。その虚構を世間に流布し、唐に献上するのは立派な鎮魂行為になると思われる。或いは単に虚構性を誇示して物語である事を明示し、権勢家の追及を逃れたということかもしれない。

 古事記もその類だった可能性がある。古事記と日本書紀は内容が虚構であるのに酷似しているから、源氏物語的古事記を下敷きに、日本書紀を作ったとしか考えられない。古事記の作者は女性ではないかと疑われるほど、内容に宮廷的、恋愛的要素が多く、中華的歴史事績は少ない。古事記の本当の作者も紫式部は知っていたとすれば、既に彼女には先人が居たことになる。古事記の事績記述は推古女帝より前で終っているから、続編の幻の古事記があり、その中では聖徳太子が光源氏役だったという想像をしても、無下に否定する事はない様にも感じる。勿論これは想像であって科学的歴史ではないが、科学的歴史が歴史を語れる訳でもない。

 いずれにしても、日本書紀が正史だなどと言えば、内容に関して血みどろの争いになりかねない。中国では王朝の歴史は、その王朝が滅んでから書く。日本書紀は政権が自己の歴史を書いた事になっているが、それが源氏物語なら誰も争いはしないだろうし、過去の怨恨を洗い流す効果さえ期待できる。日本人にとって歴史は、知的・情緒的対象で、中華的王朝交代を正当化する歴史観を持たないから、歴史事績が虚構であっても、日本国統治上構わなかったのではなかろうか。続日本紀は単純な朝廷の議事録で、何の判断も価値観も含んではいない。

 日本書紀の神代の記述は異説併記満載で、読み手に信じて欲しいという訴追力は皆無で、知的・情緒的になっている。天皇の神性観を押し付ける意図が弱いのは、その必要がなかったからだろう。倭人の「すめらみこと」の系譜は当時既に2千年の歴史があり、古過ぎて誰もその起源を知らない状態で、改めて周知させる必要もなかったのではなかろうか。それでも一応書いたというのが、日本書紀や古事記の立場の様に見える。

 一応、鎮魂説に従って検討すると、日本書紀に書かれた大きなイベントは、国譲り、神武東征、神宮皇后の新羅征伐と応神天皇即位、九州磐井の反乱、仏教伝来、推古・聖徳太子、白村江の戦い、壬申の乱など沢山ある。壬申の乱は、東国勢の勝利という記述と状況が一致するから、鎮魂の章はそれ以前の事績だろう。

 白村江の戦いは、倭国が如何に壮絶・勇敢に戦ったかを記述し、高句麗にも援軍を派遣しているが、中国側では百済主体の戦争と看做し、7年後に高句麗が滅ぼされ、その3年後に倭国乃至日本国は慶賀の使者を中国に送っている。百済・高句麗に加担したのは統制に従わない撥ねっ返り集団の暴走で、帰還者は国内で処断されたのかもしれない。親唐的な奈良朝期であれば、そうしただろう。

 推古女帝・聖徳太子の捏造は、逆にこの時代が混乱と暗黒の時代であったからかもしれない。随書には、同時期の倭国王が、隋の使者を派手に賑々しく出迎え、戸数10万戸の国王が後宮に女を6~7百人も抱えていたと記されているが、超富豪の権力者と奴隷的人民の対立が頂点に達していたかもしれない。続日本紀に、亡くなった持統太政天皇は、質素な葬式にしなさいと細かい事まで遺詔した、と記しているのと大きな違いがある。また、日本書紀で「百姓」を「おおみたから」と読ませるのも何かの意図を感じる。この「百姓」は口分田を支給された人民を指すと思われるが、{生口(奴隷)=財産=たから=最高級の献上品}という発想の裏返しの様に見え、相当の意識変革があった感じがする。続日本紀では位階や功績に応じて戸数幾らの封を下賜するという記述が頻出するが、現代感覚では皮肉の一つも言いたくなる。但し日本国にも奴婢は存在していた様だ。

 日本書紀に記載されるその他の重要事項も同様に想像することは可能だが根拠が乏しいので控える。しかし、国譲りと神武東征については、この考えに基づけば、従来とは全く異なる状況を提起することになるから、少し検討したい。

 国譲りは出雲が征服された話であるが、実は出雲族が日本各地に勢力を拡大した事の裏返しかもしれない。大国主命は全国多数の神社で祀られ、神無月は出雲では神有月だと言われるから、出雲は古代権力の中枢だった筈だ。但しこの話が鎮魂だったとしても、日本書紀成立以前から存在していた可能性が高い。それであれば、敗者を鎮魂する物語を創作するという発想は起源が遡ることになり、倭人時代からあったことになる。

 神武東征は日本書紀編者の創作である疑いが濃い。続日本紀702年八月1日に、「薩摩と種子島は王化に服さず政令に逆らっていたので、兵を遣わして征討し、戸口を調査して常駐の官人を置いた。」10月3日に「要害の地に柵を建て、守備兵を置いて守ることを(薩摩)国司に許した。」と記されている。最後まで倭人として新政権に対峙した九州南部から西南列島の住人が征討されたのだろうか。新旧勢力の抗争過程で多くの殺傷や戦闘があったとすれば、『遥か昔、その人達の先祖が日本国を開いたという創作物語で鎮魂した。』のかもしれない。九州南部から西南列島の人達は、江南との交易の最前線で活躍した人達だ。畿内の倭政権と関わった歴史は長かった筈である。交易で利益を上げ、古代的農業経営をしていた貴族的倭王権の主体は畿内にあっただろうことは、墳墓の規模から推測される。

 倭王や地方豪族が最も裕福だった古墳時代は、中国では漢王朝後の長い混乱期だった。その時期に富裕になったのなら、それは奴隷交易の増加と貴族制的大土地農耕の進展だったと推測する事ができるのではなかろうか。黄河流域や江南での贅沢品の交易が低調になり、政治的に不安定になった黄海・渤海沿岸から調達した奴隷を江南や畿内に売った状況が想定される。水田稲作地では鉄器が普及して初めて湿った土が耕せ、灌漑土木事業が新しい農地を産む。新石器時代・青銅器時代に華北が開発されたのは、天水での畑作には水田稲作ほど湿った重い土壌を耕す必要も、灌漑水路掘削の必要もなかったからだと推測される。中国で鉄器が本格普及するのは漢代だと言われるが、江南の大規模水田開発は南北朝以降とされるから、丁度その時だったことになる。倭国も同様の状況にあったのだろう。

 奴隷という言葉で、アメリカ合衆国南部の黒人奴隷をイメージするのは、妥当ではないだろう。中国では前漢末に6千万人だった人口が内乱により後漢成立時に2千万人に激減していた。後漢末に5千万人代に回復した後、魏志倭人伝が書かれた三国時代に2千万人以下まで激減した。隋が統一した時5千万人近くまで回復していたが、江南の開発による人口分布の変化も考慮する必要があるだろう。人口激減の要因は、気候変動や天災、騒乱による耕作放棄、過剰開発による土地の荒廃、などの複合らしい。人口激減期の人身売買は、平和な農村から人が拉致されたという図式ではなく、流民に行き先を与える効率の良いビジネスだったと思う。合意なく拉致して抵抗されたら古代の船では運搬できないだろう。それが出来るほど古代倭人の船が大きかったとするのは少し買被りではないかと思う。この件に関しては百済建国の話でも触れた。

 農業生産性が低い古代の高度な文明は、世界のどこでも、多数の奴隷的人間の存在と、厳しい身分制を根拠にする富豪の存在が根底にあった筈である。日本が誇る和歌、かな文字文学、仏教、巨大寺院建築などの文化の基礎を作った古代倭国で、奴隷制が国家制度として整備されていたとしても、不思議ではない。安定した奴隷制経済は古代文明の一つの特徴だっただろう。

 国名が日本に変わったのが、奴隷制的古代国家の終焉であったのなら、日本の古代からの脱却は比較的早く、奈良・平安時代は中世の始まりと解釈できるかもしれない。西欧がキリスト教時代なら、日本は仏教時代で、共に多神教から特定宗教に変わったことになる。領土的にも、日本は海上交易立国から鎖国状態になり、中世的地方分権が始まったとも看做せる。

 もう少し筆を滑らせれば、フランク王国の国王が神聖ローマ帝国の皇帝になった時、自国の歴史を編纂させたとして、そこにスキピオやカエサルが登場するだろうか。地中海交易の話も殆ど出さなくとも、ローマ法王の権威は記述するだろう。当然その起源や事績の歴史記述は、ローマ史とは懸け離れたものになるだろう。しかし、フランク族の主要な地は旧ローマ領で、言語もラテン語で、宗教もローマンカソリックだ。日本でも類似の事が起こったと考える事にも、ある程度の合理性がある様に見える。

 中国が隋唐に統合され、朝鮮も新羅に統一されれば、奴隷の供給は細るだろう。倭国の富の源泉が失われ、倭国王の経済的基盤が失われ、東国や内陸の自営農工商民の勢力に倒されたとすれば、それは歴史の必然かもしれないし、当時の日本国の改革が余りに理念的で急だったため、また貴族的平安時代に少し揺れ戻ったのかもしれない。唐でも均田制は早期に行き詰ったらしい。

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2013年1月 8日 (火)

倭国伝に見る日本人(唐書)

唐(618年~907年)は、隋の煬帝が反乱の中で殺された後の混乱を制し、隋の楊氏と同じ鮮卑出身の李淵が建てた国。唐代に倭は日本に国号を変える。唐初は倭国として朝貢し、百済滅亡(660年)、白村江の戦い(663年)の後、日本国として朝貢する。

唐書には旧唐書と新唐書があり成立時期が異なる。

旧唐書で、「山島に依りて居す。東西は5ヶ月の行、南北は3ヶ月の行。」「代々中国へ使節を通わせている。」「其の王の姓は『あめ氏』。一大率(一人の大将軍)を置き諸国を検察せしむ。皆これに畏附(おそれてなびく)す。官を設けるに十二等あり。」「女多く男少なし。頗る文字あり。俗は仏法を敬す。並べて皆跣足(はだし)し、幅布を以ってその前後を蔽う。」「婦人は純色の裙(スカート)、長き腰襦(腰まで届く上着)を着、髪を後ろに束ね、銀花の長さ八寸なるを、左右各数枝づつ佩び、以って貴賎の等級を明らかにす。衣服の制、頗る新羅に類す。」と国情を記している。

「女多く男少なし。」は随書にも記されているが、中国に比べ女性が存在感を示していたからだろう。魏志倭人伝に「父子・男女に別なし」と書かれた風俗を思い起こす必要がありそうだ。

「頗る文字あり」は随書で文字文化に関する評価が低かった事を否定し、文明国だと判定している。当時日本では漢字は隋唐の漢音ではなく、呉音で発音していたから、遅くも南朝時代に江南から文字を学んだ筈だ。

「衣服の制、頗る新羅に類す。」は実は新羅が日本風の衣服を用いたとも言える。新羅は唐がまだ全土の統一過程にある621年から朝貢し、624年に楽浪郡王・新羅王に封じられた。中国の使者にとって新羅は既知の国で、倭国は初めて訪問する国だったから「新羅に類す」と感じても、どちらがオリジナルか判断できなかっただろう。日本は人口が多く物産の豊かな国だったから、小国新羅の真似をする必要はなかった筈である。新羅伝で「国人、金朴両姓多し、異姓と婚を為さず。」とあり、高句麗・百済の扶余系国との違いを見せている。新唐書で詳しくそれについて書かれていることは、「王の血族を第一骨、第二骨と名付け、」「王の兄弟の娘、おば、従姉妹はすべて結納を贈って王の妻とする。」「生まれた王の子はすべて第一骨で、彼らは第二骨の女は嫁にとらない。」「正妻にはしない。」「王の姓は金氏、貴族の姓は朴氏、一般人民には姓がない」とあるが、これも日本書紀に書かれた日本の皇族の、同母兄妹でなければ婚姻できるとか、日本の民衆の姓は部民制から生まれたらしいという非中華的制度を連想させる。新羅では631年、この血脈の女性「善徳」が王となったが、これも日本の推古女帝(593年~628年)と時期が近い。推古天皇は捏造だとすれば、次ぎの女帝は642年即位の皇極天皇となり、新羅が先んじたことになる。

時代は下るが、日本人が誇る小説『源氏物語』(1000年頃)は皇統を正面から描きながら、全くの虚構である。これは中華的文明圏ではあり得ない事の様に感じると同時に、日本人の歴史観を顕わしていると思う。この感覚で日本書紀を書けばどうなるだろうか。持統女帝は確実な存在として、皇極天皇ですら、新羅の「善徳」女王より遅れたのは、新羅を属国と考える日本人、特に女帝には恥辱と感じたのではなかろうか。日本書紀が書かれたのは、持統女帝に譲位された孫の文武、その母の元明、文武の姉の元正と女帝が続いた時代だ。属国と看做していた新羅の真似をしたと看做されたくない意地から、推古女帝を捏造したというのはあり得る事の様に思える。紫式部が『日本紀の御局』と一条天皇に言われたのも、これと関係があるのではなかろうか。紫式部と天皇は、日本紀(日本書紀)は捏造・創作だと知っていたとすれば、辻褄が大いに合う。平家物語や太平記も、歴史を文学にしてしまう日本人の特徴の表れと言える。

「俗は仏法を敬す。」は南朝に朝貢していたから、隋・唐以前に南朝仏教が伝来した事を示す。仏教用語に呉音が多い事はそれを支持する。海洋民族倭人が毎年南朝に朝貢していたのに、大陸民族の子孫である百済を通して江南の文物を導入する事は、百済の地理的位置から考えればあり得ない。日本では江戸時代まで呉音が主流で、明治時代に作られた翻訳用の熟語が漢音だったため、以降漢音が主流になったという指摘がある。遣隋使・遣唐使によってもたらされた中華文化はさほど浸透せず、日本の漢文化要素は基底に江南文化があると認識すべきだろう。

江南仏教について考察する材料は鑑真だろうか。鑑真は華南の人で、華南の寺の住職だった。743年以降10年間に6回渡日を企て漸く日本に渡った。弟子が反対・妨害し、玄宗皇帝に許されなかったのに強行したのは、日本僧が強く請い願ったからだ。遣唐僧は北朝系の国家鎮護的仏教を日本に導入した。南朝系の仏教は個人の悟りを重視する。現代に語り継がれている鑑真の著名度と、しかし鑑真だけが渡日僧でもなく、唐招提寺は南都7大寺に入らないことから推定すると、日本の仏教徒は南朝系が多数派だったと推測される。鑑真が渡日したから日本の仏教徒は呉音で経典を読み続けているのだとすれば、鑑真の決死の行動は十二分に開花したことになる。

仏教経典の呉音使用、江戸時代まで呉音主流だった日本語、倭国の華南王朝への継続的朝貢は、華南と日本の深い関係を示すが、飛鳥奈良時代の朝廷の関心は、遣唐使が持ち帰った北朝系仏教に注がれ、日本書紀には南朝との交渉に関する記述がなく、隋唐や半島経由の文化を礼賛する傾向がある。それは史実が抹殺されたかからなのか、忘れられてしまっていたのか、そこを検討する。

旧唐書に倭国の事績として記されているのは、

「631年朝貢して来たので、皇帝は使者を倭国に派遣した。使者は外交的手腕がなく、儀礼のいきちがいから倭国の王子といさかいを起し、国書を読み上げることなく帰国してしまった。」

日本書紀では、舒明天皇が犬上御田鍬を唐に派遣(630年)し、唐の使者が来て(632年)、応接は友好的だった様に記している。王子は中大兄皇子(後の天智)になる。

「648年新羅の唐への使者にことづけて上表文を届けた。」

日本書紀にはこれに関する記述はない。親唐勢力の活動は不活発だった様だ。

以上で旧唐書での倭国王との交渉の記述は終っている。高句麗・百済・新羅伝と比較すると交渉が極端に少なかった事を示している。

以下は新唐書。新唐書では倭国と日本は同一の国とし、名称は日本に統一して記述している。新羅と比較すると記述量は半分以下であり、記述内容も具体性を欠いている。

「国王の姓はあめ氏、彼が自ら言うには(提出した日本紀によれば?)、初代の国王は天御中主と号し、・・・」以下日本書紀の抜粋と思われる箇所が散在するが、それを省くと、

650年頃 国王孝徳が即位し、大きな琥珀と瑪瑙を唐に献上した。(豪華な宝物を献上した。)

662年 天智の治世に日本の使者が弓の巧みな蝦夷人と共に入朝した。

663年 白村江の戦いで倭軍は唐軍に敗れる。日本書紀では前年から高句麗・倭・百済連合と唐・新羅連合の戦いの記事で埋まり、遣唐使の記事はない。

唐書百済伝では白村江の戦いは「豊(百済王)、高句麗・倭と蓮和す。」「豊の衆白江口に屯するも、(唐軍は)四たび遇いて皆克ち四百艘を火く。豊走りて所在を知らず。偽王子の扶余忠勝・忠志は、残衆及び倭人を率いて命を請う。」とあり、主力は百済人で倭人は助っ人と看做している。

新唐書日本伝に戻ると、

天智が死ぬとその子天武が位を継いだ。天武が死ぬとその子総持が位を継いだ。

670年 唐が高句麗を平定した(668年)ことを慶賀した。

 その後日本人は倭という呼び名を嫌って日本と変えた。日本の使者はその理由を「日が出る処にある国だから」とか「倭が小国日本を併合して国名を奪ったから」とか言って真相を話さないから、使者の言う事は疑わしい。

 701年 日本の国王に文武が立った。文武は朝臣真人粟田を遣わせ朝貢した。真人は学問を好み文章が書け、物腰が美しかった。新旧唐書はこれが日本国との初の事績とし、日本に変えた真相を話さない使者を粟田としてはいない。粟田は653年の遣唐僧で帰朝後還俗。

 日本書紀は文武の前の持統が文武に位を譲るところで終る。続日本紀は697年文武即位から始まり、701年に日本独自の年号「大宝」を使い始める。同年入唐使の粟田朝臣真人に節刀を授けたと記しているから、双方の朝貢記事は一致している。

 文武が死ぬとその子の元明(阿用)が位を継ぎ、元明が死ぬとその子の聖武が位を継ぎ白亀と改元した。

続日本紀が正しければ、唐朝には日本国に関する情報はあったが正確さを欠いていた。元明は文武の母で名前は阿閉、元正が抜けており、白亀は誤りで正しくは神亀。不確かさの原因は、日本が新羅の様に冊封国として王の称号を代々拝命しなかった事に因るとしても、日本の使者は唐朝に天皇の系譜を正確に申告しなかったのだろうか。唐が勝手に継嗣相続と決め付けることはないと思うのだが。

 713年頃 粟田は再び来朝し、唐の儒者達から経書の学を教えてもらいたいと願い出た。粟田は帰国する時、唐朝から贈られたものすべてを投じて書物を購入し持ち帰った。粟田の副使朝臣仲満は中国を慕って帰国しなかった。(阿倍仲麻呂?)

聖武が死んで娘の孝明が位を継ぎ、天平勝宝と改元した。

仲満は753年安南都護に抜擢された。

新羅が海路を封鎖したので日本は航路を変更し、明州(寧波)・越州(会稽)経由で朝貢するようになった。

 日本が新羅と不仲になったのは753年の長安での席次争いが原因だと言われる。唐の朝賀の場で、日本の遣唐使が、新羅は日本の従属国である事を理由に日本の席次が上位である事を主張し、唐はそれを認めた。当時から日本人は半島に優位意識を持ち、半島人は中華での席次に上位意識を持っていた様だ。

 孝明が死に、淳仁(大炊)が位を継いだ。淳仁が死ぬと、聖武の娘高野姫を王にした。

 780年 真人興能が国の物産を献上した。興能は書にすぐれ彼の用いる日本産の紙は蚕の繭に似てつやがあり、唐の人は初めて眼にするものだった。」

 以後光孝天皇(884年~887年)までの皇統や空海についての簡単な記述が続く。

唐書では、天武の子の総持まで倭国で、文武以降日本になる。日本書紀では天武の次は妃で天智の娘である持統で、日本書紀の記述は持統の禅譲で終る。中国ではしばしば王朝の簒奪に禅譲を用いたから、これで国名が変るのは王朝の交代だと解釈したらしく、初めての日本国王の文武は誰の子か記述がない。中華では王朝を滅ぼした政権が前王朝の歴史を記述するから、日本書紀は新政権によって倭国の終焉を描いたと解釈されてもおかしくはない。

国名変更はさほどの歴史的意味はなく、天皇呼称開始や独自年号の採用を契機としただけのことかもしれないが、少し穿った見方をすれば、日本書紀の編纂者が、中華の歴史記述の作法を知らなかった筈はなく、政変があったから日本書紀を持統天皇で区切ったとの推測も否定はできない。この場合、日本では既に皇統の皇位継承は確定し、有力者が天皇を担ぐという、後世の藤原摂関政治や幕府政権の仕方と繋がる政権概念が出来上がっていたという解釈とセットになる。この場合、中華的な歴史観での皇統は変らず、政権という機能が変わるから、中華的歴史観による王朝交代を想定する唐朝の官僚に、日本の使者が適切な説明ができなくても不思議ではない。唐では妃が政権を取れば国号が変るのだから。(則天武后の周)

江南や南朝と頻繁に交渉・交易した倭国権力と、日本書紀を書き、続日本紀に書かれる奈良時代の日本国権力には違いがありそうだ。唐の使者と言い争った天智は、嫌唐という意味で倭国的で、唐書や続日本紀に描かれる文武は親唐的という意味で日本国的に見える。壬申の乱が権力闘争の最終騒乱だったのであれば、美濃以東の軍が不破の関を越えて近江に攻め入り勝利したという記述は気に掛かる。九州の防人を関東人が担ったのも不思議である。

更に不思議なのは、遣唐使船は随分難破しているが、千年の歴史を持つ海洋民族倭人がこのように不甲斐なく、日本書紀に海洋民族的記述が希薄な事である。奈良時代に内陸勢力が台頭し、伝統的海洋民族と対立したという構図が浮上する。

古墳時代以降東国の開発が進んで農業生産力が高まり、鉄の内製化が進み、中国や半島の政治が安定して奴隷交易に旨みがなくなり、西日本の海洋人は活動の幅を狭めざるを得なかった状況が想定される。これに対し、調の生産を始めとする手工業生産が盛んになり、国内交易による富の蓄積が始まり、朝廷も東国経営に熱心になった状況も想定される。農業に熱心な東国人にとって、必要なのは唐文化で、江南を懐かしむ西国海洋民族と方向を異にした可能性がある。倭王武が征服した毛人や、近畿・東海から入植した安房・常陸の人々が、朝廷に勢力を張り出したのではなかろうか。藤原氏の氏神である武甕槌命は茨城県の鹿島神宮の神で、藤原不比等の母は上毛野氏の一族車持氏の娘である。平安時代末期、関東に源・平・藤原を名乗る豪族が多かったのは、この流れと無関係とは思えない。

続日本紀は冒頭からこの動きを連想させる記述に満ちている。

文武4年(700年)遣唐僧道照の死を天皇が惜しんだ記事が特書されている。

 道照は北朝系仏教を玄奘から学んだ。

701年大宝律令を下毛野朝臣古麻呂らに講釈させ諸官に学ばせた。(翌年天下に頒布)

大宝律令は唐の法体系を日本風に改変した律令。

702年8月1日薩摩と種子島は王化に服さず、政令に逆らっていたので、兵を遣わして征討し、戸口を調査して常駐の官人を置いた。 10月10日持統が三河に行幸。11月25日三河から帰還。12月10日木曽路を開通させた。持統は12月13日病が重くなり、22日死去。

この仰々しい決死の行幸は都を信濃に移す試みからだと主張する研究者が居る。

この時代の東国の寺院として下野薬師寺が有名である。薬師は敦煌、新羅とも連なる隋唐系の信仰で、聖徳太子とも関連し、全国の薬師寺はすべて天皇の意向により建てられた。下野薬師寺は下毛野古麻呂が建てたとされている。

この雰囲気の中で執筆された日本書紀は、華南文明派の事績の排除、隋唐派だった百済新羅系移民の優遇、という筆致を示しているのだろうか。倭の5王を始めとする南朝との事績を意図的に無視し、毛人・衆夷を征服し服属させた事績もなく、南九州や西南諸島の人々に対しても冷淡だ。江南派が白村江の戦いで敗れ、混乱の後に陸上兵力に優る親唐派が政権を握り、藤原不比等がその後の親唐的改革を先導した結果という解釈が成り立つとすれば、根深い対立は何を原因としていたのかを考える必要がある。

一つの類推は、農地の所有概念を唐から導入するか、華南から導入するかという選択肢だろうか。日本国は唐の律令と戸籍制度を取り入れた班田収受の制を採用し戸毎の所有を企画した。大土地所有制なら、農地は所有者が恣意的に小作や農奴に分配する。未開の原野が広がる東日本では、唐方式は効率的な制度と看做された可能性が高い。逆に狭い可耕地を開発し尽した西日本では魅力がなく、既得権益の侵害を恐れる大土地所有者は望まない制度だっただろう。

別の観点として、海上活動能力を高める中国人に対し、倭人の海上での優勢は動かないと考え、小国分立状態を肯定する旧守的勢力と、中国に強力な統一政権が出来たから、倭国も強力な中央集権国家に変わらなければ、侵略されて植民地化されてしまうかもしれないという危機感を持つ集権国家勢力と、対立があったかもしれない。

中国南朝の土地制度がいかなるもであったか分かっていない様だが、貴族を基盤にした大土地所有制だったらしい。少数の上位者に富が集中し、国家基盤の弱い制度だ。日本の古墳の規模が異様に大きいのは、古墳時代の統治制度が南朝の大土地所有を真似ていたからとも考えられる。隋から派遣された使者は、倭国王は「天子」を称していたが、倭を小国の連合体と認識していた。各国の王は貴族化していたことになる。倭国王の後宮に女が6~7百人居るという記述から、倭国王は富裕だと感じる。少し時代が遡るが、漢書地理誌に「楽浪海中に倭人あり、別れて百余国となし、歳時をもって来たりて献見すと云う。」とあり、後漢書では「凡そ百余国あり。武帝の朝鮮を滅ぼしてより、使訳の漢に通ずる者、30ばかりの国ありて、国ごとに皆王と称し、世々統を伝う。」とある。戸数1万程度の国までが王を称して楽浪郡に殺到する様子は、異常だろう。金印を下賜されるほど富裕な国王の連合体が倭なら、貧富の差が大きい華南貴族的な豊かさだったのではなかろうか。魏志倭人伝の「尊卑各差序有りて、相臣服にするに足る。」「下戸、大人と道路に相逢うときは逡巡して草に入る。辞を伝え事を説くときは、或いは蹲し或いは跪し、両手は地に拠り、之が恭敬を為す。」は厳しい身分秩序があったと見える。稲作は労働集約的で、灌漑工事に多数の労働力を必要とし、強力な権力を生みやすいだろう。

華北の畑作は天水農法で農民の移動性が高く、均田制を発想する下地があったと考えられる。班田収受は戸籍を必要とし、農地の戸別所有を保障する仕組みの前駆的制度である。班田収受が実際にどの程度実施されたか不明だが、新たな官製灌漑工事で作られた口分田を、戸籍を作って配分するのは合理的である。土地の所有単位を戸別とする制度を、東国の農業生産を基盤とする勢力が推進したのは、官主導の土木工事による大農地開発が活発に行なわれていたからだろう。続日本紀には多産を賞する記述が幾つかある。新たな開墾農地の経営に必要な労働力を国内人口に求めている。伝統的倭国は、労働力を生口(奴隷)に頼っていた疑いがある。新唐書新羅伝の終わりに、半島南端から多数の新羅人が拉致され、「中国のいたる所で新羅人が奴婢(奴隷)とされている。」からそれを防止するために1万人の兵で青海を守らせたという記述がある。新羅人を拉致したのは、新羅人か、中国人か、倭人だったろう。日本に売っていた可能性もあるが、戸籍があれば奴隷姓は成立しないだろう。

江南的な奴隷制的大土地所有を主張する海洋民族倭国勢力と、隋唐的な均田制を主張する内陸勢力の相克が大化の改新で顕在化し、壬申の乱で決着が付いたのだろうか。推古天皇と聖徳太子も日本書紀により捏造された様だから、倭国はその時既に混乱に突入していたのかもしれない。東国を中心とする農耕倭人が政権を取った時、西国を中心とする海洋倭人の歴史を抹殺したとすれば、日本書紀の解釈が分かり易くなる。それなら、アメリカの南北戦争の様な事を、その1300年も前に行なったことになるのかもしれない。埼玉県には高麗神社が今日まで存続している。

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