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2012年9月 6日 (木)

脱原発、もうひとつの論点

 日本人は今深刻な原発アレルギーになっているが、民主党政権、マスコミ、経済界が騒いでいる論点とは別の視点でも脱原発を検討する必用がある。政治家もマスコミも、増して経済界の人も決して公の言葉としては発しない最も重要な視点は、問わず語らずの中にある。それは安全保障上の視点である。しかしこれを無視して将来の脱原発を云々することは軽薄との誹りを免れないだろう。

 今、安全保障上の問題として最大に露出している言葉は、「日本が脱原発を決めれば米国原子力産業は韓国と組んで原発開発を進め、米国にとって日本の同盟国として地位は陥没するだろう。」とするものであるが、これはまだ厚いオブラートに包まれているので真の苦味が伝わらない。日本の産業力を以ってすれば米国が安易に日本を軽視する事はないだろうと言う様な的外れの期待を国民に抱かせてしまう。

 脱原発の議論は、今日の我々日本人が子孫に何を遺すかの二つの選択肢を議論しているのだと考えるべきである。一つは安全な自然環境を残すべきだとする考え方であり、別の考えは安全な国土を残すべきだとする考え方である。安全な自然環境についてはここで解説するまでもなく、放射能汚染の恐怖から隔絶された日本という意味であり、現下の国民の最大の関心事となっている。別の考えは、公の場では発言できないから、匿名の提言としてここに披瀝したい。多分多くの国民は既に気付いているとは思うが。

 安全な国土とは国際環境下の安全保障上の安定性という意味である。今中国は核兵器を持ち、北朝鮮は持とうとしている。20年後、50年後、100年後、更に多くの国が核兵器を保持している可能性は極めて高い。中国と韓国は日本に対して友好的ではない事も周知の事実である。その心情的理由は日本人には理解出来ないが、彼らには彼らの理屈があり、「話せば分かる」相手ではないし「人として生きる道がある」という日本的宗教観は持っていない。時々に応じて彼らには彼らの事情があるが、その事情は日本人の努力では決して解消されない。恐らく日本人が地球上から消えてなくならなければ消滅しないだろう。彼らが日本人を抹殺しようと考えているわけでもなく、これは大陸の共存論理である。

 原発は核の平和利用であり、日本は核兵器を持つ意図は持っていない。但し潜在的には保有能力は持っている。それは原発を持っているからである。それであるから日本はIAEAの査察を無条件に受け入れ、核兵器保有の意図は無いことを世界に証明している。原発を持つ国としてあるべき姿勢である。しかし、人のすることであるから、ある時事情が変わるかもしれない。勿論そうならないことを望むのは当然である。しかし、万が一事情が変われば日本は核武装できるという事実は厳然として存在し、それが核保有国への力の誇示になる。

 日本人の中の無条件平和主義者は、こちらが武装すれば相手も武装するのであり、こちらが武装しなければ相手は平和的に対応すると主張する。しかし相手は日本だけを意識して武装するのではない。中国が年々防衛予算を急上昇させている理由は誰も説明できない。中国人自身も説明できないかもしれない。ともかく彼らは19世紀以降他国の武力に痛めつけられてきたから、民族意識が芽生えれば、本能的に武装するのかもしれないし、実は明確な国家目標を密かに持っているのかもしれない。民主主義国ではない彼の国の真の意図や意識は公開されないから誰にも分からないし、ある時秘密裏に考えを変えるかもしれない。民主主義国家でさえ、首相や大統領は自身の意見を公表して選挙に臨むから大丈夫という見識も成立しない。選挙では人物を評価されるだけで、政策は臨機応変に実施する事が許され望まれている。米国でさえ、ルーズベルトは国民を対日開戦にリードしたし、トルーマンは公約とは関係なく広島と長崎に原爆投下する許可を与えた。

 時代が大きく変化すれば、それらを考慮しなくても良い時代が来るかもしれない。しかし現下の極東情勢で、日本が核武装の可能性さえ否定し去るのは、国土安全保障政策の放棄だと考えざるを得ない。勿論日本は核武装などする意図は持っていない。しかし安全保障は自衛力のパワーバランスの上に成り立つという現状と、近い将来それが解消される目処は立っていないという事実は認識しなければならない。日米安全保障条約は重要である。日本は米国の核の傘の下に安住したいと考えるのも合理性がある。しかし落日の米国が50年後も日本を庇護し続けている事は確実だとは言い切れない。その時の対応可能性を放棄するか否かが、今の脱原発依存の議論には反映されていない。我々の世代だけが米国の傘の下で安全を享受できれば良く、子孫の事は子孫が考えるべきだというのは無責任である。一旦技術開発から離れれば、未来永劫競争力ある技術力の復活は望めないと考える必要がある。

 そうならないためには、原発は稼動させ続け、新鋭機も導入し続けなければならない。少し言い過ぎれば、例え第二の福島が出来てしまおうと、安全保障は更に重要な要件であると言えるだろう。勿論従事するエンジニは決して再発しない様に万全の備えを企画しなければならない。そのためには日本人はオブラートに包まれた言辞の中の真実を見詰めなければならない。

 国民の動揺に振り回されている今の民主党政権は原子力行政を担当する資格に欠けている。しかし、維新の会も言う事がおかしい。保守的改革志向は支持する人が多く、改憲推進もそれへの整合性があるが、それでも脱原発と主張するのは自己矛盾になる。地方政治にしか関心が無いからだと思うが、認識の甘さは否めない。

 脱原発の市民運動は、もう死語になっている「アナーキズム」の様に見える。権力の存在は悪だとする思想であるが、権力が無ければ無秩序しかない。犯罪を取り締まる法律もなくなる。権力は必要だが常に監視と改革が必要だとせねばならない。その監視活動にのめり込むと何時の間にか「アナーキスト」になってしまっている自分に気が付かない人が多い。菅元首相が福島原発に乗り込んだ事は不適切だったと結論付けされつつあるが、なぜ彼がその様な不適切な行為を行い、反省する気配が無いかについてコメントする人がいない。菅氏は「アナーキスト」だから、権力とは組織的であらねばならないという認識が欠けているからである。権力を批判する事は、本能さえあれば誰にでも出来る。しかし権力を構築し維持する事は並大抵の努力では出来ないし、時に非情な判断もしなければならない。原子力の安全利用も然りであり、全ての機構、技術、体制、そして日本民族文化にも言える。

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