2013年11月 5日 (火)

予知能力の涵養

人が生きていくためには色々な能力が要る。学校で習得するのはその一部でしかない。学校で学べない能力に予知能力がある。学校や塾で学びすぎるとこれらの能力はむしろ退化する。しかし実社会では色々な場面で使わざるを得ず、結果に大きな差が出るし、能力を向上させる経験も個人差が大きい。

経験は常に能力を向上させるわけではなく、余りに高い能力を要求されると、挫折感から却って向上意欲を失わせ、劣位の人になる場合も多々ある。能力が要求されているという認識は個人的な感性のみに依存するが、その感性は周囲の人からの教唆による影響も大きい。特に若年になるほど、経験が乏しい故に大きな影響を受けやすい。

子供は本能的に自分の感性に大人が踏み込むことを警戒している。それを許せば自分の感性が大人に支配され、自律性が破壊されると感じるからで、その感覚は極めて正常である。感性が大人に支配された子供は、子供時代には良い児かもしれないが、大人になって自分に必要な能力を嗅ぎ分ける能力を喪失している。その様な子供は人格障害を発症しやすい。親子で価値観が近いからと言って、子供が自分の判断プロセスを親に渡したくないと考えるのは極めて健全である。反抗期という概念があるが、感性の防衛はもっと若い時期から萌芽すると考えるべきであろう。

人格障害は、学校で学びにくい能力を持っていない事を自覚している人を包含する。自分の価値観に不安を感じ、余りのギャップの大きさに圧倒されれば、逃避するか従順に振舞うかどちらかになる。青年期であれば親や教師や友人に、社会人になっていれば社会組織に、結婚していれば配偶者に従順になる。これは人間として当然の行為で、この分野に得意な人の忠告を素直に受け入れる姿勢は時に美談でさえある。近年、個性化としてこれを否定する思潮が拡大している。そのことそのものの是非は判断しにくい。成功している者は声が大きく、好ましい流れに見えるが、敗者には厳しい世界観である。左翼は経済活動にだけ、貧富の差として噛み付くが、問題の本質はむしろ、個人を前面に押し出すことによる社会の荒廃懸念ではなかろうか。

予知能力に関して言えば、問題なのは、幼児期に親に従っていたが、それでは社会では立ち行かないと気付いた場合である。社会に溶け込めない自分に苦しむだろう。しかしこの時点ではまだ人格障害ではない。

世間には積極的で攻撃的な人と受動的で温和な人がいる。必要な能力を身に着けていると看做される人が積極的であれば、人は高く評価する。受動的で応分のささやかな人生を目指す人は人畜無害と言われる。問題は能力が無いのに積極的な人である。荒っぽい分け方であるが、人を相対チャートで区分すれば、1/4の人がこれに相当する。更にその1/4の人の程度の優劣を再び各2分すれば、その区分1/4の人、即ち全体の1/16の人はかなり危険な状態になるという机上の理論になる。机上ではあるが、人格障害者の統計では、概ね数パーセントから十数パーセントが、人格障害者と言われるのは、この単純な推論と合致する。

人格障害者の典型的なモデルは、母親が人格障害者の人である。価値判断が定まらず、独善的で攻撃的な人になる。彼女は子供に、学校では学べない能力を伝授できない。彼女自身は世間の荒波を乗り切るために、即ちその能力の欠陥を補う為に、世間で明確に推奨される行為を組み合わせて実行するが、そのちぐはぐさから能力ある人からは疎んじられる。彼女は自分の子供に見せかけの推奨動作をさせるが、心という能力は伝授できない。一部の苛立つ母親は語気が荒くなり、子供に理由を伝えずに推奨行動のみ要求するだろう。母親と呼ばれる人は一般論として、自身の社会的適応能力とは関係なく、子供を躾ける能力が高い人が多い。これは女性の生得的能力だろう。男性には元々無い能力だから、男女を比較しても意味が無い。男性は、理性だけで子供が知能を発達させ得ると誤解している。誤解はしていないのだが、男女同権論というイデオロギーに触れると反論できず、予知能力の無い男性も、自分も子育て出来ると錯覚し、行動に走ったりする。

孤立している子供は、新しい共感を求めて仲間を探すが、それは苛めグループ関係になりやすい。大人の世界でもそれは日常茶飯事だ。軋轢の中で孤立する子供は、いじめの標的になりやすい。しかし彼らは、それを通してしか母親から学べなかった能力を確認できる場がない。問題児の集団から、標準より高い能力を備えた子供も排出される。子供も経験から学ぶのであって、教育はそれを微弱ながら支えているという程度のものでしかない。

それらのグループに入る事を禁止された子供は、思春期から大きな違和感を持って過す。漠然とした違和感を抱えて大人になるのなら、その人は正常である。自分の未発達な能力を認め、親離れするのを反抗期と言うが、よほど出来た親でない限り、問題を他人に転嫁する手法を子供に教える場合がある。その性合成に子供は葛藤し、親からは離反する時期が遅れ、離れた後が悲惨になる。

人間関係は生涯の課題なのだから。

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2013年10月27日 (日)

良識と正義

 良識は長い経験の中で培われた共通認識で、正義は複雑化した社会を維持矯正する大義になる。良識は個別民族が土俗的に持っている、望ましいと感じる秩序感だが、正義は一部の秀才が机上で作った理想という感覚がある。参加者が多い世界の事だから、皆が深く関与して決める類の事ではない。

良識は発展途上の社会を形成している民族も持っている。過去何千年も、その民族を存続させてきた理由でもあるから、発展途上の民族の良識にも、聞くべきものがあるはずだ。しかし社会の発展が途上であれば、正義については議論の余地がある。西欧化が進みやすい領域になる。

 常識的に考えれば、正義と良識は共存するのが好ましいが、先進国であっても一部に齟齬がある。それは常の事であるが、極端な考え方の持ち主の中には、共存を否定する人達が多い。典型例が共産主義だろう。世界国家を目指す故に、各民族の良識を否定する。しかし共産主義者にあるのは正義だけで、良識という概念が希薄だ。必要ないと考えている節が見える。社会主義者も同様の傾向がある。

 人間は感情の動物だから、それと社会秩序を調和させる事は、結構難しい。良識はそれに対して大きな役割を果たしてきた。良識の存在理由はそれであると言っても過言ではないだろう。従って、正義のない良識は世界各地にあるだろうが、良識のない正義が通用する世界はあり得ない。それを無理に強行すると、不都合が生じる。その好例が、文化大革命であり、カンボジアのキリングフィールドだった。正義が暴走し、良識がそれを止められなかった。

 西欧の良識は、世界で最も完成度が高い。それ故に高度な文明を育んできたが、2度も世界大戦を行なうほどに不完全なものでもある。その他の国々の良識は更に劣っているのだろう。良識は多分に土俗的なもので、容易に比較はできないから、個別の比較論は難しい。各国の世論には、欧米化と土俗回帰のせめぎ合いがあるだろう。日本も例外ではない。内容の良し悪しより、拠って立つ人の政治的・経済的利害関係で論争が進むから、見えにくいのも各国共通の事情だろう。

 いずれにしても、良識のない正義は危険極まりないから、極力避けねばならない。民族文化をおろそかにしてはいけないということである。社会が複雑化すると、社会派が実権を握り、民族派は旗色が悪くなりやすい。発展途上国ではその傾向が顕著だ。特に大国化して正義と良識を共に発展させて来たと言う自負があると、話がややこしくなる。共産中国と台湾にその顕著な実例がある。台湾には元々社会的正義は希薄だったから、日本の正義を受け入れた人達が、一時蒋介石政権の中華に戻そうとされながら、また日本の正義に戻って自信を深めている。中国は大国のプライドとしてのブレーキと、正義を推進する共産党のアクセルで、文化大革命を経てもまだ良識も正義も方向性が見えない。今後も当分混乱が続きそうで、国民の良識は劣化し続けている。中国韓国の移民や旅行者の良識のなさには世界が唖然としているが、それでも何とも出来ない。

 アメリカでも、民族的良識を持っているのか分からないオバマが大統領になった。民主党はアメリカの社会主義者だから、正義さえあれば支持される様だ。危険な方向に行かなければ良いがと危惧せざるを得ない。

 日本では、社会党や共産党の、正義だけで良識のない見解は、支持されていない。民主党程度なら良いかもしれないという期待も大きく裏切られた。やはり良識のない人々には何も任せられないという考えが戻っている。あくまでも正義にこだわる人達は、共産党支持に回った様だ。共産党という組織の実態を知らないからだろう。組織の幹部になるためには、良識を捨てて彼らの独善的な正義を崇拝しなければ、草の根的な末端でも、幹部になれない組織である。暴走すればカンボジアの大虐殺になるリスクがある組織だ。言葉だけで判断する危険を承知する必要がある。

 良識は学校教育では育たない。個人的人間関係から育まれる。それは必ずしも親子ではないが、親が良識を大切にする姿勢を示さなければ、大人になってからでは矯正されにくいのは確かだろう。発展途上の国であっても、親が良識という概念を教えさえすれば、子供は必要に応じて考えを変えることが出来る。先進国でも、親や教師が良識を否定する教育を行なえば、社会が荒んでくる。戦後の教育を受けた第一世代は、社会に良識があったから矯正されたが、第2世代になると良識の意識が薄れてきた。日本の社会の本格的な変質は、第3世代に持ち込まれた。現在若手と言われる人達になる。彼らは保守回帰の傾向を見せている。日本の良識は健全だった様だ。

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2013年10月21日 (月)

「恨みを忘れない文化」に対する誤解

韓国人が恨みを忘れないのは、情感に根差しているのではない事が分かっても、その由来を説明する説に出会わない。歴史的な解釈が出来ないからだ。韓国人の恨みは、それが長い歴史を積んだ正義なのだと考えれば、納得できる。

何時の時代にも、隣国、隣郷、隣人との紛争はある。武力や腕力を使う場合には、正義が必要になる。大義名分と言っても良いだろう。上位である国が方針を決めれば、民はそれに従う。価値観は、上意下達的な性格が強いからだ。

日本について言えば、天皇の任命という公の認識があった。明治維新では錦の御旗と言われた。長州の幕府に対する恨みは、関が原以後続いていたと言っても、日本人は動かない。それ故、大義名分に関する日本人の意識は、公的な性格を帯び、国家統治には冷静になりやすい。

西欧も様子が似ていた。教会やキリスト教が上位概念にあり、私怨で動くのは大儀がないと言う意識は、昔からあったのだろう。日本と状況が似ている。

中国にはその手の公が無い状況が、秦の国家統一以後続いた。大義名分を皇帝の絶対性に求め、それが不十分だと分かると、身分制を作り、序列秩序で固めた。秦以前の春秋戦国時代には、周王朝という大義名分と、諸侯の統治という制度があり、公権力と実力者という大儀があった。だから春秋戦国時代は、百花繚乱と言われる文化の隆盛を見たが、それ以後文化は劣化の一途を辿った。中国では覇者を評価しないのは、司馬遷の歴史観から始まる。

朝鮮は長らく中華の柵封国だったから、国王が大義名分を唱え、隣国と対峙する事が許されなかった。だからといって隣の民族や国と、紛争がなかったわけではない。争いを処理する為には、彼らの大義名分が必要になる。そのために使える一番有効なカードが、恨みだった。だから、日頃から恨みは蓄積しておかなければならない。できれば国民皆が蓄積している事が望ましい。

お上がその価値観で動けば、民衆が隣人と争う際にも、同じ価値観を使う。逆上して暴力を振るっても、統一的な正義が育ちにくい社会だから、昔の恨みを持ち出して大義名分にする。かくして朝鮮半島の正義は、恨みに基づくものになったと考えられる。正義感は人間の行動には不可欠だから、空気の様に当然と感じる感覚を根底にしなければならない。

日本では公徳心を教えることが、正義の要素だと考えている。公権力が長い間支配してきた賜物である。公権力とは天皇に任命された権力という意味で、根源の公は天皇だった。西欧のキリスト教も同様の働きをしたのだろう。この社会での正義は、現在我々が求める正義と同じである。

公権力がなかった中華では、教育の基本は序列意識の涵養だった。それが否定された現代の中国では、子孫に残すべき文化がない。それが中国の混乱の根本原因だと思われる。結局中華思想に戻りたくてうずうずしている。共産党幹部の腐敗に対する寛容さは、中華の伝統だろう。

韓国は、恨みと云う正義を否定できないどころか、大統領が率先して使っている。教育にも恨みの思想が充満している。反日は、「恨」文化を教育する先にある必然の世界になる。韓国では教育が普及しない方が良いとさえ見える。文化教育をすればするほど、この異常な世界へ押し込む作用が働くからだ。民族文化には、望ましいものと、おぞましいものがある。しかし教育は結局民族文化の継承でしかない。

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2013年10月11日 (金)

古代的中華 中世的イスラム

  古代とか中世とか言う場合、それがどんな背景で定義されるのかを明らかにしなければならない。どちらも背景があって成立した政治システムであり、思想である。

 古代とは、文字があっても表現力が乏しく、教育制度が未発達で、多くの人民が父祖から生活技術を伝授されていた社会である。そんな古代でも、生活技術も社会制度も進化して行く。進化の末にローマ帝国や漢帝国があり、どちらも空前の発展を遂げた。ある意味優れた制度でもあった。進化の程度に応じて、それを牽引する家系と、進化に取り残される膨大な家系が出る。教育システムが家系に依存する以上、家系の優劣が強調される結果となる。優れた家系が、取り残されつつある家系を指導するのは、社会的正義になる。指導する家系が公徳心を持って、劣る家系を糾合し、全体の優位性を実現できれば、全体が比較としての幸福になる。古代では、指導的家系を貴族と呼んだ。貴族が集まって社会や生産技術の改革に取り組めば、それが貴族制国家になり一層の発展が望まれる。それでも教育は家族単位で実施される。貴族は自分が選ばれた人間である事を自覚し、生産労働から解放された自由時間を使い、自分達が守るべき思想を進化させる。古代の思想が優れている面を持つのは、その様な誇り高い人達が編み出した思想だからである。この思想はあくまでも貴族のためのものであり、一般人民は貴族の指導に従う隷属民であることが前提になる。

 中華世界は春秋戦国時代にこの域に達し、秦が中華世界を統一した時点で、思想的進化が止まった。国家間の競争を止めて思想的独善の世界に留まり、20世紀まで、古代を理想とする国家観を持ち続けた。皇帝専制は、貴族の頂点に皇帝を置くことが基本であり、多民族を帝国主義的に統治する必要上、単一民族とは比較にならない強い権威を、皇帝に付与してきた。つまり、19世紀までの中国は、古代国家だった。そこで発生する思想も、古代国家を維持する方便としての思想だった。

 中世は、そんな古代社会を打ち破り、人民の平等性を打ち出した世界である。イスラム世界では、教育制度が整備され、家系に拠らずに教育が受けられる。人民の平等意識が高まった結果の、革命があったのだろう。統治機構に王がいても、統一的なイスラムの価値観に従わなければならない。貴族的な家系の恣意的な横暴には、歯止めがかかっている。中性のイスラム世界が当時最も先進的であったのは、この社会的システムの優位性が発揮された結果だろう。中世は、個人が貴族に支配される集団の一員という存在から、個人であることを自覚した時代である。

 しかし、中世は、この個人の平等感を実現する為に、強力な宗教を用いた社会だった。日本や西欧を含め、例外なくその方向に走ったのは、古代社会の貴族制と共に、人類の普遍的な法則に見える。

 近代はその宗教性から人々を解放し、一層の個人主義を追及し始めた時代だと言える。宗教は平等をもたらしたが、多くの合理的ではない発想を、人々に強制した。そこからの開放である。近代を先導した西欧では、民族という小単位で感性の統合を図り、宗教的呪縛から開放されようとした。もっと大きな単位になると、不協和音が大きくなり、宗教に頼らなければ統合できないからだ。

 アメリカは、人々に無限の可能性を与える事によって不協和音を緩和し、西欧世界の民族の垣根を崩した。経済的な国力の増進は、その選択が間違っていなかった事を示した。第2次世界大戦後、西欧的な統合という垣根を、もう少し多元的な世界に広げる試みを実施しているが、未だ歴史が浅く、それが一層の発展を期待できることであるのかは分からない。昨今見えるアメリカの国内的不協和音は、この方向の発展に警鐘を鳴らしている様にも見える。必然のない方向性は、停滞と後退の原因にもなり得るからだ。

 脱宗教性を西欧が実現できたのは、キリスト教の不完全性が原因だった。その西欧キリスト教徒が、西欧的な民主主義を世界に広げる為に、キリスト教を世界に布教するという行為は、あまりに矛盾に満ちている。古代国家の域にも達していない民族にしか、受け入れられていないのは、それを示している。

 中華世界では、強引に宗教世界に入ろうとし、共産主義に走った。共産主義も一種の宗教でしかない。個人を解放する事はなく、より強い束縛の世界に閉じ込めようとする思想である。中華ではこの宗教活動と、中華世界への先祖帰りの勢力が争っている。不毛な権力闘争である。民族を分割しない限り、彼らの発展は見込めないだろう。

 イスラム世界では、トルコなどの様に、脱イスラム教を目指す国が現れている。彼らの努力を見守るしかないだろうが、彼らは発展を求めている。もう少し民族主義を取り入れるべきだろう。多くのイスラム世界では、まだ宗教的束縛を求める勢力が強い。イスラム教の完成度が高い事が、却ってそこからの脱却を阻害するというジレンマにある様に見える。

 翻って、日本を見ると、宗教的束縛は戦国時代に開放の方向に走っていた様だ。元々宗教が国家を支配する世界ではなかった。民族性が強かったからだろう。それ故に、西欧的民族主義に根差した民主主義は、抵抗なく受容してきた。キリスト教を受け入れる必要はなかったのは当然である。日本が今後推進すべき道は、多民族国家が共存する多元的世界だろう。民主主義の発展を望むのであれば、必然的方向になる。民族的交歓は望ましいが、民族的混濁は避けるべきである。左翼的世界国家主義は、あまりにも机上の空論的要素が強いから、避けるべきである。

 一部のマスコミや知識人が、中華思想の強い影響がある思考方法を、進歩的だと間違えて拡散している。気を付けるべきだろう。

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2013年8月15日 (木)

中華思想、 公徳心のない中国人の基底的思考

中華思想と、孔子や老子の思想を、同一視してはならない。一つの切り口でしかない。中国の史書を読めば、彼らの歴史観が浮かび上がる。彼らの歴史観は、老荘思想とは関係がない。

漢の司馬遷の歴史観と、隋以降の史官の歴史観は、大きく異なっている。現代中国人は、隋唐時代以降の歴史観を持っている。北の鮮卑族という蛮族に征服されて、考え方が変わったのだ。それ以降、1500年間、殆ど変わっていない。

中華思想の根源は、望ましい社会を形成する為の、秩序感を反映している。

中華世界で最優先の秩序とは、平和である。多民族が雑居する中華世界では、平和な状態を実現する事が、総てに優先する。分かりやすく、当たり前の事である。この中華世界で選択された秩序システムは、「絶対権力を持つ皇帝が、中華世界を畏れさせ、平和を実現する」ことを基盤にしている。中国人には、これ以外の平和な状況は、想像できない。民主主義が、中国全土に行き渡ることは、近い将来には、あり得ない。近い将来というのは、百年単位で数える長さになる。

皇帝が平和を実現する世界では、皇帝権力は強い方が良い。その力が、多民族を統治する中華世界の隅々まで浸透すれば、中華世界の平和が実現される。中華世界の暗黙の了解は、ここにある。中華世界では、余りにも当たり前の事だから、中国人にも意識されていないが、他民族から見れば、中国人の異常性の原因が、ここにあることが分かる。皇帝権力の、絶対性を認める意識は、中国人の心の中に、牢固として存在する。それ故に、共産党独裁政権は、倒れない。

皇帝の絶対的な権力は、当初は統率力を背景に実現される。初代にそれがあっても、2代目、3代目には、統率力を欠く事が多い。それでも、強力な皇帝であり続けさせるために、「歴史の創造」が、周囲によって為される。皇帝権力の正当性が、捏造された歴史によって担保される様になったのは、隋以降である。それ以来、歴史は事実の集積だと考える思想が、後退した。

中国人にとって、政権の正当性を強めるのであれば、歴史を捏造する事は正義である。この思想は、現在も牢固として健在である。彼らに、事実を突きつけても、それが政権の弱体化を導くものであれば、感情的に拒絶する。それが、中華の歴史観である。理論家が机上で考えたものではなく、千年単位の歴史に裏打ちされた、極めて土俗的感覚である。

絶対権力の統制に対し、理不尽なものでも受け入れる事は、大きなストレスを生む。そのストレスを処理する方法も、文化である。中国人は、日本人以上に、空気を読むと言う人が居る。日本人は、世間に対して空気を読むが、中国人は、権力に対して空気を読む。それも、大きなストレスだ。人間が耐えられるストレスには、限度がある。それ故に、中国人には、人間社会に対しては、気配りしない自由が認められている。公徳心がなくても良いということだ。これも、土俗的思考に取り込まれている。皆がそれを認め、社会的コンセンサスになれば、文化になる。無理な見栄を張ることや、嘘を言う事にも、寛容になる。絶対的な権力が、嘘で塗り固められている事を、積極的に容認するのだから、当然だろう。

日本は、島国だったから、小さな共同体社会を発展させてきた。これも2千年以上の歴史がある。日本史上、中央集権制を敷いたのは、奈良時代と、明治維新以後しかない。日本人には合わないから、長続きしない。小さな共同体では、秩序は、共通化された公徳心によって形成される。和を尊び、全員一致型の議決で、物事を決めるのは、この小さな共同体の遺習である。

日本人は、2000年以上の間、巨大な中華の隣に位置しながら、皇帝専制という秩序感を、拒絶してきた。西欧的民主主義は、日本型の社会への適合性が高い。中華世界への適用は、無謀に見える。西欧は、小さな民族、更に小さな共同体が発展して出来た、文明なのだから。

日本人と中国人・韓国人が、事績としての歴史認識を、すり合わせる行為は、無駄であるから、止めた方が良い。思考の根底が違う事を、認め合った方が、建設的である。日本の一部の知識人に、中華思想の影響が色濃く現れているのを、奇異に感じる。歴史的な関係の重さだろうか。

この中華的思想を捨てない限り、中国の発展はあり得ないだろう。

中華世界の平和を重視する中華的発想のもう一つの特徴は、中華世界の無限の膨張を推奨する事である。国境が遠方にあるほど、中華世界が安定するのは、当然である。海に囲まれ、領土に限りがある日本では、実感として分からない。尖閣問題で、中国人の発想法が明らかになった。そこの土地に、利用価値があるかどうかに拘らず、国境は遠方にあることが望ましい。それが平和の条件であるから、政権のその行為は、無条件で国民に支持される。公徳心=社会的ルールを持たない中国人が、これを始めたら、際限のないことになる。島国の日本人には、理解出来ない発想だろう。中国のエゴに屈して、恣意的に利用されたくなければ、力で対決する以外に、手段はない。

中華世界の、平和を維持する更に別の手段には、権威や価値観の固定化がある。中華世界では、社会の流動性は、社会不安と同義である。これが中華的歴史観と合体すると、民族の序列観は、歴史が規定し、未来永劫続かねばならないことになる。敗戦国である日本が、劣等民族であるという歴史観は、未来永劫続く。彼らは、侵略された被害者感情の発露だと言うが、それは嘘である。もっと根底的にある、価値観に立脚している。これも、中国人自身が、理解していない可能性のある、彼等にとって当たり前の感覚である。

中国世界では、皇帝の専制を絶対視したから、共同体は、組織的には成長しなかった。専制と共同体は、対立する思考だから、当然である。靖国神社問題は、共同体意識に関する、見解の相違である。中国には靖国神社など、存在できない。これは、高度に組織化された共同体意識の、象徴であるからだ。共同体意識のメリットは、明治維新から第2次世界大戦まで、強国日本の要素として働いた。手本の西欧文明が、小集団の共同体社会的規範に基づいているから、当然である。西欧化に成功したのだ。中華世界では、これが出来ない。それに関する嫉妬心と、恐怖感に、朝日新聞が火を付けてしまった。日本では、知識人であるほど、前時代的な中華思想の影響が濃い。中でも、朝日新聞は異色である。一般の日本人は、彼等を理解出来ないが、朝日新聞社は、日本の常識をリードする積りで居る。滑稽なことである。

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2013年7月 7日 (日)

橋下市長の従軍慰安婦発言を非難する日本の中華思想

 日本人は中華思想の解釈に途惑っている。韓国や中国が、なぜあの様に訳の分らない事を言い張り、言い続けるのか、理解に苦しんでいる。同様の発想は、日本人にもあり、それが発揮される場合もあると知れば、少し理解が進むと思う。理解しても同調する気にはならないだろうが。

 橋下市長の従軍慰安婦発言は、間違った事を言っているわけではないが、時と場所、言い方が問題、政治家の発言すべき事ではない、などの理由で非難されている。もっと直截的なものとして、欧米のマスコミにどの様に判断されるか、心配だという識者もいる。理由は何とでも付けられるが、これは純然たる中華思想の亜流に見える。

欧米先進国の価値観にも色々ある。歴史的にも変化してきている。色々言い分はあるが、究極的な課題は現在の秩序にある。

 現在の世界は、欧米的価値観が普及し、先進国では更に高度化する過程にあると、多くの人は認識している。その価値観には疑念もある。しかし問題を内包しているとしても、相対的には現状最も優れた、社会秩序を維持するシステムを作り出す思想体系であり、先進国が支持する思考方法の根源である。これを進んで学ぼうとする人にとって、この思考方法を非難する論調は、雑音であり、時に不快な邪魔者になる。

 不快な邪魔者が、時に事実や真実である場合、最も憎悪する対象になる。橋下市長の従軍慰安婦発言は、欧米文化に対する挑戦の様に見えることになる。蟻の一穴も望まない人にとっての、非難や攻撃の対象になるのは当然だが、多くの一般人は、もう少し感覚的に捉える。欧米人は過去の人種差別や、植民地での不当な搾取を、現在は反省している。口に出してそれを言えば、補償問題の嵐に遭遇するから、黙っているが、日頃の言動でそれは分る。今更歴史を蒸し返して、それを非難する事は不毛だと感じている。一部の人が、それでは日本人が余りに貶められていると主張しても、大人はそういう行動は取らないと考える。これは欧米的思考や文化を、支持しているからだ。過去の日本文化が、この欧米的な文化より優れているとは考えにくいと思っている。それが事実であるかどうかは、教育の分野の問題になる。少なくとも科学技術の世界では、優位は圧倒的である。

 中国という地域は、3千年の歴史の中で、多民族の暴力的対立を、どの様に治めるかが、最大の関心事だった。多くの思索が、平和のために費やされてきた。上記の感覚が理論化され、精緻化され、生活感覚の世界を支配していたのが、中華思想だと考えれば、彼らの言動も理解しやすい。

 日本は敗戦国という最下位のランク付けの国だと、一旦認定されれば、王朝体制が崩壊するまで、その秩序は変わらない。秩序はすべての待遇に及ぶ。上位にある国は、この秩序を守りたがるが、それを正義だと断定してしまうのが、中華思想なのだ。だから、体制が変わるときには、大混乱の流血が起こるが、皆がそれを避けようとすれば、秩序の安定は維持される。

先進的欧米が支配する世界秩序の中で、現在領土問題は、絶対に手を付けてはならない分野に属する。欧米は民族主義者だから、必ず領土的国境が存在する。これの議論を欧米的に始めたら、世界は動乱の渦の中に放り込まれる。欧米的には領土は重要な認識の一部になる。

中華世界では、中国という、山岳と砂漠と寒冷地で囲まれた、閉ざされた世界の事象を扱うから、中華世界が強力な権力で統合されている状況が、最善であり、中華の力の限界まで、即ち地理的限界まで、中華世界を広げる事が、最善の統治になる。国民もそれを支持する。そこには、地域的な国境はない。中華思想は国境がない代わりに、序列という秩序がある。多民族を統治するから、民族的序列が必要になる。序列が上位であるか、下位であるかは、最重要なポジションになる。一旦これが決まると、欧米的国境の様に、それを議論する事は、中華世界を揺るがす混乱の渦に身を投じることになる。

現在の中国人や韓国人は、この思想から脱却できていない。だから、最下等の敗戦国日本が、戦後秩序を揺るがす様な発言をすることそのものが、悪だということになる。内容の問題ではない。その悪を知らしめるために、意地悪や嫌がらせをするのは、正しい行いになる。これは多くの日本人が現在でも行なっている行為だ。この範疇に入るいじめもあるだろう。

現在、欧米思想はもてはやされているが、中華思想はだれも理解しようは思わない。発展を阻害し、文明の進化を妨げる思想だからだ。しかし世界の人々は皆、いずれかの民族文化の影響下にある。民族文化を捨てて欧米思想に一本化すれば良いと考える人は、共産主義者しかいない。それは既に失敗している。人には情感や情動があり、それを律する事が出来るのは、伝統に根差した民族文化でしかない。欧米の民族文化人になるには、欧米人の家庭で教育されなければならない。言葉を話し、その国小説を理解できる程度では、創造性のある人間にはなれない。

その意味で、あの膨大な中国人が、中華思想を捨てる日を待つしかない。

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2013年6月13日 (木)

ノンフィクションの嘘

誰も公の場では本音を話さない。それを纏めて解説しても本当の話にはならない。それは誰にも分かっている。しかしこのジャンルが生き残る為には何らかの方策が必要だ。一つの方策にイデオロギー傾斜がある。イデオロギーは政治用語だが、応用分野は他にも沢山ある。特段の根拠も無く人々の情感を煽って賛同が得られ、集団的情宣活動が軌道に乗れば、それはイデオロギーになる。イデオロギーとは机上の空論の事で、英語でアイデアと言えば、知的であろうと愚劣であろうと、頭脳のひらめきから創出される概念の総称であり、そのアイデアの集成がアイデア・オロジー即ちイデオロギーである。

誰かが何かを発言した場合、イデオロギーのフィルターを通して解釈する事が許されている。考えてみれば不思議な現象だが、マスコミが記事を売るために必要な行為とされて多用し、批判には徹底的に噛み付いて守る。元々人間は自分が持っている常識のフィルターを通して物事を判断するが、本来それは個人の所作で、情報を販売するべきマスコミがそれを行なった後で販売するのは好ましくないが、科学技術情報でもない限り、マスコミには生の情報を扱う能力がない。世の中はそんなものだと言ってしまえばその通りで、ノンフィクションもそんなものになる。

人々の常識感が高まると、ノンフィクションの嘘が鼻に付く様になる。フィクションの方が分かりやすいのではないかと感じる事になる。フィクションはあくまでも創作だから、誰かが本当に話したものではないが、本音というジャンルに切り込む事ができる。それ故別の意味で傷つく人も現れるが、ノンフィクションより酷いとも言えない。

本音フィクションにも色々ある。「人の不満は物質では埋まらない。」「社会が豊かになるほど落ちこぼれは増える。」「格差社会は豊かな社会である証拠。」「貧しい国に人権は要らず、豊かな国に平等はない。」とかは、フィクションの方が説明しやすい。難しい統計を多用しても一般人には分かりにくいからだ。現代人は自分の知性を過信している様に見える。

最近の情勢をフィクションで解説してみたい。フィクションだから何を題材にしているのかは言えない。

先ず、場面設定から始める。

丘の上に住宅街があり、取り巻く川が蛇行して突き出す場所に2軒の住宅がある。北側に北島さんが、南側に南部さんが暮している。河の対岸の海に挟まれた土地に日野さんが暮している。北島さんは左翼政党の活動員で、南部さんは海外の会社の販売代理店を個人で行ないながら、その会社の依頼で北島さんの活動を牽制している。日野さんは漁民だが、漁船を作ったりその船で行商したりして小金を持っているので、立派な家に住み息子はささやかな事業を営んでいる。南部さんと日野さんの家の間の川には粗末な橋が掛けられている。南部さんは日野さんの家の出入りは、昔からすべて掴んでいると思っている。日野さんの家の家具は、この橋の上を運んだものに限られている筈だと信じている。だから日野さんの家にはTVがなく、ラジオだけで暮していると確信している。本当は、日野さんの家の居間は豪華な家具と電化製品で溢れかえっている。これは日野さんが河口の対岸にある街の百貨店で買って船で運んできたものだが、うかつにも南部さんは船の運送力を全く評価していないから、丘の上のスーパーに並べられている安物の家具や電化製品を使いながら、優越感に浸っている。

以上は過去1万年の歴史をフィクションで簡単に描いたものだが、歴史論争しながらあれこれ議論しなくとも、場面は容易に設定できる。フィクションなのだから事実誤認の疑いがあるとかの言い掛かりを付けられる心配も無い。歴史学者もこの様な例えで歴史を議論すれば良いのにと思う。これができるほどに良く分かっていないらしい振りをしているが、実は発禁圧力があるらしい。

この場面設定で「嫉妬と妄想は身を滅ぼす」とか「操作される虚飾的家族」とかのタイトルで長編小説も短編小説も書けるのであるが、誰かが始めると、対抗心むき出しで下らない本を書く人も出るだろう。それで良いのではないかと思われる。日本人は尤もらしい内容を嗅ぎ分ける文学的センスを持っている。それを持たない民族は自滅を早めるだろう。現代小説はその様な事態を避けるために、悲劇の主人公かファンタジーしか追い求めないことにしている様に見える。小説家が小説を貶めているかの様だ。

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2013年6月 8日 (土)

予知能力

 予知能力とは現下の情勢を分析し、その条件下で将来起こり得る事を可能性として把握する能力の事である。予知能力は誰にでもあるが、能力差は大きい。これは総ての能力に共通する話だ。

 予知能力のある人が、その能力の無い人の言動を見た場合概ね二通りの反応を示す。①能力の高い人の特徴として、この手の能力は誰にもあるものだという直感を持っているから、自分とは違う予知をする人がいるという理由で、自分の想定だけでなく能力も疑う。予知能力の高い人は多くの可能性を想定できるから、それ故却って陥り易い誤謬であるが、そのために自分が混乱してしまう。②能力がそれほど高くない人の特徴として、世間にはこの手の能力に欠けている人がいるから、馬鹿なことを言っている人間を又一人発見してしまったという感慨を持ち、以後その人の評価を下げる。

 予知能力が無い人が、予知能力のある人の言辞を聞くとやはり二つの反応に分かれる。①劣等感を持ってその人に接するが、その感情を持ち続けることに抵抗感があるから、以後その人に近付くことを避けたがる。これと逆の反応をする人も居る。その人を尊敬し、主従関係の様な人間関係になる事を厭わない人も居る。自由な人間関係では希だが、組織内での生き残り競争が激しければ、その様な関係を望む人も多い。②劣等感を抱く理由が分からないから、相手を神経質な人だと判断する。場合によっては偏執者ではないかとさえ思う。自分が他の能力に優れていると自負する人に多く、相手を侮蔑する程度も甚だしいことになる。

 予知能力に優れている人は、当然ながら自分の感性に忠実に生きようとする。それは意思で決めるのではなく、そうせざるを得ない必然からだ。予知能力に劣る人は、世間の評価を気にすると同時に、自分の優れている能力でそれを補おうとする。これも必然だろう。しかし長い人生の中で、やはり自分はこの能力には恵まれていないということは何となく分かる。多くの人はそれを自覚して引きこもり勝ちになったり粗暴になったりするだろうが、同じくらいの数の人はあくまでも自信を持って生きたいと願う。

 あくまで自信を持って生きたいと願う人にも色々なパターンがある。その総てを網羅する事はできないが、二つの典型が知られている。自信を持って生きる手段として、身近な人に常に働きかけ、自分の正当性を認めさせようとする行動を取る人と、例えば自分の発想の論理性とか他人を説得する言語能力などを高め、表現力や発信力でカバーしようとする人がいる。

 身近な人に常に働きかける行為は、成功して受け入れられれば善人と評価され、失敗して開き直れば人格障害者と看做される。今韓国は国民を挙げてこの方向に向かっている様に見えるから、この手の人格障害者は必ずしも先天性の異常に起因する問題ではない事が分かる。

自分の発想の論理性や説得能力を高める行為は、学校の教育の主眼であるから、現代人はこの能力に長けていて、能力の序列も明らかになっている。しかし、例えば東大を卒業してもその言動がおかしいのは、彼らの予知能力の欠如ではないかと思われる人が結構居る。人間社会は複雑だから論理だけではなかなか測れず、予知能力のある人は彼らの論理性に対し、容易に如何わしさを感じる。これは平行線の世界だが、現実にはこの平行線が蔓延している。

予知能力は判定が困難であるほどに不可思議な能力ではない。大別すると、自然界に関する予知能力と、対人関係に関する予知能力に分類される。偏見があるかもしれないが、男性は自然界に関する予知能力に優れ、女性は対人関係に関する予知能力に優れている様に見える。太古の昔の長い期間、男性は狩猟という変化に富んだ自然界を相手にする行為の中で、この能力を遺伝的に身に付けたのではないかと推測される。女性はそんな男性の庇護を受けながら出産育児という行動半径が限定される世界で生存競争してきたから、やはり遺伝的に対人関係能力を身に付けたのだと思われる。遺伝的という表現は、優勝劣敗の自然淘汰を受けている事を意味する。男女間の能力にそれほどの違いはないかもしれないし、実は大きな差があるかもしれないが、実は誰にも分からない。フェミニズムの残渣がこの手の実験の実施を阻んでいるからで、予知能力という大きなジャンルの話も進展を阻んでいる様に見える。どうも違いがありそうだから。

予知能力を判定する試験を行なう事は、誰でも明日からできるほど容易ではないが、議論を重ねればそれほど難しい事だとは思われない。しかし誰もそれを提案しようとはしていない。現在のエリート制度の根幹に関わるから、現代のエリート集団からそれが提言されないという側面もあるのではないかと思われる。現在の大学教授やエコノミストがその資格を有さないという判定が為されるケースが続出する恐れがある。元々補完能力であった論理性や言語能力に優れた人は、予知能力の欠如の自覚の中で努力した人が多そうだし、予知能力が欠如していたが故に、この能力を高める事が出来たのではないかと思われる人も多いのが実態でもあるからだ。

東大も入試制度改革の必要性を痛感しているらしいが、どこまで踏込めるのか怪しそうだ。しかし、政治家に予知能力が欠如していると国民は困難を感じる機会を多く持たねばならないことになる。予知能力の高い者だけの集団は、合意も早く、行動的になれる。中に予知能力の低い者が混ざると、彼らは徒に事態をややこしくする方向に持っていこうとする。彼らの存在感をアピールするためという側面があるが、もっと重要な事は、予知能力の無い者は沢山のケースを掲げて貰って詳しい分析や予測を聞きだし、自分の能力を補完して貰わなければその集団の中での自己の位置を喪失するからだ。予知能力が無くても論理を理解できる人にも、進行する状況が理解できなければ自分の地位が危うくなるという程度の事は分かる。劃して組織内のミーティングが延々と果てしなく実施されるという現在の実態が炙り出される。

其処までしても、予知能力の無い人は失言する。この失言は、嘗ての保守的政治家の失言を指すのではなく、民主党の政治家の無定見な発言の様な類の失言を意味する。つまり、本質的な状況を理解しているかどうかの問題なのだ。この違いが直感的に分かる人は予知能力があると言えよう。

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2013年5月23日 (木)

中華思想に基づいて日本を非難する韓国

日本を非難する理不尽さに驚きの連続の日本人は、彼らの不確かな根拠に基づく発言を異常だと感じる。しかし中華思想にとって個別の真実の探求は重要な問題ではない。重要なのは日本が敗戦国であって、現在の国際秩序はそれを織り込んで維持されているという認識であり、国際秩序は現状認識を守ることによって維持されるという基本的発想である。日本が周辺国に謝罪し続けることで極東の安定が得られているという、韓国にとって喜ばしい秩序を維持する事は、中華的正義になる。この考え方の人に、真実の歴史を訴えても意味が無い。正しい歴史観と彼らが言うのは、日本は敗戦国である事を自覚せよという事なのだから、真実を訴えて彼らに逆らうのは、逆効果になる。それを受けた韓国が、現状の国際秩序を守る義務を果たせと要求する事で、正義の国になる。

大陸は暴力的行動が支配しやすい場だから、秩序を維持する事が最優先課題であり、秩序が乱れる事は諸民族の利益に反する。中華思想はこれを重視する。李朝が清国に屈辱的な礼を何百年も続けてきたのも、この思想が根底にある。大東亜戦争に敗北した日本も、現下の国際秩序が維持され続ける限り、同様の屈辱外交を継続する義務があると中華思想は強制する。中華的「正しい歴史認識」とはこの様な状況を意味する。

一部の日本人がこれを誤解し、周辺国の恨みを解くためとか、日本人は過去に過ちを犯したからその反省をする義務があるとか、情緒的な発言をしているが、これは情緒的な日本民族が居住する国内向けの事で、国際的な認識は、日本の敗戦を前提とする国際秩序を維持するためには、日本が敗戦国としての行動をとり続けるべきだという秩序観に過ぎない。中華思想を持たない国は、「もう好い加減そのくらいで良いだろう。未来志向でいこう。」と、ある時期から言い出すが、中華思想の国は決してその様な事は言わない。常識が違うからだ。日本のマスコミも中華思想に共鳴しているから、事実誤認と分かっても訂正報道はしない。国際秩序の混乱を恐れ、西欧的正義感を持たない状況は、中華思想に共鳴しているのと変わらない。

民主主義はキリスト教を基本に作られているから、悔い改める者は許されるという思想を持つ。これは民主主義とは直接関係ないが、機会均等、敗者復活、自由競争という、現在民主主義と不可分と考えられる思想と一体となって民主主義であると捉えられているから、その意味で中華思想は非民主主義的である。民主主義者は、民主主義こそ最も有効に社会的・経済的進化を促すものだと確信し、それ故に優れた主張だとして世界に拡散しようとしているから、中華的秩序観は民主主義と対立する。

しかし思想には都合の良い例外がある。国境の維持に関して、民主主義国は現状維持を堅持している。これは嘗て自分達が主導して決めた国境だから、国境線を変更する事は欧米の秩序に挑戦する行為になるからだが、一見極端な中華的原理主義に見える。但し、根本思想が違うから、誰も中華的だとは言わない。

中国は機会があれば国境を膨張させようとしている。これは2千年以上の歴史を持つ例外なのだ。国境が中華の中心から遠ざかるほど、中華秩序は安定するから、根本が安定志向である中華思想にとって、これは根本問題の解決であり、秩序維持は手段と言う次元の低い思想だから、本質的に矛盾しない。周辺国から見れば大国主義のエゴイズム以外の何者でもないが、国家主義というものは、元々民族のエゴの保持が目的なのだから、問題視するにはあたらない。こんな世界の中で、平和憲法を維持すれば日本の安全保障が担保されると考える事に無理がある。

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2013年5月 1日 (水)

観念的な戦略で動く米中

 米中両国は極めてイデオロギー的な国家と考える必要がある。イデオロギーは頭だけで考えて結論を出した産物で、情感とは異質な結論を出す。中国は中華思想というイデオロギーで行動している。中華の辞書には国際協調という言葉がなく、国際関係は力によって支配されるという発想しかない。これは中国3千年の歴史そのものだから、容易に変わらない。中国では帝国主義権力が全土を統治するか、天下が乱れているかのいずれしかなかったからだ。日本も中華思想の影響から列島の統一は安定をもたらすと、頭で考える人が多いが、奈良時代と明治維新後を除けば、実態は藩などの地方政権を主軸とする分権制が主体だった。中央集権制は安全保障上では有利だが、統治機構として効率的ではないことを実感していた人達が多かったからだろう。地方の実態を無視する画一的な統治なのだから。

 中国では安全保障が総てに優先する殺伐とした大陸社会の実態に即した制度を支える中華思想が発展した。これは土俗的なコンセンサスだから文献に銘記されているわけではない。中華の安全のためには辺境は極力遠方にあることが望ましい。それは政権自体の利害と一致し、強固な思想となって今日まで伝承されてきた。中華帝国に力があれば、周辺を侵略・征服して国境を拡張することは国家的正義になる。チベット・西域、尖閣や南シナ海の領土問題はこの文脈で読み解く必要がある。中国は伝統的に陸軍国家だったが、近年海洋戦略を重視しているのは海洋も重要な辺境だと認識を転換したからに他ならない。これは中国人の生活実感ではなく、あるべき国の形であるから、イデオロギーの範疇になる。西欧思想だけをイデオロギーと規定していては実態が見えない。中国が容易に共産国家を建設したのは、中華思想と共産主義思想が類似性の高いイデオロギーだからと思われる。共産主義も帝国主義、中央集権、武力侵略を肯定する。

 アメリカは合衆国だから中華的ではない。安全保障を連邦政府に任せ、民治は各州に委ねる制度は合理的だ。しかしアメリカには歴史が無いという致命的欠陥がある。歴史は民衆のコンセンサスの履歴で、民衆の価値観共有のバロメーターだが、これがない状況で高度の統治を実現しようとすれば、土俗的情感に依存しない方向を求めるしかなく、イデオロギーに走りやすい。民主主義を守る世界の警察国家を任じているのも、一種のイデオロギー活動と言えるだろう。イデオロギーの怖さは暴走に歯止めがかかりにくいことで、これはソ連・中国・カンボジアで実験済みの事である。これに歯止めをかけるのは情感であり、情感は極めて土俗的な存在である。従って、米国民に土俗的感情である信義や正義感を望んでも裏切られる可能性が高い。イデオロギー国家にもその国民にもその様なものは希薄であると考える必要がある。アメリカ人がキリスト教に敬虔な思いを馳せる事に批判的な人が多い。彼らの信じるキリスト教が未だに進化論を否定し、神が天地を創造したと信じているからだが、彼らがそこに土俗的情感を依拠し続けている事を考えれば、彼らの活動はもっと肯定的に判断する見解はあり得る様に見える。しかし米国全体を見れば、多民族を統合する思想はやはりイデオロギー的にならざるを得ないだろう。

 イデオロギーに支配される国は極めてドライで功利的になる傾向があることは止むを得ない事になる。

 アメリカが国力を減じ、中国と取引する日が来るのは時間の問題かもしれない。昨今の中国の異質なイデオロギーに危機感を持ち、隠然とした経済制裁に走りつつある米国だが、それが成功する保証は無い。米国ではその先の戦略も検討されているだろう。中国にとって民主主義は受け入れ不可能なイデオロギーだと認めつつあり、中国と取引する場面を想定する段階にあると推測される。中間線を何処に引くかはその時の情勢次第だが、日本も韓国も中国側に置かれる可能性が高い。現代の科学技術を使えば、海洋は既に自然の障壁とは言えないから、日本に中国軍が侵攻する事もあり得る。その時日本はどの様に対応するか、今から考えておく必要があるだろう。米国は将来の中国との円滑な取引の条件として、日本を非武装状態に留めておきたいと考えている。それが今後の中国との関係維持に重要な要件になるからだ。中国は米国がその政策を維持していれば、当面は目立った敵対行為はしないだろう。将来の交渉のテーブルでの議題を双方が想定しているからだ。日本が重武装していると交渉は全く違ったものになるから、双方がその状態を避けようとしている。その日が来た時、日本から見れば、アメリカは日本を中国に売ったことになる。アメリカからすればそれは世界秩序の安定のための選択として自国民を納得させることになる。

中国の州になるか、李氏朝鮮の様な朝貢国になるかはその時の情勢に依存する。韓国は既にその覚悟を決めている様に振舞い始めた。長年の歴史が韓国民の行動を自律的に決めている様に見える。韓国は今後中国以上に日本に対して敵対的になるだろう。中国もそれを見越して日本に強圧的になり、更に韓国を抱き込もうとする。日本の左翼・リベラリストもその同類だろうか。日本国民である事より個人である事を優先すれば、率先して親中韓的になることは功利的判断かもしれない。

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2013年4月10日 (水)

経済学は未来を予測できない

 経済学が未来を予測できると考えるのは幻想だが、そう考える人が未だに多いのは、共産主義の残渣が未だに人々の心に投影しているからだろう。共産主義者は経済は予測可能だと主張し続けて来た。それが破綻した20世紀末に経済は学問ではないと言われ、大学の経済学部の競争率は低下したが、未だにその事実を認めない人が多い。経済学者に未来を予測させるマスコミ企画は未だに健在で、臆面も無くそこに出演する経済学者も跡を絶たない。

 経済学という学科が大学に存在するから、高尚な学問が研究されていると考えている人が居る。その疑問を考えたいが、経済学単独で考えると思考の迷路に入り込む。先進国経済は物の交換で発展しているのではないことは周知であるが、これは人間の創造性による商品の創出が重要な経済要素になっているという事である。人間の創造性が発揮される分野は色々あるが、経済学と並べて見て分かりやすいのは工学ではなかろうか。工学を考える時、自然科学を視野に置かねばならないが、その違いを明らかにする事が、経済学の位置付けを理解するのに役立つ。

自然科学は自然界に存在する法則を追求する。手段として工学的手法を使うとしても、目的はあくまでも自然界に存在する法則である。それに対して工学は、自然界に存在しない人工物を創造する事が目的で、自然科学とは対極的である。この科学と工学の関係を経済学に適用して検証すると、自然の法則と人工物の創造は、目的としては未分離の状況で存在できる筈がないのに、存在できると誤解されていることが分かる。現実の経済学では科学に相当する部分は非常に小さい。嘗ては原始的な交換経済での原則が直感的に議論されたが、原論というには程遠い。共産主義者はこの一見科学的な分野に固執して経済学の未来予測を唱えてきたから、現実の経済活動を説明できない。

科学者や工学者で、特定の専門分野についてではない包括的な発展方向を解説できる専門家は居ない。出来ないからだ。人々もそれを知っている。未来予測はSFの世界でしかない。しかし経済学者と称する一部の人は、未だに左翼思想の惰性として、将来を予測する人がいる。彼らが経済原則を新たに理論化するとか、人為的な新しい操作がもたらす変化法則を発見している様な痕跡は見えない。理解不能な理由付けで主張する大学教授や専門家がいるのは、それが出来ないことだということが分かっていないという点で、一般人以下のレベルに堕落しているという自覚がないからだろう。

経済学には有効な側面もある。理解を助けるために、科学と工学の関係について例示したい。治水に関する土木工学と科学の関係が分かりやすい。氾濫を繰り返す河を抱える平野の治水をモデルとして考えれば、有用な経済学はこの場合の工学の様に働く。アベノミクスはその様なものだと捉えられる。

 先ず、工事を始める環境を考える。他に有用な土地が豊富にあれば、敢えて大金を投じて工事をする必要はないが、隣接する平地の地価が高騰しているのであれば、挑戦する価値はある。先端の土木工学を使えば治水が可能なのか判断するためには、工学に関する知識が必要だ。判断する組織には土木工学に関する有能なブレーンが居なければならない。素人集団では徒に議論を繰り返し、出来ない言い訳に終始するだろう。嘗ての民主党政権はその様な集団だった様だ。環境への影響も重視される。オオサンショウウオが生息する川なら、自然保護を叫ぶ人が現れる。オオサンショウウオの研究者が先頭に立って開発反対運動を展開するかもしれない。彼らは科学者であるが、土木工学をサポートする科学者とは別種の人である。科学者を同列に扱ってはならないのと同様に、経済を活性化させる経済学者と、わが道を歩いているだけの経済学者も区別する必要がある。この研究者にオオサンショウウオの生態調査を依頼すれば、不必要に時間をかけ悲惨的データを積み上げる可能性が高い。担当する科学官僚もそれを後押しする可能性がある。経済問題での押し問答はもっと複雑怪奇に見える。

 土木工事で何が出来るか考える必要がある。宅地が欲しいのに農地を開発する手法を使ってしまうかもしれない。しかしそれは土木工学の責任ではない。土木工事が単に治水を目的とするだけならば、やり方は幾通りもあるかもしれない。使い方を間違えれば大金をドブに捨てる行為になる。このレベルを経済と対比すれば、流通貨幣の流れ制御だろうか。経済の活性化などという大それたテーマにはなり得ない。

宅地にするには交通インフラが要る。隣接地が通勤に不便なほど遠ければ、事業所用地も要るし、港湾の整備も必要かもしれない。徐々に開発しながら地域発展の方向を見定める必要がある。交通インフラも港湾も別の工学の出番で、徒に着手しては無駄が出るし、成果が出るとも限らない。経済の発展を阻害している要因は徐々に解きほぐす必要がある。個々の工学的手法と経済政策も同じで、遠い将来を見通す事は難しいが、逐次有効性を見出しながらプロセスを始める必要がある。何かしなければ何も生まれない。人工物を創造する工学は間違いなくそうである。

 商業や金融は経済の重要な要素だが、個々の企業の活動に委ねられている。企業活動の道筋を立てるのに、エコノミストと呼ぶ技能者が居るが、彼らはビジネスマンであって学者ではないとされている。工学分野でも研究者と呼ばれる人達が新しい技術の創出のために働いている。その数はエコノミストの数百倍も居る。工学研究者は専門分野で活動している。流通業や金融業で業態を開発するビジネスマンの、学際としての格が低いのは、科学をバックグラウンドに持たないからだと思われる。人間活動は創造的だから、ビジネス手法も創造的にならざるを得ず、創造される手法は無限の数存在し、唯一の真理を探究する科学とは全く相容れない。

 創造的世界ではあっても、根源的な部分では共通認識と共同目的が必要になる場合があり、そこには将来像のコンセンサスが必要になる。工学的将来像を議論すべきはエネルギー政策とか、全国的・国際的交通インフラ程度である。経済的な将来像を同列に考えれば、国債・金融政策、日銀の役割、規正・関税法などの要素分野だろう。それを使って実施される経済活動の帰趨は誰にも予測できない。出来ると言い張る方に無理がある。しかし何らかの決断と施策は必要不可欠だから、それはばら色の夢を宣伝しながら行なうことになる。要素分野の有効性を個別の技術レベルで議論するべきで、そのばら色の夢を批判しても仕方ないが、マスコミのコメンテータはそれを主張して視聴率を上げたいマスコミにおもねるから、世間の議論はややこしくなる。経済学が市場操作を目的とする学際であるなら、工学の様に学科レベルの専門性が求められ、専門領域での発言となる筈であるが、それも怪しい。

 工学分野でマスコミに登場して解説する人は稀であるのに、未発達な経済学分野関係の人が分かっている様な発言をするのは滑稽である。

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2013年4月 7日 (日)

中華経済の発展は世界の危機を生む

 中華経済の特徴は、コピー商品を低賃金で大量生産することにある。問題は模倣を悪としない理由は、発展途上国も豊かになる権利があるという事だろうか。小国が発展途上の一時期にこれを実施するのは仕方がないが、経済力のある大国がこれをやり続けると世界経済は破壊される。先進国の高失業率問題と、振れの大きい景気循環はこれが原因になっている。裏を返して言えば、先進国はこれらの諸問題を解決する為の一つの有力な手段として、知的財産権保護という制度を堅持している。

 現代社会は恒常的に生産過剰になる宿命を負っている。科学技術の進展がこれを可能にしてしまったから、今更元には戻れないし、産業革命以前の世界に戻りたいとはだれも考えない。その時々の社会の問題点を取り繕う様に継ぎはぎしながら、より繁栄する社会に移行してきた経緯を踏まえ、今後もこの制度を継続するしかないだろう。

 生産力が過剰な状況を緩和する為には、新しい商品を開発する事が最も有効であり、現在それは進行中である。商品は形あるものとは限らない。有用なサービスも、需要の喚起に役立つだけでなく、サービスとして完結する商品や業態も多数ある。それらの開発は民間企業に委ねられ、民間企業は資源を投入して開発に励む。それを後押しする制度が知的財産権の保護制度である。この制度の規制が厳しいほど創業者利益が得やすくなるから、開発インセンティブが高まり、商品の過剰生産や失業問題は緩和される。何故なら、企業は開発業務という利益に直結しない部署に多数の人件費を払い、必要な建物、必要な機材を購入し、消費に貢献するからである。それに必要な原資は、既に開発した商品が知的財産権により保護されていれば、そこから産まれる高収益によって賄うことが出来る様になる。知的財産権保護制度により保証される新商品の利潤が高ければ、商品開発部門に従事するエキスパートの賃金は高騰し、人々はその業種に従事する事を望む度合いが高まる。そうなれば教育産業なども活性化され、新たな業種も形成され既存の商品・サービスの消費者となる。現在の日本企業では、直接生産・流通に従事せず、商品サービスの開発に従事している人の割合はかなり高い。

 現在中華企業のしていることは、この開発業務を他国からの技術導入に依存し、生産コストだけで価格競争力を付けて商品を世界にばら撒こうとすることである。小国がするのであればまだしも、世界一の人口を誇る中国がこれに邁進すれば、特に国境を越えて取引される商品は、中華ペースの経済競争に晒される。この世界では、生産規模が大きいほど製造原価が低いのは法則に近い現実であり、販売価格と市場シェアが最重要視される。その獲得のためにする事は、あらゆる手段を講じて製造・物流コストを低減することであるが、これは生産力が過剰な状況を増幅してしまう。物が溢れているのに失業が増大し、賃金が低下するという悪循環に陥るからだ。それでも現代の製造業では生産コスト低減努力が最優先課題の様に叫ばれ、益々事態を悪化させている。僅かでも生産コストを低減するために、製造工場はどんどん海外に流出している。

 この状況を改善するために先進国が採用しようとしているのが、規制緩和である。国内の規制緩和のみならず、貿易障壁を低くする規制緩和である自由貿易協定の締結も盛んに検討されている。これは従来保護されてきた産業を破壊する恐れがあるから、社会制度に大きな摩擦を産むが、過剰生産と高失業率問題はそれに敢えて挑戦しなければならないと先進国に思わせるほどに深刻になりつつある。

 中国ではそれにどう対応しようとしているのかを概観すると、相変わらずコスト競争を継続しながら、官営的製造業に過剰生産を許し続けている。現在の中国の体制では、先進国的対策が実施できないからである。独裁政権には規制緩和はしにくい。そもそも先進国の規制は消費者保護の名目が多いが、中国にはそれは元々殆ど存在していない。その上既得権益者が権力と密接に結びついているから、痛みを伴う構造改革には抵抗勢力が強すぎる。中華世界には自由経済を制度的にコントロールする仕組みも乏しいし、共産党政権にはそれを作り出す意欲も乏しい。かなり崩れているとはいえ共産主義を標榜する政権に、自由経済社会を創造して国民を豊かにするという考え方は存在しない。共産主義の教科書には、生産力が増大すれば国民は豊かになれるとしか書かれていないことによる。

 共産主義中華が採用する一番大きな努力目標は、相変わらずより先進的な工業製品を開発コストなしに生産できる状況を作ることになる。これは中国人の善悪の判断の問題ではなく、中華国家の必然になる。中華人民の豊かさの追求にはこれしかないと正義感を以って語られる状況にすらなるだろう。世界経済がどうなろうと、中国1国の経済発展が優先するという意識は今まで見せ付けられて来たのだから、一朝一夕には変わらないだろう。中国がこの状況で邁進すれば、世界経済は破壊され、欧州危機は一層深刻になり、日本も同様な危機を抱える恐れがある。日本にはギリシャは存在しないという人がいるかもしれないが、同様の地方を国内に多数抱えているから、一旦問題が噴出すれば、欧州以上の混乱も予測される。

今まで寛容だった欧米諸国も日本も既に先進技術の中国流出には神経質になっている。今までの中国発展モデルは行き詰ってきているのだが、発展モデルを変更できなければ従来路線を完遂する努力をしなければならない。中国がネット技術を駆使して欧米・日本の先進企業の企業秘密を盗もうとする行為は、国家的戦略にならざるを得ない状況になってきている。その他のあらゆる手段を駆使して先進技術を盗作する努力を続けるだろう。中国が知的財産権を真剣に保護しようとするとは到底考えられない。悪い事に、既に破綻している共産主義思想とはいえ、共産主義政権は基本的に知的財産権を保護しない。これは見かけ上不労所得によって貧富の格差を産む仕組みなのだ。

 何処の国でも公式見解として中国のこの戦術をアカラサマに批判する事はしていない。それをすれば中国は猛烈に言い返し、懲罰としての経済制裁も躊躇しないだろう。言い勝てばそれで良いとする国民文化もそれを後押しする。この国民文化は優良な資本主義国となるための大きな障壁なのだが、この場合には有効に働く。マスコミも同様の恐れを抱いているから、誰も公式発表していない事実を公表する勇気も知的バックグラウンドもない。こうして先進国の政界の中の有志だけが、これ以上の中国経済の発展は阻止しなければならないと言い合うが、その言葉が外部に漏れる事はない。それでも米国は超大国の責任と面目の中で、一歩を踏み出し始めている様に見える。

 最近の日本の新聞の論調もその傾向を匂わせ始めているが、尖閣問題に端を発した国家間の摩擦が原因であるかのように装っている。中国経済を没落させるキャンペーンを張る事はできないだろう。特派員の生命に関わるかもしれないし、民間企業たるマスコミに正義を求めることも難しい。

  資本主義国である筈の韓国も類似の問題を抱えている。これは韓国民独特の民族性に起因している。当然中華的道徳感に由来する部分もあるが、目的のために手段を選ばない上に、手段の中に恫喝を含むことに後ろめたさを感じないという更に特殊な民族性がある様に見える。全く体制が異なる南北朝鮮でありながら、この特徴を斯くも顕著に発揮しているから、この視点は間違いが無い様に感じる。中華思想では、世界の中心似位置する中国は意に沿わない国を懲罰する権利を有していることになっており、中国がそれを濫発して世界の顰蹙を買ったが、朝鮮半島民族の状況は尋常では無い。

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2013年3月23日 (土)

倭人の歴史観(歴史を文学にする民族)

 倭人伝と日本書紀は違う民族を記述している様に見えるほどに異なっている。これは日本書紀が倭人の歴史を記述していないことを示唆する。倭人伝は断片的で、そこから倭人像を描くことは難しいが、日本書紀との違いを検証し、日本書紀を書いた奈良時代の日本人像を検討する。倭人と日本人は異なる側面を持っている様だが、基本的には同じ民族だろう。

 百済と新羅の成立は日本書紀が書かれた奈良時代から400年近く遡る。日本書紀では百済や新羅の成立には触れず、日本が成立した時点で既に存在している国として記述されている。百済に対しては親近感が、新羅に対しては嫌悪感が一貫して示されている。新羅を建国したのは魏志倭人に書かれた弁韓人と辰韓人で、弁韓人は男女共に倭人の習俗である入れ墨をし、半島一番の文明人だった。彼らは漢系の言語を捨てて倭人語の文法を使い、倭人の習俗も一部受け入れたから、建国当初は百済より親倭的だった筈だ。倭人は当初百済と新羅を高句麗南下の楯と考え、彼らの国家存続の為に軍事援助し、時に中核軍として戦ったが、倭人は中華との間の緩衝国の存在を望んだだけで、海外領土を拡張する意欲は持っていなかった。韓・漢・濊民族が混住していた半島に、半島民族が育ったのは倭人の影響下での出来事だと言えるだろう。新羅に対する倭人の嫌悪感が高まったのは、半島が三国の均衡状態になって新羅が強勢化し独立色を強め、百済・高句麗連合に対抗して唐に接近した7世紀以降の事だろう。日本書紀はその意識を背景に書かれ、国際関係の変遷という歴史を無視した文学的書籍になっている。

日本書紀の視点は先ず日本の形成から始まり、天孫降臨、神武東遷、9代の天皇を経て10代崇神天皇から漸く海外の国が登場し始める。

10代崇神天皇7年、大物主命が夢に現れ「大田田根子に吾を祀らせれば、国内は平らぎ、海外の国も自ら降伏するだろう。」と告げた。

10年、四道(北陸、東海、西海、丹波)将軍が国内征討に出発し翌年地方の敵を平らげた。

65年、任那国が朝貢してきた。

11代垂仁天皇2年、任那の使者が帰国する折、天皇の下賜品を新羅人が奪った。

3年、新羅王子、天日槍が来た。

12代景行天皇12年~19年九州征討

27年 日本武尊 熊襲征伐

40年 日本武尊 東国征伐

14代仲哀天皇/神功皇后 9年 熊襲征討の途上で天皇が崩御した。

神功皇后は海の彼方にある未知の宝の国を目指して船出し新羅に着き、新羅王は戦わずに降伏した。高麗、百済も戦うことなく陣門に降り朝貢を始めた。

39年 魏志倭人伝によると 西暦239年倭の女王は大夫難斗米を洛陽に行かせた。

40年 魏志によれば中国の使者が詔書と印綬をもって倭国に行った。

43年 魏志によれば倭王は使者を送った。

 <百済も宝の多い国だと文学的な表現で記述されている。>

 新羅は嘘が多く、百済の貢物を奪い新羅の貢物と偽って献上したりする。

49年 新羅を征討した。百済は誠意を示した。

52年 百済は七枝刀などの重宝を奉った。

62年 新羅が朝貢しないので、新羅を討った。

66年 晋の文書に西暦266年に倭の女王が貢献したと記している。

 魏志倭人伝を引用し、暗に卑弥呼・台与は神功皇后の事だと主張している。魏志の些細な誤りを訂正し、中国文献を読み込んでいる事を示し、主張の確からしさを強調している。しかし魏志を読めば卑弥呼の時代(~248年)には百済も新羅もまだ建国されていないことも明らかで、日本書紀の嘘は簡単に露見する。

百済が中国の歴史書に現れるのは、東晋が百済王を鎮東将軍楽浪太守に任命した西暦372年になる。好太王碑文では、高句麗は百残(百済のこと?)と新羅を服属させていたが、391年倭が海を越えて百済と新羅を服属させたから、戦ったとしている。好太王は帯方でも倭人と戦い、当時の高句麗の戦う相手は専ら倭人や任那人だった。

百済は416年に宋から百済王の称号を授与されたが、所在は晋平郡晋平県(渤海湾西岸)で、当時百済は帯方郡と晋平郡に分かれていた。中間に楽浪・遼東郡を占拠した高句麗を挟むが、支配者が徴税と徴発権を主張するに過ぎない時代の人の移動は可能だったと思われる。しかし軍事的には不安定だから、5世紀頃に渤海湾西岸の領土は喪失した様だ。

倭が半島に武力干渉し始めた4世紀末は、新羅も百済も倭の後ろ盾を得て共通の敵である高句麗と対峙していた。高句麗の南下圧力が弱まると百済と高句麗は接近し、新羅はその連合に敵対して唐と同盟し、百済と高句麗を滅ぼした。倭人はこの状況に至って伝統政策の破綻・倭政権の危機を強く感じた。大義名分のない手段で権謀術数を駆使して半島を統一した新羅に、日本人は好感を持たなかった。日本書紀では、白村江の戦い、百済・高句麗の滅亡の悲劇を語り、新羅を一層悪役にする。しかしその後も日本は新羅と使節の交歓を続けている。滅んだ百済・高句麗に同情し、勝ち残った新羅に反感を持つという構図は、義経記に似ている。

新羅を蔑視し始めたのが7世紀以降であれば、日本書紀の著者にとっては百年程しか遡らない海外認識だから、日本書紀は貧弱な資料に基づいて書かれたことになる。倭人は既に対外交渉の記録を持っていた筈だが、それは日本政権に提供されなかった様だ。有力者の一部が権力に迎合して資料を提供する事があっても良さそうだが、ここまで倭人の事績の記録が隠匿されたのは、海洋倭人の守秘義務が列島内でも守られていたからだろう。世間を騙すには先ず身内からという意識が徹底されていたから、何百年も中国人に日本列島の地理認識を偽り続けられたと言えそうだ。それでも著名な天皇の事績は部分的に取り込んでいる可能性もあるから、最も可能性の高い雄略天皇の事績を検討してみる。日本書紀での雄略天皇の対外的事績は、以下。

雄略6年 呉国が遣使して来た。

7年 百済から工人を献上させた。

8年 呉国に遣使した。

この年 新羅王は倭から離反し高句麗と修好しようとしたが、高句麗の陰謀を知って、任那に助けを求めた。日本府軍は高句麗軍を迎え撃ち、激戦の末に撃退した。

9年 反抗的な新羅を討伐した。

10年 呉国から使いが戻った。

12年 呉国に遣使した。

14年 呉国への遣使が、漢織・呉織の工人及び裁縫士の姉妹を伴って帰国した。

20年 高句麗が百済と戦い百済を壊滅した。任那の熊津を与え百済を再興させた。

23年 百済王が死んだので、五人の王子の内の一人に筑紫国の兵500人を付けて国王にした。

この年、兵船を率いて高句麗を撃った。

 好太王碑文によれば、

391年 倭が海を渡って来て百済、新羅を破り、臣民にしてしまった。

399年 百済は倭と通じたので好太王は根拠地である集安から平譲に移動した。新羅が倭人に占拠され救援を求めてきた。

400年 5万の軍を率いて倭・安羅と戦った。

404年 倭が帯方に侵入したのでこれを討って大敗させた。

年期は合致しないが、熊津を京城に換えれば、起こった事は奇妙に一致し、雄略が好太王の南下政策と対峙した倭王に見える。但し、日本書紀の作者が、当時入手が容易だった好太王碑文の写しを参考に、雄略の事績を作文した疑いも濃厚である。

倭の5王が南朝に朝貢した記録がある。雄略天皇は宋書に記された最後の倭王「武」だとされる。武は「祖先は自ら甲冑を着け、東の毛人55国を征服し、西の衆夷66国を服属させ、海の北の95国を平定した。」と申告し、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓の諸軍事・安東大将軍倭国王に任命された。しかし倭王武が雄略の場合、中国の文献と日本書紀とは時期が合致しない。

宋の記録では、

413年 賛 朝貢 (東晋)

421年 賛 朝貢 (宋)

425年 賛 朝貢 (宋)

年不詳 珍 朝貢 倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓諸軍事・安東大将軍倭国王の称号を要求。

安東将軍倭国王に任命。臣下13人にも将軍職官位を要求し叙任された。

443年 済 朝貢 

451年 済を倭・百済・新羅・加羅・秦韓・慕韓諸軍事安東将軍倭国王に任命、ならびに上奏された23人を将軍や郡長官に任命。

年不詳 興 朝貢

462年 興を安東大将軍倭国王に任命。

年不詳 武は倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓諸軍事・安東大将軍倭国王を自称。

478年 武 朝貢 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓諸軍事・安東大将軍倭国王に任命(宋)

479年 武 朝貢 鎮東大将軍倭国王(斉)

502年 武 朝貢 征東大将軍倭国王(梁)

日本書紀を元に編年された歴代天皇の推定在位は以下になる。

15代 応神天皇270-310 年   16代 仁徳天皇313-399 年   17代 履中天皇400-405

18代 反正天皇406-410 年   19代 允恭天皇412-453 年   20代 安康天皇453-456

21代 雄略天皇456-479 年   22代 清寧天皇480-484 年   23代 顕宗天皇485-487

24代 仁賢天皇488-498 年   25代 武烈天皇 498-506 年  26代 継体天皇507-531

27代 安閑天皇531-535   28代 宣化天皇 535-539年  29代 欽明天皇 539-571

倭王「武」は最短でも在位478年~502年だから、雄略ではない。倭王武の上表文に書かれた「昔から祖先は自ら甲冑を着け・・・・」は祖先の事だから倭王武の時代に軍事行動が存在した必然はないとしても、日本書紀の天皇と倭の5王を同定する事は困難だ。

賛の時代に半島南部を支配していたから、好太王と対峙したのは賛かもう一世代前の倭国王になる。特別な天皇の事績だけでも記憶されていたかどうかの検証は、日本書紀の作者が好太王碑文の写しを持っていたとすれば難しそうだ。

 半島の歴史は三国史記に依拠しているが、三国史記の成立は12世紀だから、日本書紀より信用できるとは言えない。新羅は再三倭人の攻撃を受けるが、それと日本書紀との符合も却って疑わしい。三国史記の作者が日本書紀も参照した疑いがある。

 呉の国は他の天皇の時代にも登場する。呉とは南朝の事で、三国時代の呉まで含めて六朝(222年~589年)と呼ぶ。新羅嫌悪の事情から、呉についての認識は六朝末期の勢力を失い領土も狭まり、滅亡直前の状況と推測される。隋・唐の建国を知っている日本書紀の作者が、文献記録を活用せず口承や現況に基づいて日本書紀を書けば、南朝を重視しなくても不思議はない。

日本書紀に記述されている南朝との交渉は以下しかない。

応神37年、呉国に遣使し縫工女を求めた。使者は高句麗経由の道旅が分からず、高句麗王に案内者を付けて貰い呉に至り、呉の王から工女姉妹と呉織・穴織四人を貰う。

41年 呉国から四人の工女を連れて使いが戻った。

仁徳58年 呉国、高麗国、2国が朝貢して来た。

 呉への使者が陸路を使う想定である事は、日本書紀の作者が倭人の海洋活動を知らなかったことを示している。倭人は内陸日本人にも航海上の秘密を厳守していた事が分かる。呉からも文化を吸収した事を認めているが、機織と裁縫の域に留まり、漢字や仏教には触れていない。

唐の半島攻略政策で、倭人の伝統的安全保障政策は破綻し、新しい路線闘争で旧倭人勢力は凋落し、彼らの伝統は見捨てられ、彼らの歴史は彼ら自身が隠蔽したのではないだろうか。それでなければ何らかの記録が伝承されている筈だ。倭人も日本人も歴史を使って政権の正当性を論じる必要はなかった事は、日本書紀を見れば分かる。天皇の権威の正当性を真面目に主張したければ、「一書に曰く」などという異説を満載する筈がない。しかし読者が天皇の神性を疑うことは想定していない。先祖の記憶の及ぶ以前から疑われる事なく続いて来た「すめらみこと」の起源譚を文学にしてみたという印象が強い。古事記や日本書紀の作者は「すめらみこと」の起源を知らず、周囲もそれに疑問を持たなかった様だ。戦前までの日本では、すべての権威は天皇の任命によって効力を発したから、権力を握る経緯を表現して権力を正当化する歴史観は必要なかったが、奈良時代以前の日本人にも同様に必要なかったことを意味する。歴史を自由に話題に出来るという表現の自由が保障された世界で、古事記、日本書紀、源氏物語の文学が開花した。本人がそれと気付かないほど当たり前の倭人のこの伝統はかなり昔からあったのだろう。中華的歴史観は春秋戦国時代に発展し、司馬遷により体系化されたらしい。倭人は春秋戦国時代に大陸に出入りし、重臣を「大夫」と称して尊ぶ中華的習慣が強固に根付いた。その頃倭人の身分秩序観がある程度形成されていなければ、半島の人の様に中華思想に絡め取られてしまった筈だ。倭人の身分秩序観形成の時期は遅くとも弥生時代の早い時期、若しかしたら縄文時代に遡ることになるだろう。船員の組織は秩序が厳しいと言われるが、倭人が海洋民族であった故に独自の秩序観を早期に身に付けていたというのは、合理的説明かもしれない。

 以下は全くの推測だが、

 「すめらみこと」がこの様な政権任命者であり続けていたのであれば、江戸・鎌倉幕府は言うに及ばず、藤原氏の様な存在は常態であっただろう。それが嘗ては蘇我氏、物部氏、葛城氏であったかもしれない。国家的危機に陥ると天皇親政が待望されることは、日本人は明治維新という例で知っている。飛鳥時代も唐の半島政策が国家的危機意識を引き起こし、天智・天武天皇の親政が望まれたのかもしれない。更に遡ると、漢の武帝の朝鮮攻略を契機に倭人が混乱し、「倭国大乱」を引き起こし、皇族である卑弥呼の親政が実現したのではないかとも想像される。

奈良時代の日本人は倭人の秩序観を引き継ぎ、日本書紀では重臣達を「大夫」(だいぶ)と書いて「まえつきみ」と読ませ、後漢書や魏志に書かれた「使人自ら大夫と称す」という伝統を受け継いでいる。重臣を「大夫」と呼ぶのは中国の春秋戦国時代の風習で、その時代に倭人が中国の政権に近付いていた証となる。この呼称は平安時代以後も重い価値を持つ言葉で、今日でも東宮大夫(とうぐうだいぶ)という言葉が残っている。「だいぶ」は呉音で「たいふ」は漢音だが、「たいふ」は軽い特定身分として使う。

 漢字に呉音と漢音の別があり、仏典は呉音で読み、万葉仮名も呉音で発音される理由は日本書紀を読んでも分からない。倭人は後漢に朝貢した際に「自ら太白の子孫と謂」い、史記を読む者が居たことを示唆し、魏志に邪馬台国の役人は文章を読んだことが書かれている。その漢字伝来の事績を日本書紀の作者は知らなかった。誰かが伝えたというものではなく、交易していた倭人が自然に習得したのであろう。

歴史は繰り返されるとすれば、当時も百済の亡命2世、3世が、現代の在日の様に、日本の文化は半島を経由して伝来したと声高に喧伝しただろう。畿内の倭人の子孫も海外で活躍した世代ではなく、2世、3世になれば確信を持ってそれを否定する雰囲気もなく、日本書紀の作者は亡命百済人の主張に多分に影響され、現代史学会の様に事実を見失っていた可能性も高い。百済仏教が南朝系であり、百済人は呉音で仏典を読んでいたとしても、百済貴族が漢籍を呉音で発音していたかどうかは疑問だ。もしそうであれば、彼等は4世紀後半になって初めて漢字に触れたことになる。遥か遠方の南朝から渡って来た少数の人から学び始め、僅か1~2世紀しか経ていない時代に、千年近く漢字と接して来た倭人が百済人から文化を伝えて貰うというのは、あり得ない事である。倭人の古い文献を読んだ事がない日本書紀の作者は、海外に雄飛していた倭人の子孫とは別の系譜の倭人であった様だ。

 以上を総括すれば、日本書紀の作者は倭国時代の対外的な交渉の歴史を知らなかった。それでいながら、列島内の歴史は把握していたということもあり得ない。日本書紀とは、飛鳥・奈良時代の一般の貴族・官僚の認識の範囲内で作文された物語ということになる。

 紫式部日記に「帝は式部を日本紀の局と名付けた」と書かれているのは、源氏物語は日本書紀の様な架空の物語だという事を意味している。場面設定はその時代に合わせ、登場人物は架空の人だという意味だが、実は場面設定、つまり国際情勢も当時の認識の延長に過ぎない。現代人の感覚で言えば、戦国時代劇に共産中国、アメリカ合衆国、ドイツ帝国などが登場する状況になる。歴史を知らない人はそれが歴史だと錯覚する。韓流時代劇に興じる姿はこれそのものになるし、大河ドラマもこの範疇に入る。

古事記と日本書紀は、創作でありながら内容があまりにも酷似しているから、各々独自に創作されたとは考えられない。古事記は、続日本紀の宣命文より文型が古いとされるから、日本書紀より古く、日本書紀は古事記を参考に作られたのだろう。

 古事記は神代から推古天皇まで書かれている。日本書紀は推古天皇以後を独自に創作したかもしれないが、実は伝承されていない第2古事記が存在し、それは聖徳太子がヒーローの物語だったかもしれない。感覚的にはその方が確からしく、それが元祖源氏物語となる聖徳太子物語だったかもしれない。古事記の作者も総ての物語を創作したわけではなく、昔物語や伝承歌を繋げた物語を作ったのだろう。それらの物語に江戸歌舞伎の忠臣蔵ほどの事実性があったのかも疑問だ。これを歴史書として研究するのは馬鹿げているが、文学として研究する意味はある。例えば、盟神探湯に関する記述から当時の人々の秩序観を推定するとか、17条憲法から当時の役人の組織倫理を考察するとかで、子細に検証すれば当時の日本人も侮れない倫理観を持ち、今日の日本人特有の倫理観が既に出来上がっている事に驚く。これは日本民族に文学志向があったからで、歴史としての叙述は出鱈目で、歴史認識は見劣りするが、倫理観は他民族に負けない状況を作り出している。

全くの推測だが、古事記は宮廷の女官が書いたのではないだろうか。只の女官ではなく、巫女的な女官が神がかりして述べた話を後日筆記したのではないかと思われる。天皇の女性・親子関係の事績が余りに多く政治的な事柄が少ない事、話の前後関係に繋がりが乏しい事、時に挿話が意味なく子細である事、などの説明が付く。

日本書紀の作者は古事記の記事の前後関係を入れ替えてストーリーの齟齬を調整し、対外的な事績を適当に挿入し、多数の女官の神託を「別の神託」とするのは中華に対し外聞が悪いから、「一書に曰く」と体裁を付けたのではないかと思われる。推古天皇以後の第2古事記は、さすがに神託の継ぎ合わせではストーリーにならず、後世に伝わる事はなかったということではなかろうか。紫式部は本来「古事記の局」の筈であるが、物語の筋が整っているから「日本紀の局」と賞賛されたということではなかろうか。

 もう少し推測を極めると、日本人の文学思考は巫女の宣託が起源かもしれないという推理に辿り付く。巫女も周囲を説得する為には情に訴えながら、ある程度の合理性を備えた宣託をしなければならない。また、核心的なことを明らかに言ってしまえば、外れた場合の問題が大きいから、言葉を選ばなくてはならない。誤魔化していると思われてもまずいから、説得力も重要になる。この様にして育まれた情に訴える言語が、一方で和歌に進化し、一方で古事記に記載されている様な散文説話を多数生み出し、遂に源氏物語に到達したのではなかろうか。

中国人の歴史は、事実を克明に記録し、正史として編纂することかもしれないが、それが歴史を思想や科学にするわけではない。文学は事実ではないが、思考や感性を表現する上では中華的歴史認識より分かりやすく、心情的に納得しやすい。過去の事績や経験から倫理観を醸成するのであれば、文学の説得力の方が格段に有効になる。

歴史の国、中華と、文学の国、日本の違いを端的に表現すると以下の様になるのではなかろうか。

権力構造で支配する中華、支配力で勝負する日本。

(歴史観で絶対的権力構造が確立される中華、支配力のある者が天皇の任命を引き出す日本)

権力の由緒を求める中華、政治力を民衆にアピールする日本。

この権力の統治が一番良いと思わせる日本、権力によって中華世界は安定すると考える中国。

未来志向の日本(水に流せる過去に興味がない)、歴史認識の中国(過去の事績は永久不滅)

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2013年3月11日 (月)

倭人から見た朝鮮半島(中華と倭の境界)

古代の朝鮮半島を概観するためには、大陸にも注目する必要がある。後氷期の温暖化がピークを迎えた紀元前5千年頃、極東に4つの文明圏が芽生えた。黄河流域、南の揚子江流域、北の遼河流域、そして日本列島。黄河流域に彩陶を特徴とする仰韶文化、揚子江下流に稲作の河姆渡文化、遼河流域に趙宝溝文化、日本列島に環状集石群を持つ阿久遺跡(長野県原村)があった。朝鮮半島に櫛目紋土器が出現するが、4文明が特徴ある土器や遺物を残しているのと比べ、目立たない状態に留まっていた。

BC3千年頃、大陸の文明は権力の集積を示す段階に進み、黄河流域は龍山文化(BC3千年~BC2千年)に、揚子江デルタは良渚文化(BC3500年~BC2千年)に発展した。日本列島は縄文中期(BC3千年~BC2千年)の三内丸山、釈迦堂、尖石、長者ヶ原ヒスイ工房などへ発展したが、海洋交易という他者とは違う方向に向っていた。現在亜寒帯である遼河流域は紅山文化(~BC3千年)以降寒冷化の影響が厳しく、文明は衰退し始め、遼河文明の周辺地であった朝鮮半島では櫛目紋土器時代が続いた。朝鮮半島の森林は生産性が低く、農耕も確認されず、中華文明圏との交易を目指していた縄文倭人が興味を持つ地域ではなく、当時の交易品である装身具や威信財はこの時期の半島からは殆ど出土しない。

BC2千以降、更に寒冷・乾燥化が進むと遼河文明の担い手は、一部は内蒙古に夏家店下層文化を残すが、華北や山東に南下し、龍山文化や殷に影響を与え、特に龍信仰は中華文明全体に大きな影響を与えた。BC1500年頃から、嘗ての遼河文明地域の南端であった遼寧に無紋土器、支石墓が現れ、朝鮮半島にも広がる。農耕も始まったが、遼河文明の特徴が見えるわけではなく、北方民族が南下し住民が交替した疑いがある。

一般論として、穀物生産が原生地から人為的に拡散する場合、南方の生産者は雑草と格闘しなければならない。古代の農耕民には大変な労働で、拡散の大きな阻止力となった。北方や乾燥地への拡散はこの逆の状況が生まれ、品種改良により耐寒、耐乾燥種が生まれると農耕は有利に展開する。これにより最適農耕地は緯度的に帯状になりやすい。その他の要件も色々絡むが、気候が一定なら穀物生産の最適地は北上していく。

遼河流域は地球温暖化のピーク時には栽培していた雑穀の緯度的適地であった様だ。当時の満州や内モンゴルは現在より温暖で降雨量も多かったが、その後の寒冷化の速度が速過ぎて品種改良が追いつかず、穀物の生産性が低下していった状況が想定される。当時は土地の所有概念はなかったから、人々は農耕適地を求めて南下し、黄河流域に辿り着いた。

BC2千年以降、黄河流域では生産性の高い小麦の生産が広まり、アワ、キビ、大豆との混合農業と家畜飼育の普及で農業生産性が高まっていた。寒冷化したとは言え現在より温暖な黄河南部では稲作も実施された。低緯度地帯の寒冷化・乾燥化は緩慢で、緯度が大阪と同じで暖かい黄河流域の洛陽や鄭州の農耕民には南下圧力はなく、生産性の高い小麦生産地に、稲作の北限が重なる農耕適地として中華文明を統括する地域になり、夏王朝に比定される二里頭遺跡(BC1800年)や、殷王朝初期の二里岡遺跡に発展した。

鉄が普及する以前は、乾燥地の天水農耕による小麦は生産性が高かった。揚子江流域や日本列島の稲作は、生産性の優越には湿った重い土壌の耕作や灌漑設備を必要とし、鉄器の普及を待たねばならなかった。

その頃の朝鮮半島は、当時の稲作には寒過ぎ、麦や雑穀には湿潤過ぎる地域だった。更に湿潤温暖な日本列島には堅果類が豊かな森林があり、漁が容易な湖沼が多く、縄文人は海産物を得る漁労という手段を持ち、人口を養っていた。西日本では焼畑による陸稲や雑穀の栽培も始まり、一説では東北地方でヒエの栽培も始まっていたが、鉄器を持たない焼畑農耕は重労働で生産性は低く、西日本の人口は多くなかった。

中華文明が確立していたBC千年以降も朝鮮半島で何が起こっていたのか良く分からない。気候は更に寒冷化し、現在の状態に近くなっていたと思われ、雑穀栽培が始まっていた。現在の気候はケッペンの気候区分から読み取れる。

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C は温帯区分、D は亜寒帯区分。亜寒帯は最寒月平均気温が-3℃未満で、降雪があれば根雪になる。f は湿潤、w は冬乾燥、aは最暖月平均気温が22℃以上、bはそれに満たないことを示す。東京・大阪・九州・揚子江流域はCfa(黄緑)で、青森はCfb(水色)、北海道は概ねDfb(空色)だが、札幌だけDfaとする説がある。北京・瀋陽・ハルビン・ピョンヤン・ソウルは湿潤大陸性気候Dwa(灰色)で、現在は春まき小麦生産地だが、古代は雑穀栽培地で、半島南端はCfaで稲作可能な地域だった。

文献資料はBC1世紀を記録した漢書地理誌と、AD3世紀を記録した魏志東夷伝を待たねばならない。既に鉄器時代になって久しいから、旧石器時代を想像するのは難しいが、青銅器時代はある程度の推測がつく。漢書地理誌によれば朝鮮半島北部の楽浪郡は、漢末のピーク時の人口は6万戸、40万人だった。魏志東夷伝によれば、半島北部から中国東北部は濊と呼ばれる民族の地で、少数の漢民族が濊を地域的に分断支配し、扶余、高句麗などの地域政権を保持していた。最も文明化していた扶余は葬儀の際に時に数百人も殉葬して厚く葬り、殷の暦の正月に天を祭るとされ、殷の遺民が建国した様に見える。殷の系譜である箕子朝鮮が滅んだのは秦末の混乱期(BC4世紀末)だが、箕子を名乗らず他所からの亡命者とし、魏志の作者が記載をためらう由緒が語り継がれていた。殷の滅亡時に王族を迎えた殷の後継国とする類の伝承だったと推測される。魏志の編者は怪しげな伝承は採用しない合理性を持っていた。

高句麗の支配階級は、石を積んだ塚で墓を作り金銀財幣で厚葬するとされ、扶余とは習俗が異なる。周代以降の亡命中国人が建国したのだろう。略奪を好むが民衆は必ずしもその尚武的気風を好んでいなかった。

東沃沮では大きな箱を家毎に作り死者は次々そこに入れ、木で像を作って外に置くという別のローカルな習慣があり、別の中国系移民が征服した痕跡かもしれない。

濊と呼ばれた地域では死者が出るとその家を焼くと書かれているが、墓制は書かれていない。

鉄器時代に入ると半島の支石墓は廃れたらしいが、上記の事情を考慮すれば、鉄の武器を持った中国人に地域単位で征服され、異なる征服者の習俗に染まったが言語は変わらない民になったらしい。中国人が鉄製農具を持ち込んで支配者に納まったのであれば、単なる武力征服ではないが、征服者の数は言語が残らないほどに少数だった様だ。

濊は複数の中国人に征服され、分断されているから、青銅器時代の濊はあまり文明化されていない民族だった様だ。龍山文化に合体し、殷の一部を担った遼河文明の担い手と濊に関係があったという証拠は見当らない。韓族は元々楽浪郡にも居たが、AD2世紀末に楽浪郡が衰えると中華の統治を嫌って馬韓に逃げ込んだ。濊は韓族の土地にも南下し楽浪郡にも居た。無紋土器・支石墓を広めたのは、半島北東部は濊、半島北西・中西部は韓だったらしい。

魏志の時代、半島南部は、馬韓に韓族、辰韓に漢系、弁韓には倭人の影響を受けた別の漢系が雑居していた。韓族にも嘗て漢人支配者が居たが、既に王統は失われていた。韓は濊より未開状態で王国を維持する意識がなく、小さな「国」と称する集団に分かれていた。魏志では韓族の人口は10余万戸としているが、これは過大見積だ。中国人は半島南半の事情を知らず、倭人に騙されていた。日本列島は容易に行けない遠方にあると思い込ませるため、馬韓は広く、韓族の人口が多いと詐称されたが、実際の馬韓は3万戸程度だったと推測される。前漢最盛期の楽浪郡でさえ6万戸だから、広くない馬韓に韓族が10数万戸も居る筈はないが、半島南部を実際の10倍の面積と思い込まされていたから、魏志の作者も納得したのだろう。

前漢の武帝が朝鮮に4郡を置いた時、その一つである真番郡は半島南半分にあったとか、半島南端まで真番郡だったと主張する人がいるが、それはあり得ない。郡になれば軍隊が派遣され、距離や方向は軍事の要だから正確な知識を保有していなければならないのに、半島南半に関する魏志の距離記述は全くの誤り状態にある。また、半島南部を知っていたら、漢書に「倭人は楽浪郡に海から来る」とは書かず、「倭人は韓国の南と日本列島に海峡を隔て分居している」と書く筈だ。従って、中国人は半島北半しか統治した事はないと言える。

辰韓の中国系移民は秦の労役を逃れて来た人達で、楽浪郡の中国系移民と同類との出自伝承を持っていたが、弁韓の中国系は出自が不明だ。稲作と養蚕を行い上質の絹布を織り、韓族と違って牛馬を使い、男女の中華的区分があり、楽器を使い音曲もある。倭人を除く東夷一番の文明人で、男女共に倭人の様に入れ墨をしている。この人達は稲作で有名な松菊里文化の担い手の末裔の筈だが、松菊里は馬韓にあるから、松菊里時代には弁韓人が馬韓に居て、韓族はもっと北の楽浪郡となる地に居た事になる。弁韓人はその後の寒冷化で半島の南端に集まり、韓が南下して来たのだろう。松菊里は青森・秋田に近い気温だから、青森の田舎館村垂柳遺跡(BC3世紀~1世紀)の水田遺構の様な運命を辿った筈だ。全羅南道には、北方式と違う支石墓群(南方式)がある。これは弁韓人の初期の墓だと思われる。

北九州の原山支石墓群は縄文時代末期だから、遼東半島辺りから直接伝播したことになる。遼東半島での交易中にこの墓が気に入った縄文人が居たのだろう。糸島支石墓群は弁韓人が北九州に居住していたのか、弁韓式が気に入った倭人が作ったのかは分からない。両方あり得る。

魏志は弁韓について、「国々は鉄を産出し、韓・濊・倭の人々は皆この鉄を取る。商取引にはこの鉄を銭の様に使い、鉄は楽浪・帯方郡にも供給される。」と書かれているから、弁韓人は盛んに製鉄していた。弁韓人が製鉄技術を持ち込んだのであれば、彼らが来たのは中国で鉄器が普及し始めた戦国時代(BC5世紀)以降になり、松菊里遺跡の水田稲作もそれ以降になる。稲作を日本に伝えたと言いたい韓国人が、松菊里の水田跡はBC8世紀だと主張するのはおかしいということになるが、若しも、弁韓人が稲作民としてBC8世紀に製鉄技術を持たずに半島南端に来たとすれば、製鉄技術を持ち込んだのは倭人で、弁韓人は倭人から製鉄技術を習得したことになり、この場合、倭人が最初に製鉄を始めたのは半島ということでは不自然だから、日本列島の製鉄はBC3世紀以前に始まっていたことになる。今のところどちらであるという証拠は無いが、それ以外の状況を設定するには事情を複雑に組み合わせる必要があり、現実的ではないだろう。

考古学者は朝鮮半島から遼寧式青銅器である銅剣、銅矛が文明の様に日本に伝わって来たと主張するが、どの民族が伝えたのだろうか。倭人に敬意を払って入れ墨していた弁韓人しか考えられない。彼らが製鉄と一緒に青銅器の製作技術を持ち込んだという事はあり得る。しかし彼らが北九州の倭人の求めに応じて遼寧式青銅剣や矛を作ったとしても、弁韓人は遼寧や半島と宗教は共有していなかったから、単なる器機の委託生産者に留まった筈だ。珍しい威信財として交易されたものの流通と文化の流れを混同してはいけないと思う。

北九州は銅剣銅矛文化圏だが、銅鐸の複雑な器形を実現する高い鋳造技術を持っていた畿内に比べ、形が単純な剣や矛の鋳造技術はそれほどでもないと思われる。墓に威信財を埋葬する習俗を持った北九州は考古学的に文化が高い地域に見え、その習俗を持たなかった畿内は、考古学的に遺物が貧弱に見えるという構図があるのではないだろうか。銅鐸の鋳造技術は江南由来で、北九州の鋳造技術は弁韓人由来であったと思われる。BC1世紀頃からの寒冷化で先進工業地だった遼寧は壊滅的打撃を受け、楽浪郡は鉄を遼寧からではなく、弁韓の蛮族から供給を受ける羽目になったという事だろうか。

畿内の先進的邪馬台国は後進的九州が黄河流域との交易にこだわっていた事をどう評価していたのか考える必要がある。邪馬台国が黄河流域との交易に傾斜することを、縄文時代から江南交易の本流だった関東・東海の狗奴国に咎められた可能性があるだろう。邪馬台国が魏に朝貢することは、狗奴国の江南交易をやりにくくしただろう。魏から見れば、邪馬台国に肩入れして狗奴国との諍いを有利にさせることは、魏と呉の代理戦争での勝利だと解釈していたのだろう。

少し脱線するが、縄文人が日本列島に水田稲作の導入を試みる場合の最初の地を選ぶ場合、最も暖かい九州南部で細々始めるのではなく、北九州の平野と半島南岸とした可能性を考えることもできる。地理的に中国大陸に近いからで、非科学的根拠ではあるが、初めて試みる縄文人にとって重要な論拠だったかもしれない。江南から稲作を導入するのに、船の経路である南九州をパスした理由があっただろう。

半島南端での水田稲作と製鉄のために連れて来た弁韓人は、気候が近い華中出身者だった可能性が高い。九州は江南より気温が低い事を承知していれば、その選択が合理的だ。華中の斉の人であった徐福の類の人の流れが春秋戦国時代から続いていたとすれば、話としては理解しやすいし、徐福の行き先は弁韓だった可能性もある。佐藤洋一郎氏の遺伝に関する主張と歴博の炭素年代測定を勘案すれば、半島南端に徐福の類の人が来るはるか以前に、日本列島では水田稲作に成功していた。釜山より北九州の方が暖かく、労働力も豊富だった筈だから、当然だ。

以上を踏まえ大雑把に、BC2千年頃から一貫して寒冷化が進み7世紀に寒冷化のピークを迎え、半島には北から民族の流入が続いた前提で半島の歴史を類推してみる。

櫛目紋土器を使っていた人達はBC2千年頃に北から来た韓族に圧迫されて半島南部に閉塞し、北九州の縄文人と交流して漁労民となり、辰韓・弁韓に漢系の農耕民が流れ込むと再度圧迫され、最終的に済州島に逃げ込んだと考えるのが合理的に見える。

BC1千年頃、濊族は満州や半島北部に南下して農耕を始めていた。韓族は濊族に北から圧迫されて半島中部辺りまで南下した。半島南部は湿潤で、石器を用いた雑穀農耕の適地ではなかっただろう。

BC4世紀頃、中華世界の動乱の中で中国人が濊の諸地域を征服し、扶余、高句麗などを政権化した。漢人の難民も半島に入植した。韓族は濊と漢人に圧迫されて馬韓に南下し、半島北半分は濊と漢人の地となった。

その頃、製鉄や造船などの技術導入に暗躍していた倭人は、華中の製鉄稲作民を半島南岸に海路送り込んだ。ドラマになりそうな事件の処理として何処かの部族を運んできたのだろう。倭人にとっては初期の移民ビジネスだったかもしれない。彼らは半島南端で倭人の属民になって稲作と製鉄を始め、帰服の証として入れ墨など倭人の習俗の一部を取り入れ、一部は農地を求めて松菊里にも拠点を設けたという辺りが確からしい。

漢の武帝の半島北半の征服により濊も韓も南に圧迫され、韓も一時北から逃れて来た中国人の支配を受けた。前漢末気候が寒冷化し、弁韓人は馬韓での稲作を放棄して弁韓に逼塞し、馬韓には北から濊と漢人に圧迫された韓族が南下流入し、辰韓には楽浪郡からの漢人難民が流入し、弁韓人とは同じ漢系としての交流が生まれた。

 以上、新石器時代の朝鮮半島を概観したが、中華文明の先進地と交易していた倭人にとって朝鮮半島は興味ある交易相手ではなかったと思われる。しかし鉄器が普及し、向上した農業技術が伝播すると半島に多数の人間が流れ込み、南下して来る。そうなれば狭い朝鮮海峡を挟んだ対岸の日本列島に移民が流れ込み、中華政権の影響が及ぶ恐れが発生した。

楽浪郡が設置された頃から倭人には半島の南半分を勢力圏にしなければならないという意識が芽生え、具体的な行動に入ったと思われる。伝統的な手段は中国人に偽情報を流し、日本列島は大陸からはるかに離れた絶海中にあるから往来できないと思わせる事だが、軍事行動で半島南半を支配し、中国人を寄せ付けないという手段も視野に入った。漢が衰えても幽州を支配していた公孫氏は楽浪郡から帯方郡を分割し、高句麗も強勢化し、共に南下の姿勢を示していた。

邪馬台国統治の成立前、倭国大乱があったとされるのは、この事態への対処方法を巡る混乱だった可能性がある。これは奈良朝が成立する前の、白村江の戦い以後の混乱期と対比出来るかもしれない。日本列島を統合し武力対決姿勢を示すのは望ましい手段だが、誰がどの様に統治するか、話合いでは決着が付かないのは時代を問わない普遍事項だ。卑弥呼や台与が奈良朝の女系天皇と同じ役割を演じたとすれば、公孫氏や魏に朝貢して宥和を図る勢力が、卑弥呼を担いだ可能性がある。狗奴国はそれに反対する勢力だったとしても、必ずしも地域対立ではなかった筈だ。

暫く宥和派が勢力を維持し、やがて国粋派が台頭するのも良くある話で、武断的なヤマト権力が成立し、半島に出兵した。鮮卑族が華北に侵入して西晋王朝が滅亡し、満州に靺鞨が侵入して扶余が滅亡すると、北からの軍事圧力が弱まり、武闘派に有利な情勢下で、馬韓に百済、辰韓に新羅という友好勢力を育成した。百済は扶余の遺民を帯方郡に傭兵として抱え、韓族統治を委任した勢力で、新羅は入れ墨までして倭人と親和的だった弁韓と、彼等と親和的な辰韓の漢系移民を統治する勢力であった。韓族は自己統治出来なさそうだったから、扶余の遺民を呼び込んだのだろう。この経緯は「倭人伝に見る日本(宋書)」に書いた。当初は高句麗が強勢で、実質的には高句麗と倭国の戦争だったが、倭人の目的はあくまでも半島南半分の軍事的優勢を確保し朝鮮海峡の安全保障を守ることだから、高句麗は中華帝国と親和的ではないということが分かれば、倭人は無理に高句麗と戦う必要はなく、やがて停戦協定が結ばれただろう。倭人が、農業生産に乏しく交易の利益が薄い土地に領土野心を持つ筈はないだろうから。

半島の三国は倭人と関係なく、自国の覇権の為に争い続けた。倭人内部に百済派と新羅派が生まれ、海を通して行ける高句麗と親交を結ぶ者も現れただろう。

新羅は成立過程が分からない国だが弁韓を母体とした国だから、日本的な要素を多分に持っていた。中華的父系制が失われて庶民は姓を持たず、王族は近親婚で血統を守り、時に王族の女が女帝になる。衣服も倭と似ていた。元漢人だから父祖の言葉はシナ語族的なSVO言語の筈だが、新羅語を元祖とする今日の朝鮮・韓国語が日本語と同じSOV言語なのは、倭人語の文法を取り入れたからだと考えられる。現代韓国語は弁韓語彙の中華訛りを基礎に、新羅の半島統一以後韓・濊の言葉と混合し進化し、現代日本語とはかなり違っているということだろう。

百済には半島の貴種である扶余の遺民だというプライドがあったと思われる。隋に申告した建国の歴史にそれが現れている。魏志によれば、扶余には殷王朝の系譜伝承があり、倭人は殷に親和感があった故に扶余にも親近感があり、馬韓の経営を任せたのだろう。

魏志に、倭人は骨を炙って割目の形で吉凶を占う。その方法は中国の作法に似ている(令亀法)と書かれ、殷の習俗を受け継いでいたらしい。卑弥呼の墓に奴婢百余人を殉葬したが、東夷でこの習俗を持っていたのは扶余だけだった様に書かれている。殷では王の墓に多数の人間を殉葬したことが知られている。殷では女性の発言力が強く、婦好という女傑を生んだが、男女の区別がない倭人の特徴と似ている。魏志に記す倭と、殷の共通点で、扶余には無いものがあるから、倭人は扶余を通して殷の習俗・宗教を学んだのではなさそうだ。倭人は海の交易者であり、殷人は商人の元祖だから、宝貝の交易で両者が密接な関係を持ったと推測され、関東縄文人のミトコンドリア遺伝子解析で、漢人系が見つかるのはその名残ではないかと思われる。

新羅が半島を統一することに倭人が異を唱える必要はない。この観点で新羅の半島統一のドラマは分かりにくい。百済と新羅いずれかを選択しなければならなくなった倭国として、一応百済の応援をして唐と戦い、最終的に新羅の半島統一を是認したが、敗者に優しい日本人は、日本書紀で百済の顔を立てたという事だろうか。

朝鮮半島の民族独立意識は、倭人が半島を中華帝国と日本列島間の緩衝国として育てた必然の結果かもしれない。日本は必要に応じて半島の人々を援助する必要があるだろう。その文脈では日韓併合後の半島振興は正しい判断で、戦後の半島の独立は旧来の状況に戻ったことになり、日本にとって望ましいことになる。多少の不都合は我慢して半島の人々の国威発揚を援助するのは伝統政策の延長上にあることになる筈だ。

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2013年2月19日 (火)

日本人を形成する人種(極東の海洋は倭人の海だった)

縄文時代、弥生時代、古墳時代、倭人は大陸の人達に日本列島の地理と航路を秘密にし、列島周辺の海洋を独占していた。そのためこの時期に他民族が、民族移動として列島に侵入する事はなかった。男性の出入りの軌跡はY遺伝子から見当が付くので、その状況を検証する。

現代日本人のY遺伝子構成は周辺民族との共通性に乏しい。

本土日本人は D2が4割、O2bが3割(大半はO2b1)、O3が2割弱、 C1、C3、Nが数%

アイヌの人は D2が9割、C3  が1割、

沖縄の人は D2が6割、O2bが2割強、O3が2割弱。(O2b中のO2b1比率は不明)

D2は日本人独特の遺伝子で、日本以外のどこにもいない上に多数の変異を内包しているから、旧石器時代から列島にいた事が分かる。O2b1はD2ほど多くの変異を持っては居ないが、やはり長い歴史を持ち、韓国と東南アジアに少し居る以外はどこにも居ない。O3は中国北部に多く、C3はシベリアに多い。D2、O2b、O3、C3の流入イベントを検証すれば、日本人男性の95%はカバーする。

1万5千年前の日本列島にはD2の人達しか居なかった。当時は氷河時代で、海面は現在より140mほど低く、北海道は樺太・シベリアに繋がっていたが、他の人種は来なかったか、来ても排斥された。暖かくなり始めた1万4千年前頃、C3の人達が北から来た。現在でもバイカル湖畔にはC3が多く、シベリアで氷河期にマンモスハンターと呼ばれた人達の子孫だと推定される。同時代にベーリング海峡を越えてアメリカ大陸に移住したから、気候変動により移住を余儀なくされた時期だったと推測される。北海道を始め、この時期の日本各地の遺跡に細石刃と呼ばれるシベリア起源の石器が発見され、C3の人達の軌跡が確認できる。D2とC3の人が混ざり、アイヌの原型となる人種が出来た。

氷河時代が終わる1万3千年ほど前、O2b1の人が土器の製作技術を持って南から日本列島に来た。氷河時代に針葉樹林だった日本列島は、南から落葉広葉樹林や照葉樹林が広がり始め、堅果類が採れる樹木が茂る様になり、それに依存する人としてO2b1が北上して来た。堅果類は加熱調理しないと消化しない澱粉質の食料だから、それを食料とするためには土器が必要になる。地球が温暖化しつつあるこの時期に加熱調理用土器は南から伝わるのが順当で、北海道や半島から伝わってくる道理はない。氷河時代には東シナ海は大半が陸地で九州より暖かく、現在の日本列島の様に落葉広葉樹林や照葉樹林が広がっていた。地球の温暖化と共にその地の人達が北進して日本列島に移住するのは、海が無ければ自然な事だったが、現実には海が日本列島と大陸を隔てていた。氷河時代には東シナ海大陸と九州の間の海峡は狭かったが、九州が落葉樹の森になり始めた1万4千年位前から温暖化と共に海面が急上昇し、大陸が水没し始めた。長崎県にある日本最古の縄文遺跡泉福寺洞窟は12500年前頃と推定される。当時海水面は氷河期から60m上昇し、現在より80m低かったが、人が移動したのはそれ以前の事になる。当時五島列島と九州は陸続きだった。東シナ海大陸の海岸は現在の中国と九州の中間辺りで、そこから岬の様に北東に突き出た半島の先端に、現在の数倍の広さの済州島(当時は山)があった。済州島と朝鮮半島の間には狭い海が湾入し、そこに黄河や華中の河など現在渤海と黄海に注いでいる河がすべて流れ込んでいた。済州島と五島列島の間の100kmの海を渡れば日本に着くが、間に島はない。洪水や嵐で海に押し流され、海流に乗って日本に流れ着いたという想定が尤もらしい。

O2b1はO2bの中の特殊な人達という意味で、人口が多いからO2b1として特出ししているのだから、流れ着いた元祖の人は極少人数だったのだろう。ある家族が流れ着いて子孫を増やしたという単純な話ではなく、何千年かの間に何百という男女が流れ着いたが、広葉樹林が未成熟な時期には時期早尚ということで定着できずに死滅し、適切な時期でも配偶者が見つからなければ、子孫を遺す事はできない。幸運な男女ペアが核になり、その後の漂着者の一部を拾い上げて子孫を遺す事に成功したという事ではなかろうか。温暖化が進展して東シナ海が拡大すると、もう生きて漂着する人は絶えたという状況が尤もらしい。

東シナ海大陸で日本の縄文時代風の生活をしていた人達が九州に上陸し、日本列島の縄文時代が始まった。この人達の故郷は現在水深100mの海底だから、遺跡は発掘できない。後で理由を説明するが、この人達は海洋の航海は苦手だったらしい。この人達は縄文早期に鹿児島の「上の原遺跡」などで高度な縄文文化を開花させた。本州にいたD2の人達にも土器を使って堅果類を食料にする事を教えたが、運悪く7300年前に九州の南の海底火山(鬼界カルデラ)が大爆発し、文化の中心地は壊滅してしまった。四国辺りに住んでいた人達は紀伊半島や南関東に逃れた。これにより、D2+C3と共存するO2b1が生まれ、縄文人が誕生した。現在九州から青森までD2とO2b1はほぼ均一に分布している。

アイヌの祖先である北海道の縄文人は船で津軽海峡を越えて移動し、千島列島や樺太を往来したが、アイヌからO2b1は見つかっていない。O2b1が津軽海峡を越えなかったのは、海を渡る航海術が未熟な人達だったからだと解釈される。アイヌが漁労採集民であり続け、和人が農耕民族になった違いを、O2b1の人達を受け入れたかどうかで説明する事は、リスクはあるが魅力的である。アイヌの言語と倭人の言語の違いも、この理由が大きく影響している筈だ。逆にD2は海洋民族的素質を持って九州まで拡散し、更に西南諸島に進出した。現在沖縄の人達のD2比率が高いのは、海洋民族の子孫という事で説明できる。

中国人は有史以来、隋代まで、日本列島や西南諸島に渡航せず、O3とO2b*の人達は倭人の船で日本列島に来た。倭人は、中国人が海上を航行できる船を持つ様になってからも1000年以上の間、中国人に渡航ルートを教えず、列島の地理の秘密を守り続けた。これは組織力と団結力の結果だから、大陸の人には大陸と日本列島を往復させず、必要ない人は連れても来ないとする掟が厳然と存在し、1000年もの間秘密を守ったということだろう。漢代以降は中国船の方が大きかったかもしれないが、それにも拘らず地理も航路も教えないことにより渡航を拒んできた。中国の歴史書を見ると、故意に嘘を教え、日本列島の位置を実際より遠方にあるかのように錯覚させてもいた。うっかり流されたり、紛れ込もうとしたり、航路を探索しようとした船に対しては、秘密を守る為に必要な処置を取っただろう。

倭人は、後漢の頃から奴隷交易をし、一部を日本にも運んで農業労働者や工人とし、更に技能者や知識人として使い、後世それを帰化人と呼んだ。彼らは必ずしも戦争捕虜や拉致された人ではなく、財貨で交易された移民集団や技能者を多く含み、後世帰化人と呼んだ。最近の歴史家は帰化人を渡来人と呼ぶが、渡来人とはその人の意思で来た人を意味し、財貨として運ばれてきた人を意味しないから、やはり譲っても帰化人と呼ぶべきだろう。隋の使者は山口県辺りに中国人の秦王国があったと記しているから、運ばれて来た人達は奴隷という言葉からイメージされる様な待遇を受けていた訳ではなく、一定の年貢や生産物を収めれば、家族や統治組織を持つことを許された人を多数含んでいたと思われる。常識的にはその方がより多くの生産物を獲得できたと思われる。

現代日本人で、Y遺伝子O3とO2b1ではないO2b(朝鮮半島出身者)の合計が2割以上だということは、古墳時代に大量移民があった事を想定しなければならない。古墳時代の人口は150万人位だったから、古墳時代300年の間に60万人以上を運んで、漸く今日の2割弱になるのではないかと考えられる。移民の子孫の生存率を倭人の半分とした推定だが、倭人の女性が移民の子を産むとは考えられないし、移民女性の一部は倭人の子孫を遺す役割に回っただろうから、かなり少なめの見積もりではある。ともかくそれで計算すると年平均2千人になる。

主要交易先であった江南にこの数倍の移民奴隷を送り込んだとすれば、倭人は年間1万人近い移民奴隷を扱ったことになる。別ブログで、三国時代の呉(日本は弥生時代末期)に年間1000人を送り込んだと見積もったが、古墳時代には一桁上の数を扱っていたことになる。他の物品の交易もあったとは思うが、このために朝鮮半島に万単位の軍隊を駐留させるのは、経済的には割に合うのか疑問も感じるが、秘密を守るという列島の安全保障を堅持する手段として、他の選択肢がなければ仕方なかったのだろう。韓半島の南半分の地理情報が中国人に漏れなければ、九州は楽浪・帯方から、はるか離れた海上の島にあるという幻想を中国人に与え続けられる。魏志倭人伝の里程はこの観点から紐解けば理解できるから、邪馬台国は畿内辺りにあったのであろうという結論になる。

倭から日本に変わり、民が戸籍で管理される時代になると、移民奴隷は帰化人と呼ばれるようになったが、これは倭人として精一杯の平等主義の表現だったのではなかろうか。アメリカの黒人奴隷程には悲惨でなかった移民奴隷を、7世紀の日本人が解放して戸籍民としたのであれば、アメリカより1000年以上前に奴隷解放したことになる。但し、続日本紀には奴婢の扱いについての規定が書かれているから、奴隷的存在が全くなくなったわけではなかった。

以上で、男性の移動はほぼ説明できる。それでは女性はどうだったのだろうか。篠田謙一氏著「日本人になった祖先達」(2007年)を参考に検証してみる。この本を執筆した当時篠田氏は弥生人が大陸から稲作技術を持って渡来したという説に基づいた、要領を得ない説明に終始しているが、彼が提示するデータはしっかりしているのでそれを使わせて頂き、私流の解説に流用することにする。篠田氏のデータを扱う態度は客観的で理性的だから、非常に有用である。

男性の系譜を示すY遺伝子と、女性の系譜を示すミトコンドリア遺伝子を、海洋に囲まれて地理的に孤立していた日本列島への移住は倭人の管理下にあったという前提で解析すると、面白いほどに因果関係が明確になり、民族という単位を形成・維持したのは男性だった事が分かる。その男性集団が、遺伝子的観点で、相手女性集団を変えてしまうという現象が頻繁に起こっている。新石器時代には民族間で女性を遣り取りする習俗があった様だ。

現代の日本女性のミトコンドリアDNAの多様性は、男性と比較すると非常に高い。これは海外から多数の花嫁を迎えた結果である。既に縄文時代にそれが活発に行なわれた証拠が、縄文人のミトコンドリアDNAの多様性の中に刻まれている。

先ず、旧石器時代の遺伝子を残していると推測される北海道縄文人のミトコンドリアDNAの解析から始める。分類記号であるアルファベットはY遺伝子とダブるが、相互の関連は全く無い。

北海道縄文人44体は、7割がN9bで他にD、G、M7aが各1割だった。サンプルは縄文時代早期~続縄文時代のもの。N9bとM7aは日本人独特の遺伝子で、N9bはY遺伝子D2との当初ペア、M7aはY遺伝子O2b1との当初ペアと考えられる。Dは東アジアで最も多い型で、満遍なく分布しているので、ルーツ解析はできない。Gは氷河期が終了してからシベリアか中央アジアで発生した型なので、Y遺伝子C3の当初ペアではない。

ここで奇異なのは、M7aが複数見出される事である。アイヌにO2b1が居ないとすれば、ペアの女性だけが花嫁として津軽海峡を渡ったことになる。以後の解析でも同様の現象が散見されるから、そういう事だと解釈しておく。

理解を深める為に、ここで参照している篠田氏の本には載っていないが、産経新聞連載記事を纏めた「日本人の起源」(2009年)に東北縄文人12体のデータが記載されているのも参考にすると、M7a5割、N9b4割、D1割となっている。M7aが最多であるということは、Y遺伝子O2b1の男性も縄文時代に東北に広がった事を示唆している。Y遺伝子は劣化が早く、古人骨からは遺伝子採取できないが、ペアであるミトコンドリア遺伝子からそれが推測される。

関東縄文人56体は驚くべき状況を示している。 D+G、Bが各2割、M,F,A,M10が各1割、M7a、M7bc、M8が数体となっている。時期は6000年前から晩期まで。Y遺伝子D2の当初ペアN9bは見つからず、Y遺伝子O2b1の当初ペアM7aも極僅かで、それ以外が多い。B、F、M7bcは中国南部から東南アジアに多く、ハワイ・ポリネシア・ニュージーランドに拡散したオーストロネシア語族は殆どBであるという特徴を持つ。M8の中のM8aは漢民族にだけ存在するが、存在の仕方が特殊だとする篠田氏の説明を掲載すると「M8aは中国各地のいわゆる漢民族集団に一定の割合で出現し、その周辺の集団には比較的少ないという特徴を持っています。おそらく中国の北部で誕生したのでしょう。Dなどと比べると決してその割合は高くありませんが、漢民族と呼ばれる人たち、特に北の集団では常に一定以上の比率で出現します。・・・・このM8aが漢民族を特徴づける指標として面白そうです。」ここではM8はM8aとして扱う。M10とAはブリヤート人に多いから、Y遺伝子C3の当初ペアに同定され得るが、それにしては比率が高いから、海外起因も考慮した方が良いだろう。

以上の事実は私が今まで展開してきた古代の倭人(縄文人+弥生人)の活動推定と良く符合する。沖縄経由で台湾に達した縄文中期の倭人は、オーストロネシア語族の人達と数千年間接して航海技術を交換し合い、倭人はそのついでにオーストロネシア語族の女性と恋愛し、その女性を日本に連れ帰った。その痕跡がBで2割を占めている。航海技術の交換も半端ではなかった事が推測される。

倭人は航海術を向上させて江南に渡り、若しかすると更に南下し、東南アジアの女性とも恋愛してF、M7bc、を連れ帰った。漢書地理誌に書かれた、海南島の民が倭人女性と同じ貫頭衣を着ているということは、そこに出掛けたのは倭人男だけでなく、倭人女性も出向いたか、倭人が連れ帰った女性かその子孫が、倭人習俗を持って再び故郷に戻ったかの何れかだろう。縄文時代の長い交流が文化の類似性を産んだと解釈されるから、略奪婚ではなかったことになる。

M8a、即ち漢人の女性が居るという事は、二里頭や殷・周への宝貝の販売代金が女性という財貨で支払われた可能性を示す。M8aは漢人男性の当初ペアだったと推定されるから、二里頭時代にはその比率は高かったと思われるが、支払われた総女性財貨はM8aの数倍だったとすると、子孫は実質1割程見込まれる。それにしても、海洋交易民族であるY遺伝子D2は余りに多数の女性を日本列島に連れ込み、当初ペアだったN9bは居なくなってしまった。Y遺伝子O2b1の当初ペアだったM7aも僅かしか見つからない。関東平野の縄文人はブームの様に江南・東南アジア巡りをし、宝貝交易と花嫁探しに邁進していたらしい。縄文時代早期から居たらしいのはD、G、A,M10で、M8効果を勘案すると3割にしかならないのに対し、海外から連れ込んだ東南アジア系と漢人は、B、F、M7bc、M8、M8効果を勘案したD、で5割近い。縄文人は南にだけ進出したとも言えず、沿海州とも交易していたから、北方系のA、M10もその過程での恋愛の結果である疑いも拭えない。

数千年かけてという事ではあるが、関東在住の海洋交易民族であるY遺伝子D2を持つ縄文人男性は、旧石器時代のペアだったミトコンドリア遺伝子をほぼ完全に失い、縄文前期までのペアだった混合ミトコンドリア遺伝子の半分以上を失い、海外由来のミトコンドリア遺伝子に変えてしまった。検体となった関東縄文人はいずれも海や河川に近い遺跡の人骨だから、海洋性の強かった倭人だと思われる。八ヶ岳山麓ににあった大きな縄文集落の住民は海洋性倭人とは言えないから、東北縄文人の様な状況で、列島全体がこの様な状況であったわけではないとは思うが、大変な事態を引き起こしているのは事実だ。

関東は縄文時代最大の人口密集地域だったから、縄文時代の倭人の指導的存在だったのかもしれない。少なくとも、南海の縄文人のお手伝いとして沖縄経由で江南や華北に進出し、宝貝交易に参加したということではなく、相当深く関っていたことになる。既にこの時代に倭人は、交易の為の何らかの組織体を持ち、その組織は関東縄文人を中核的に含む広範囲の組織だったと言えそうだ。更に言えば、これだけ混血すれば体形や顔付きも相当変貌していた筈だ。ミトコンドリア遺伝子Bが2割もあれば、言語も彼女等の影響でオーストロネシア的になってもおかしくはない。

全くの想像であるが、縄文中期以降、関東で成人した健常な男子は、海外経験のある指導者に率いられて台湾・江南・渤海湾にまで交易に出掛け、色々体験し、何人かは花嫁を帯同して帰還し、その後家庭を営むという、勇壮でロマン溢れる生活をしていたことになる。彼らが稲作農耕民になるのが、日本で最も遅かったというのも何となく頷ける感じがする。

余談だが、漢書地理誌に書かれた倭の100余国には関東の国も含んでいたことになる。倭の五王であった武の上表文に書かれた、毛人55国、西の衆夷66国併せて121国と符合する。

更に余談であるが、日本の皇室が彼らの血筋なら、系譜は恐ろしく遡ることになり、京都の人が関東の人達を東夷と呼ぶのも見当外れで、皇室は東京の故郷に数千年振りに戻ったということになる。笑い話に聞こえてしまうが、可能性は否定できない。奈良時代までの天皇家では、ミトコンドリア遺伝子を保存する婚姻が続いていた疑いがある。つまり、皇族の女性は天皇一族の妻になるという事で、こうしてミトコンドリア遺伝子も保存され、「おほきみ」の家系が尊い血筋を維持したと看做された可能性もある。

次に現在の沖縄の人を検証したい。372検体で、Dが4割、M7aが3割弱、Bが2割弱、Aが1割弱、M7ab、N9bが5%程、その他少々となっている。関東縄文人にあったGが欠落し、M7aが3割居る。篠田氏によれば、ミトコンドリアDNAは代謝に関係し、寒冷地向きと温暖地向きがあるとの事なので、現在シベリア北部やカムチャッカ半島で優勢なGは沖縄では生存しにくかった可能性がある。関東縄文人ほど浮気性ではない様だが、やはりM7aが多くN9bが少ない。Y遺伝子D2縄文人が、南から来たY遺伝子O2b1縄文人のペアを、ミトコンドリア遺伝子Dの次に多い相手にしてしまった。海洋民族で交易者だったY遺伝子D2が、本土から沖縄に配偶者として連れて行くのに、自分の一族の娘N9bよりも、異民族だったY遺伝子O2b1の娘をより好んだ。更に言えば、北方系Aは一旦列島に連れ込んでから再移住させたであろうが、それもN9bより多い。現代の日本女性にはN9bは2%しかいない。他のミトコンドリアと比べて何か生存上不利な要素か、母娘遺伝の病原を持っていたという様な特別な理由がなければ、N9b女性がひどく嫌われたことになる。

篠田氏によれば、沖縄のM7aは最も変異が多く、沖縄がM7a発祥の地であるかの様であるらしい。しかし沖縄は新石器時代になってしばらくの間、人類生存の痕跡がなく、縄文時代早期から中期に本土から人が渡ったらしいという考古学的検証があるから、M7aの沖縄発祥説はありえない。ともかく、縄文時代の最大のM7aの集積地は沖縄になり、弥生時代以降改めて沖縄のM7aが本土に再度拡散したことを意味する。想定できるシナリオは、N9bの様に、本土では一旦M7aはほとんど消滅し、再度沖縄から、他のミトコンドリアDNAの様な海外花嫁に衣替えして流入したことになる。縄文・弥生時代の男性は海外からの流入遺伝子を喜ぶ風潮があった様だ。隣の芝生が青く見えたのだろうか、それとも現代の様に根付いた女性とは口論しても叶わないから敬遠したのだろうか。この場合、東北縄文人の様にミトコンドリア遺伝子M7aやN9bを保存していた内陸縄文人と、海洋縄文人の関係が問題になる。縄文晩期に内陸縄文人の人口が激減した様だから、そこに理由があるのかもしれない。食料不足に陥った内陸縄文人は娘を財貨として食料と交換することを潔くないと考える人達だったことになる。そして彼らの人口は激減したのだろうか。

別のシナリオも考えられる。縄文交易が盛んになると皆が交易をしたがり、東北以外では海洋縄文人と内陸縄文人という区分が消滅した可能性もある。夏は八ヶ岳の裾野や安曇野に住み、冬は房総海岸に住むという2重生活者で、縄文晩期には夏の家を放棄したことを意味する。その辺りを検証できる証拠はまだ見つかっていない。

本土の縄文男性は盛んに海外の女性を求めたが、沖縄の男達は現代に至るまでさほどでもなく、その熱が薄かったのは何か理由があったのだろう。彼らは交易基地提供者で、真の交易者は本土から玉や黒曜石・琥珀などの交易品を持って中国大陸に出掛けた関東の縄文人だったという事かもしれない。M8aがいないから、宝貝も、彼らは採取するだけで、関東縄文人が交易を仕切っていたということらしい。沖縄で農耕が始まったのは10世紀以降という説が有力だと看做されているが、それは違うという事になる。交易で得た財貨で食料を輸入していたかもしれないが、縄文時代から焼畑農耕も行なわれていたと考えるべきだろう。M7a沖縄起源はそれでなくては成り立たないし、多数の縄文人が沖縄を通過して江南に向う為には、食料供給も必要だったと思われる。

篠田氏は山東・遼寧地域、韓国、日本の間ではミトコンドリア遺伝子の多彩な構成が近似している事を示し、何か意味付けしたがっているが、縄文人のこの有様を見れば、山東・遼寧地域から多数の移民奴隷を迎え入れた古墳時代以後の倭人のミトコンドリア遺伝子が、その地と類似しているのは当然だろう。韓半島の住民は元々山東・遼寧地域から流入した移民が多い筈の地域だから、両者の類似は当然だろう。山東・遼寧地域もミトコンドリア遺伝子の多様性の豊かな地域だが、それはその地域の物産の豊かさを示しているのだと考えられる。古代では、鉄などの必要資源を得るために、女性という有力財貨で支払われることもあっただろう。食糧生産性が高ければ、自然に周囲の貧民が集まって、娘を売りもしただろう。

弥生時代に北九州に居た人達の78体の統計では、M7aもN9bもいない。関東縄文人との違いは、N9a、Zが加わっていることだろうか。N9aは中国の南部や台湾に多いから、江南との交流が想定される。Zの分布は良く分からないので論評しないが、吉野ヶ里遺跡の時代に倭人は連合国を作って漢と交易し、広範な地域から女生口が九州に送られて来て、当地の人と混合しただろうから、弥生時代以降のミトコンドリア遺伝子構成で何かをコメントするのは難しい。現代日本人に更に複雑な組み合わせが現れているのは、古墳時代に大量の移民奴隷を送り込んだ結果で、民族移動とは関係ない話になる。

以上から分かるように、縄文人的骨格とか、弥生人的風貌とかの概念は意味を持たない。関東の中期縄文人は既に海外女性との混血で、時代が降るほどに当初の純血性は失われていく。北九州の弥生人には当初縄文人のミトコンドリア遺伝子が存在していないから、混血男性が更に海外女性との間に設けた子供という様な関係を重ねていた疑いがあり、縄文的風貌という言葉が何を意味するのか一考を要する。弥生人とは混血児の事に他ならないことになる。それでも猶縄文的風貌が見える頭骨が発掘されるのであれば、その形態は環境要因ということになってしまうだろう。

倭人と日本人に関しては、海という障壁があったお陰で、この様な生々しい情景を描写できるが、陸続きの大陸内部では更に複雑な動きがあっただろう。日本人と比較すると、山東・遼寧や韓国の方が複雑で細分化された構成になっている様に見える。倭人は遠くまで航海して集めたのだが、大陸の民はどうやって遠方のミトコンドリア遺伝子を集めたのだろうか、不思議な事だ。

  ここで、縄文人が海洋民族になった理由についてもう少し深く検討してみたい。北海道の縄文人は樺太に進出してアスファルトを採取し、千島列島に進出して海獣を捕獲していた。どんな船を使っていたのか分からないが、1500年以上前から、続縄文人やアイヌが使い続けてきたイタオマチプという最大20人程が乗れ、オールで漕ぐ舟があったから、そこから縄文時代の船を想像出来るかも知れない。イタオマチプは釘を一切使わず、ロープや樹脂などを使って建造した船だから、類似の船は縄文時代にも作れた筈だ。丸木舟の上に舷側用の板を張り、オールを固定する突起がその上にあり、舳先も海の波が切れる様に切りあがり、アイヌはそれで千島列島を往来した。アイヌは縄文人とは違う文化の人(別の人種という意味ではない)だから、全く同じ船とは言えないかもしれないが、類似の構造だった可能性はある。

 縄文時代前期(BC5000年以降)、Y遺伝子D2の稚拙な海洋民族が、関東辺りの海岸でY遺伝子O2b1から樹木を加工しやすい石器の作り方を習得し、沖縄を南下して台湾に到達し、オーストロネシア語族の人達と数千年の交流の後に航海技術を高度化し、中国沿岸で交易を始めた。青銅器時代(縄文時代)に既に中国人の戦争の仕方に恐怖を感じ、中国の勢力が列島に及ぶ事を極度に恐れた倭人は結束し、中国で鉄器が使われ始めると色々な工作をして中国の造船技術を盗んだ。徐福伝説はその工作が始皇帝にまで及んだという事だろう。しかし大型船を作る技術競争に勝つ見込みはないと判断した倭人は、日本列島の地理を中国人に偽って教え、渡航ルートを隠し、日本列島ははるか大洋の彼方にあって中国人には渡航できないと思い込ませ、秘密結社的団結で真の情報を秘匿した。この方法は大変有効で、1000年間中国人を騙し続け、日本列島への中国船の渡航を阻止し続けた。

 中国の勢力は時代を追うごとに朝鮮半島を南下し、古墳時代に高句麗が半島を統一しそうな勢いになると、倭人も国家統合して半島に出兵し、南半分を勢力圏に納めた。商業民族であった倭人は、農業生産性の低い半島を領有する積りは無く、現地人国家を統制するために、職業軍人を多数常駐させた。5万の兵を動員できる高句麗と対抗するためには、同等の兵を送り込んでいたと思われる。費用は交易で捻出し、食料は関東に移民奴隷を入植させる事で賄った。

 唐代、中国は遂に半島南部にまで勢力を広げ、倭人の伝統的安全保障政策は破綻し、朝鮮海峡の地理的秘密は暴露された。これにより、倭人国は破綻・壊滅し、新たに親唐的で海洋交易を好まない政権が生まれ、鎖国的な日本が誕生した。飛鳥時代末期の事になる。江戸時代初期まで東南アジア経由で明との交易に活躍した日本人が、キリシタン禁教と鎖国によって突如江戸時代日本人になった状況と似ているかもしれない。

 この日本政権は倭人国の伝統を破棄し、沖縄を見捨て、唐に媚を売り、唐の制度を積極的に導入した。日本人は倭国時代を忘れ、唐に献上するために書いた日本紀物語を日本の歴史だと誤解するまでになった。日本書紀は隋・唐に反抗的だった倭国の歴史を抹殺した意味不明の物語に過ぎない。唐は中国船による交易を志向し、9世紀以降は唐の船が日本の港に来航する様になる。宋代には中国船が交易の表舞台に登場し、中国人が博多に常駐する様になった。沖縄は日本を見限り、10世紀以降独自の交易による発展を目指し始めた。

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